日本近代文学の森へ 263 志賀直哉『暗夜行路』 150 密雲不雨 「後篇第四 七」 その5
2024.6.14
疲れ切った謙作は、茶屋に入り、末松にことの次第を話そうとするが、なかなか切り出せない。
少時(しばらく)して二人は二年坂を登り、其所(そこ)の茶屋に入った。謙作は縁の籐椅子に行って、倒れるように腰かけたが、今は心身の疲労から眼を開いていられなかった。節々妙に力が抜け、身動きも出来ぬ心持だった。これは病気になったのかも知れぬと彼は思った。そして、
「茶が来たよ。そっちへやろうか」末松にこう声をかけられた時には謙作はいつか、眠りかけていた。
「どうしたんだ」
「寝不足なんだ。それにこの天気でどうにもならない」
謙作は物憂い身体を漸く起こすと敷居際から這うような恰好で、自分の座蒲団へ来て坐った。
「大変な参り方じゃあないか」
「実は君に話したい事があるんだ。しかしそれを話すまいと思うんでなおいけない」
末松はちょっと変な顔をした。
「…………」
「持て余しているんだ。僕の気持の上の事だが」
しかし謙作はまだいうまいと思っている。いえばきっと後悔する事が分っていた。
「気持の上の事?」
「ああ、丁度今日の天気見たように不愉快な気持なんだ」
「どういうんだ」
「何れ話す。しかし今日はいいたくない」
今日の「天気」が重要な役割を果たしている。今日の天気のために、からだがいうことをきかない。今日の天気のように不愉快な気持ちだ。謙作は、天気の支配下にある。この天気は、謙作の感情そのものだ。
謙作は、末松に、以前末松がその関係に悩んでいた商売女のことに話題を転じる。嫉妬に苦しんでいた末松の気持ちと自分の気持ちを比べてみようと思ったわけだが、末松の場合は女に対する疑心暗鬼が問題だったのに対して、謙作の場合は、問題はすでにはっきりしているという違いがあった。少しずつ、謙作は語り始める。
「疑心暗鬼ではない。しかし事件としては何も彼も済んでいて、迷う所は少しもないのだ。ただ、僕の気持が落ちつく所へ落ちつかずにいるんだ。それだけなんだ。それは時の問題かも知れない。時が自然に僕の気持を其所まで持って行ってくれる、それまでは駄目なのかも知れないんだ。が、とにかく今は苦しい」
「…………」
「しかし一方ではこうも思っている。今直ぐ徹底的に僕が平和な気持になろうと望むのはかえって、自他ともに虚偽を作り出す事だとも。その意味で、取らねばならぬ経過は泣いても笑っても取るのが本統だという考えもあるんだ」
「…………」
「抽象的な事ばかりいっているが、そうなんだ」
「大概分ったような気がする。そしてそれは水谷に関係した事なのか?」
「いや、直接関係した事ではない。露骨にいえば水谷の友達で直子の従兄がある。それと直子が間違いをしたんだ」
「…………」
「それも直子自身に少しもそういう意志なしに起った事で、僕には直子が少しも憎めないのだ。再びそれを繰返さぬようにいって心から赦しているつもりなのだ。実際再びそういう事が起こるとは思えないし、事実直子にはほとんど罪はないのだ。それで総てはもう済んだはずなんだ。ところが、僕の気持だけが如何しても、本統に其所へ落ちついてくれない。何か変なものが僕の頭の中でいぶっている」
告白された直後、謙作は、とっさに観念的に事態を捉えることで、なんとかダメージを最小限に食い止めようとしているようにみえる。これは人間の自衛本能なのかもしれない。
「事件としては何も彼も済んでいて、迷う所は少しもない」というが、現実には「事件」はまだ始まったばかりで、「迷う」ところばかりだ。けれども、事実としては、妻は過ちを犯し、それを謙作に告白したが、謙作は、妻にはほとんど罪はないと考え、赦したつもりになっている。それでもう「事件」は終わりだとするのだ。ただ、「僕の気持が落ちつく所へ落ちつかずにいる」ことが苦しいという。この「僕の気持ち」の問題は、時間の問題で、いずれ解決するだろうと言うのだ。
もちろん、それは当座の頭の中での解決で、真の解決にはほど遠い。本当に厄介な問題は、「僕の気持ち」なのだ。
謙作は、直子の告白を聞いた直後に、お前は邪魔だ、俺がこの問題を解決するんだと言い放ったのだが、それがどれだけ間違った認識だったのかを、あとで痛いほど知ることとなる。けれども、まだ、この時点では、謙作は、自分の感情が、あるいは肉体が、どれほどのダメージを受け、それがどんな行動を自分にとらせることになるのか知るよしもなかったのだ。
