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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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働き手を連行された家族

2008年03月07日 | 国際政治
 下記は、「死者への手紙-海底炭鉱の朝鮮人坑夫たち」(明石書店)の著者「林えいだい氏」が「死者への手紙」の返事を書いた「鄭 琦默さん」を訪ねた時の様子の一部である。
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 「鄭 琦默さんはいますか?」
 ゆっくりガラス戸が開いて、一人の老人が私の前にぬっと顔を突き出した。酒臭い匂いがして、焼酎瓶が横に転がっていた。キムチの食べ残りの皿が、床に放り出されている。
 日本から訪ねてきたと説明すると、鄭さんは私が韓国に出した手紙を、枕元から持ってきた。何度も読み返したのか、手紙はしわくちゃになっていた。
 「体がうすごく悪いんだ。座っているだけでもきつい。これも働き過ぎ、弟の分まで働いたから体の全部が痛い。お前の手紙を見て、昔のことを思い出して気分が悪くなった」
 と鄭さんは吐き捨てるようにいった。それから突然口をつぐんでしまった。<BR>
 「今から45年前、弟は日帝時代に徴用された。その時のことを思い出すと、もう言葉にはならない……」
 涙をためて深い溜息をついた。
 弟の現默さんが1944年(昭19)強制連行された時は、柳谷里にはもう若い者はいなかった。鄭さんも徴用を逃れるために、ずっと山奥の洞窟に隠れていた。夜になると山から出て、暗い畑で農作業を済ませ、夜明け前に弁当を持って山へ引き返して行った。
 三菱から直接強制連行にきた労務係は、にやってきては働けそうな者を探し回り、捕まえると面事務所へ連れて行った。そこにはすでに戸籍抄本が用意され、拒否することは許されなかった。
 「家の宝物を連れていったんだからね、残されたアボジ(父親)は大変なものだ。新婚早々の女房は狂ったようになった。日本人のやることは人間じゃない。恨みの相手だ。
 生きて帰ってきたのならいいが、弟を殺してしまい、日本は仇だよ。弟は死ぬために日本へ行ったようなものだ。の人たちは、ただ可哀そうなことをしたというだけで、どうすることもできない。日帝時代のことで文句もいえなかった」
 弟が強制連行された二ヶ月後の7月26日、崎戸炭鉱から死亡の電報が届いた。どのような理由で死んだかわからないまま、鄭さんは借金をして旅費をつくり、関釜連絡船に乗って長崎へと向かった。
 崎戸炭鉱の親和寮で弟と対面したがすでに火葬が終わって遺骨になっていた。
変わり果てた弟の姿に声もなく、本当に死んでしまったのかと、一夜遺骨を抱いて寝た。翌朝、弟と一緒に強制連行された同じ洛東面の三人に会わせてくれと、労務係に頼み込んだ。すると彼らは、「同郷の仲間の死を知らせると、戦意高揚に影響する」と、一言のことに鄭さんの願いをはねつけた。
 埋火葬認許証交付簿にある死因は、「左側湿性肋膜炎兼急性腸カタル」で、7月18日に発病して、26日に死亡している。鄭さんにとっては、健康であった弟がどうして死亡したのか、同郷の仲間に確かめたかったというのだ。
 鄭さんの話によると、弟の死亡補償金はもちろん、働いた賃金ももらわず、往復の旅費も炭鉱側は支払わなかったという。
 「遺骨だと渡されただけで、弟は日本のためにまるで犬死にだ。今もそのことを忘れることはない。弟の女房に会うのがつらかった。
 自分の主人が死んだんだから、補償金をもらって帰ってくるとばかり思っていたのに、死んで遺骨だけが帰ってきたのだからね」
 鄭さんは、弟の女房に説明がつかなかった。
 逆に補償金を自分のものにしたのではないかと疑われた。鄭さんの立場を考えると、女房が疑うはずである。たとえ植民地時代といえども、人間一人を死亡させた代償を払うのは当然なこと。それを炭鉱側は無視してきたわけであるから、鄭さんが心の底から怒りをぶつける気持ちはわかる。
 父親は十年後に、悲しみのうちに亡くなった。
 最期まで息子の死を信じようとせず、墓をつくっても一度も参ろうとはしなかった。
 「お前の手紙を見てからというもの、わしは朝から焼酎ばっかり飲んで、気分をまぎらわせている。どうだ一杯飲まないか」
 転がった焼酎瓶を這いながら手に取ると、飲みかけの茶碗を差し出した。
 鄭さんと会って、韓国での第一歩がこれでは大変な取材になると体がひきしまる思いがした。次の星州郡へ向かう間、韓国の遺族へ手紙をだしてよかったのかどうか考え直してみた。

 
          http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/

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高島・端島・崎戸島の朝鮮人坑夫

2008年03月07日 | 国際・政治

 かつて一に高島、二に端島、三で崎戸の鬼ヶ島と怖れられた孤島の炭鉱における労働者の実態については、語られはしても記録がなく証拠がなかった。しかし、端島の桟橋に残る石造りの門は一生出られない”地獄門”と言われ崎戸島は”鬼ヶ島”、高島は”白骨島”と呼ばれて脱出不可能の孤島の存在が人々から怖れられてはいたのだという。
 ところが、1986年、「長崎在日朝鮮人の人権を守る会」の会員が、炭鉱閉山後無人島となった端島の高島町役場端島支所の廃墟で、1925年から1945年に至る20年間の「火葬認許証下附申請書」と「死亡診断書」の束を発見し、それがきっかけで、島における悲惨な労働者の実態が少しずつ明らかにされていった。
 その経過や聞き取り調査の内容は「死者への手紙-海底炭鉱の朝鮮人坑夫たち」林えいだい(明石書店)で明らかにされているが、ここにそのほんの一部を抜粋する。

