木洩れ日抄 113 ポップコーンと映画
2024.10.8
近頃、ほとんど映画館に行っていない。見たい映画がないわけじゃない。むしろ山ほどある。けれど、2時間、映画館の座席に座っていられる自信がないのだ。トイレの問題である。年をとったからということもあるかもしれないが、けっこう昔からこれが問題だった。2時間を越えるともういけない。あと30分がどうしても我慢できずに、席を立ってトイレに走ったことが何回もある。
なんていう映画だったか、タルコフスキーだったか、誰だったか覚えていないのだが、最後の方で、えんえんと葬式だかなんだかの行列がゆっくり踊りながら進むシーンがあって、そのときもう限界となってしまって、トイレに走っていったのだが、帰ってきたらまだその行列のシーンが続いていたということがあった。それならそれでいいのだが、進行の早い映画だと、やっぱり困る。
で、2時間越える映画は行かないことにしたが、そのうち、2時間越えない映画も行かなくなってしまって、今に至るわけである。
トイレだけではない。割と最近行った映画館では、場内はガラガラなのに、すぐ近くに座った若い男が、上映中ず〜っと、ポップコーンを食べていて、気になってどうしようもなかった。いったいどうして映画を見ながらポップコーンを食べるのだろうか、と長いこと疑問だったのだが、あれは、映画館が収益を上げるためだということをどこかで読んだ。あれを売らないとやっていけないというのだ。そんなことってあるだろうか。しかしまあ、ポップコーンっていうヤツは、ほんの少量のコーンが大量のポップコーンに変身するわけだから、綿菓子と同じで、ボロもうけの商品であるから、頷ける話ではある。
そういえば、ぼくが子どもの頃の映画館では、映画の合間に(もちろん3本立てとか2本立てだったので)、「おせんにキャラメル〜」とかいって、売り子が歩いていたものだ。キャラメルはともかく、おせんべいは音がうるさかっただろうが、ポップコーンのように長持ちしないから、「音害」は少なかったかもしれない。
あの頃は、映画館の中はもちろん「禁煙」なんかじゃなかったから、映写機から一筋流れる青っぽい光には、タバコの煙が得も言われぬ渦模様を描いていて、映画の中身より、そっちにうっとりしていたのかもしれない。
今じゃ映画館も、1本終わると外へ追い出される世知辛さだが、ぼくが大学生のころは、ロードショーであっても、何度でも見ることができた。だから映画が始まって1時間も経ったころに入って、終わりまで見て、そのまま座っていて最初から見て、あ、ここからは見たというところで外へ出るということもずいぶんあった。それでちゃんと見た気分になれたのだから不思議である。ネタばれなんてもんじゃない。
最初から入ったのに、2度見たことも何度もある。ぼくが大学生当時、つまり、1970年前後は、特にイタリア映画がやたら元気で、パゾリーニやら、ビスコンティやら、フェリーニやらといった大御所の新作が続続と公開された。映画館は、日比谷にあった「みゆき座」とほぼ決まっていた。パゾリーニの映画なんて、一度見ただけじゃさっぱり分からないものがあって、「テオレマ」などは、その最たるもので、2度見た。それでも分からなかった。
その最後のシーンときたら、主人公の男が、駅で突然全裸になって、両手を挙げて叫びながら歩いていくというもので、最前列で見ていたぼくの隣に座った若いサラリーマン風の男たちが画面を指さして大声でゲラゲラわらったのをよく覚えている。そのシーンは、砂漠を裸で歩いていく男とモンタージュされるので、意図はむしろ分かりすぎるのだが、そこまでの展開がワケ分からないので、男たちがゲラゲラ笑ったのも、しょうがないかもしれない。
しかし、そんなことより、あの「みゆき座」が、最前列まで埋まるほど人に溢れていたことが、むしろ驚きをもって思い出される。パゾリーニなんぞという、今からすれば、超マニアックな映画監督の作品でさえ、みんな、サラリーマンも学生も、押しかけたのだ。あの熱気は、いったい何だったのだろう。
パゾリーニを、ポップコーン食べながら見てるヤツなんて、どこにもいなかった。そんなもん食べてる暇はなかった。あの頃は、みんな映画を食べていたのだ。