いくら謙作が直子を「赦したつもり」になっていても、直子に「罪はない」と思っていても、それは謙作だけの勝手な判断にすぎない。それで「事件」が終わるわけではない。直子がどう思っているかが肝心なことで、直子は「赦された」と単純に思っているはずはない。「赦したつもり」の謙作が直子に憎しみをほんとうに感じないかといえば、それもおぼつかない。憎しみは、持続するとは限らない。波のように繰り返し打ち付けるかもしれないのだ。
その予兆のようなものを、「何か変なものが僕の頭の中でいぶっている」と表現していると言えるだろう。
謙作の話を聞いて、末松は、時の経過を待つしかないが、それとともに、感情を意志で乗り越えるべきだと言う。
「それは君のいうように時の経過を待つより仕方ないかも知れない。現在はむしろそれが自然だよ」
「それより仕方のない事だ」
「無理な註文かも知れないが、事件として解決のついた事なら、余り拘泥しない方がいい。拘泥した所で、いい結果は生れないから。つまらぬ犠牲を払うのは馬鹿馬鹿しい」
「ただ、当事者となると、よく分っている事で、その通り気持が落ちついてくれないのが始末に悪いんだ」
「本統にそうだ。しかし意志的にも努力するのだな。そうしなければ直子さんが可哀想だ。感情の問題には相違ないが、君のように事件が十二分に分っているとすれば、感情以上に意志を働かして、それを圧えつけてしまうのは人間としても立派な事だと思う」
「君のいう事に間違いはない。しかし僕としてはそれは最も不得手な事だからね。それとたとえ直子に罪がなかったとはいえ、僕たちの関係からいえば今まで全然なかったもの、あるいは生涯ないとしていたものが、出来た点で、今までの夫婦関係を別に組み変える必要があるような気がするんだ。極端な事をいえば仮に再び同じ事が起っても動かないような関係を。──もっとも、こんな事をいうのからして、君のいう事を本統に意志してない証拠かも知れないが」
「まあ、それは無理ないと思うけど……」
「密雲不雨という言葉があるが、そういう実にいやな気持がしている」
「それはそうだろう。しかしとにかく、君にとって、これは一つの試練だから、そのつもりで充分自重すべきだな」
時の経過を待つよりしかたがないという末松だが、「事件として解決のついた事なら、余り拘泥しない方がいい」という。しかし、これもまた観念的な言い方だ。ついさっき起きた(少なくとも謙作の心の中で起きた)事件が、すでに解決済みということはないだろう。頭では解決していても、謙作の感情がついていかないのだから、それを「解決」とはいえない。いろいろと「拘泥する」ことがあるから、謙作の心も落ち着かないのだ。「時の経過を待つ」というのは、座してただのうのうと待つことを言うのではない。むしろ謙作の言うように、「取らねばならぬ経過は泣いても笑っても取る」ことだ。その「経過」には、当然ながら様々な「拘泥」があるはずだ。相手をなじり、追求し、罵倒し、といったそれこそ泥まみれの「経過」があるはずだ。その「経過」がなくて、「赦す」ことなどできるはずがないのだ。
お前は邪魔だと直子に言った謙作も、この「事件」が「夫婦関係」の中で起きていることを知らないわけではない。しかし、この「事件」が、夫婦関係の根幹を揺るがすものだとまでは、まだ感じていない。
だから、「たとえ直子に罪がなかったとはいえ、僕たちの関係からいえば今まで全然なかったもの、あるいは生涯ないとしていたものが、出来た点で、今までの夫婦関係を別に組み変える必要があるような気がするんだ。極端な事をいえば仮に再び同じ事が起っても動かないような関係を」というようなトンチンカンなことを考えるのだ。ことは、そんなに単純に観念的に運ぶものではないことも、やがて謙作は知るはずだ。
「密雲不雨」という天候に関する言葉が、この後の展開を見事に暗示する。「密雲不雨」とは、「兆候はあるのに、依然として事が起こらないことのたとえ」だが、謙作は、夫婦関係の新たな姿を模索しながら(たとえトンチンカンであったとしても)、「事件」が決して解決済みではないことを実は痛切に感じ取っているのだ。むしろ、これから何が起きるのか、不安の真っ只中にいるといったほうがいいのだろう。
そしてこの「七」は、二人が見た飛行機が、深草に不時着したという号外の件を挿入して終わる。夫婦関係の崩壊を暗示するかのような不気味な幕切れである。