発見された資料から-------------------------
 ・・・
 端島炭鉱では、朝鮮人強制連行が始まった1939年(昭14)から1945年(昭20)まで「変死」9人、「事故死」17人で、病死23人を上回っている。埋没に因する窒息死が14人とあり、朝鮮人の死因は不自然な変死に満ちているいることがわかった。孤島という密室で何が行われたのか、外傷や打撲の変死が多く、労務係や坑内係のリンチではないかという疑問が出てくる。1944年(昭19)と翌年の45年(昭20)になると、日本人に比較して朝鮮人の死亡率が高くなっている。朝鮮人は43年(昭18)に9人から、44年(昭19)になると23人、翌45年(昭20)には8ヶ月で19人死亡している。

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 著者は、上記の資料発見をきっかけに、あちこち資料を探し回り、崎戸町役場で埋火葬許認証交付簿を手にする。そこには、1940年(昭15)から45年(昭20)までの6年間、日本人、中国人捕虜、朝鮮人のものがあったという。死因についての部分を抜粋する。
不審な死に方---------------------------
 死因で目立つのは朝鮮人抗夫の死亡者130人中に「変死」45人「事故死」32人、「病死」が53人で、端島と同様、変死と事故死が病死を上回っていることだった。事故死を見ると、落盤によるものが32人中に19人と圧倒的に多いことがわかる。変死の中で注目に値するのは、頭蓋底骨骨折や内臓破裂などが約半数以上にのぼり、不審な死に方をしている。

・・・

 (これらは)炭鉱側の医師が検死した結果であることを念頭に置く必要がある。頭痛とか風邪、高熱を訴えても、骨折や外傷がない限り診断書を書いてくれなかったと、朝鮮人抗夫たちは証言している。リンチで殺されても、変死で片付けられる場合も当然ありうることである。警察は黙殺して事件にはしなかった。
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 著者林えいだい氏は、埋火葬認許証書かれている出身地の死者宛に下記のような手紙(一部抜粋)を出し、返事のあった人たちを訪ね、当時の連行の実態を探ったのである。
死者への手紙--------------------------
 拝啓、暑い夏を如何お過ごしでしょうか。突然このような失礼なお手紙を差し上げることをお許しください。
 私のことから先に書きますが、日本の朝鮮植民地時代のこと、特に第2次世界大戦中、韓国・朝鮮人を強制徴用した歴史を調査記録して、日本政府と企業の責任を追及している者です。
 現在、北はサハリン、北海道から沖縄に至るまで、実態を調査して記録を残しています。
 九州の長崎県西彼杵郡にあった、三菱崎戸炭鉱と端島炭鉱で亡くなった、韓国人の埋火葬認許証の中に、韓国人 死亡者の名簿を発見しました。この人たちは、主に炭鉱で働
いているうちに、事故や病気で亡くなった方々だと思います。
 戦後45年経ったこんにち、亡くなったことをお知らせすべきかどうか迷いましたが、もしもその事実を知らなかったとしたら大変不幸なことだと、失礼をかえりみず思い切って手紙をしたためました。本来ならば、ご家族様名でお出しすべきでありますが、お名前がわかりませんので、亡くなられた御本人宛にいたしましたことを、重ねてお詫びいたします。
 あなたのご家族○○○○様は、19○○年○○月○○日、○○炭鉱で病名は○○○○によって亡くなられたことが判明しましたのでお知らせします。

 お願いですが、もし、事情が許すならば、徴用された当時のこと、その後の御家族様の暮らしについておたずねいたします。
 お忙しいところ誠に恐れ入りますが、お返事いただければ幸いに思います。
 9月13日から韓国のソウルで、強制徴用の写真展を開催する計画で準備を進めています。崎戸炭鉱と端島炭鉱の戦時中と、現在の写真も展示することにしています。当日は会場にまいりますので、ご連絡いただければお会いすることもできると思います。どうかよろしくお願い申し上げます。

     1990年9月1日
                                       林 えいだい拝

    貴下
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 下記は、返事の中の一つである。
返事の一つ---------------------------
  謹啓
 先生のご健勝を心からお祝い申し上げますとともに、先生の愛国心と同胞愛には、深く感謝いたします。
 まず、書面にてご返事を差し上げます。
 私は山本現默(死亡者)の実の兄に当たる者です。当時の状況は、現默が徴用で日本の炭鉱に行ったため、大変困難になりました。
 そのほかには特別なことはありませんでした。これで先生のご質問に不十分ではありますが、回答とさせていただき、先生の益々のご健闘をお祈り申し上げます。

   9月10日
                                         兄 鄭 琦默

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 著者林えいだい氏は、返事のあった人たちの住所を頼りに訪ねて行き、粘り強く聞き取り調査を進めていくのである。ほんとうに頭の下がる取り組みである。この返事には「大変困難になりました」と記されているだけであるが、聞き取り調査の内容(次回)は、大変なものである。

          http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/
        

 

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