木洩れ日抄 102 こわい夢を見て「課題エッセイ」をやめちゃおうと思ったことについて 【課題エッセイ 6 夢】
2023.2.7
久しぶりに、こわい夢をみた。こわいといっても、お化けが出たとかいう類いのものじゃなくて、「締め切りがあるのに、できそうもない」って類いの夢だ。
現役教師のころは、ずいぶん長い間、演劇部の顧問をやっていたのだが、公演間近になると、決まって、芝居がもうすぐ始まるのに、まだセリフを全然覚えてない、という夢にうなされた。なにも自分が役者として舞台に上がるわけでもないのに、夢の中では自分が役者になっていて、もうすぐ幕があがるという段になって、セリフが入っていなくて焦るのだ。焦っているうちに夢は覚めてしまい、幕が上がってしまったためしは一度もないのだが、それでも、目覚めたときは、心底ほっとしたものだ。
これに似た夢に、授業が始まっているのに、行くべき教室に辿り着けないというヤツがあって、これは半分は、いやほとんどが「授業が嫌だ」というつね日ごろの気分の反映で、「授業をしたい」という気分では断じてない。この夢も、教室に辿り着かないうちに目が覚める。このバリエーションが、授業に行きたいのだが、持って行くべき教科書がない、というヤツで、これも探すのに四苦八苦するのだった。もっとも、これは、実際にもあったことで、正夢のようなものである。
で、今朝見たのは、詳しくは覚えていないのだが、とにかく、なぜか2月5日までにやらなくちゃいけないことがたくさんあるのに、今は、もう1月の下旬で、それらをやる時間がぜんぜんないという夢だった。「やらなくちゃいけないこと」の中に、書展に出す作品を作るというのがあったことは確かだが、他にもなんだかゴチャゴチャあった。手帳でその間の予定を見ると(今ではその手帳すら使っていないのだが)、なんと、2泊3日ほどの中学1年生の合宿引率が入っている。ああ、これは外してもらえないだろうしなあ、しかし、そうなると実質使える時間ってほとんどないじゃん、と思って、焦りに焦っているうちに、目が覚めたのだが、いつもと違って、ああ、よかったという気分ではなかった。
どうして、こんな夢を見るんだろうとおもって、「やらなくちゃいけないこと」を考えてみると、あるにはある。仕事ではないのだが、ブログで「一日一書」として連載している「寂然法門百首」のシリーズ。これは、長男の著書を素材に、百首分を書にするというもので、100枚揃ったら長男に渡すことにしている。(ま、迷惑だろうけど)
次に、「日本近代文学の森へ」と題したシリーズで、これが「暗夜行路」の回に入ったら、123回も書いているのに、まだ3分の2程度までしか進んでいない。これらは別に期限があるわけではないが、やめるわけにもいかない。そのほか、日常の雑事で、「やらなくちゃいけないこと」はごまんとある。
そんな状況なのに、なにを思ったか、「課題エッセイ」なんてのを始めてしまったのだが、これがやってみると、なかなか一筋縄ではいかない。題を与えられて何か書くなんて、原稿料でももらわないかぎり、できるわけがない。いや、できないわけではないけど、やる気がおきない。原稿料も出ないのに、作家だか、エッセイストだかしらないが、そんなもののマネみたいなことして何が面白いのか。こんなばかなことをしているから、こんなろくでもない夢にうなされるのだと、つくづく思った。
それでも、「寂然法門百首」は、毎回どのような字体で、どのような紙に、どのように字を配置するかなどと考えながら書いているので、ちっとも苦痛ではない。苦痛に近いものがあるとすれば、なかなか落ち着いた時間がとれないというストレスだけだ。
「近代文学の森へ」のほうも、毎回、新しい発見があり、「暗夜行路」という作品のすごさが分かってくるし、友人が読んでくれていて、感想をメールしたりしてくれるので、むしろ楽しい。
それに比べると、「課題エッセイ」のほうは、自由感がないだけに、なんだか重苦しい。中学高校を通じて、ドイツ人の校長に、ことあるごとに「やるべきことをやるべきときにしっかりやれ」と叱咤激励され、というか、なかば脅迫され続けた結果、どこか体の芯に、「義務感への忠誠」みたいなものが埋め込まれてしまったみたいで、それがために、ずいぶんと苦しんできた。高校を卒業してからは、そこからいかにして自由になるかが、ある意味、生きる課題でもあったような気もする。もちろん、仕事をするうえでは、そうした「芯」に助けられたことも多かったわけだが。
しかし、今は仕事もほとんどない。せっかく仕事をやめたのだから、それこそ自由を謳歌してもバチはあたらないわけで、楽しいことしかしないと決めたはずなのに(と言っても、仕事でも「楽しいこと」しかしないという姿勢はできるかぎり守ってきたが。)いつの間にか自分で自分を苦しめている。「楽しいことしかしない」と決めたところで、実際の生活には「楽しくないこと」が山のように押し寄せてくる。それなら、なにも、自分からすすんで「楽しくない」ことなんてするべきじゃないだろう。そんなことは自明のことだ。
そのようなわけで、怖い夢から覚めて、それでも「ああ、よかった。」とはならなかったことから、「課題エッセイ」なんてやめちゃえ、という結論が導き出されるに至ったのであった。
これからは、「木洩れ日抄」の「通常版」で、気が向いたら書いていくつもり。何事も「気楽」がいちばんいいや。