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「鄭 琦默さんはいますか?」
ゆっくりガラス戸が開いて、一人の老人が私の前にぬっと顔を突き出した。酒臭い匂いがして、焼酎瓶が横に転がっていた。キムチの食べ残りの皿が、床に放り出されている。
日本から訪ねてきたと説明すると、鄭さんは私が韓国に出した手紙を、枕元から持ってきた。何度も読み返したのか、手紙はしわくちゃになっていた。
「体がうすごく悪いんだ。座っているだけでもきつい。これも働き過ぎ、弟の分まで働いたから体の全部が痛い。お前の手紙を見て、昔のことを思い出して気分が悪くなった」
と鄭さんは吐き捨てるようにいった。それから突然口をつぐんでしまった。<BR>
「今から45年前、弟は日帝時代に徴用された。その時のことを思い出すと、もう言葉にはならない……」
涙をためて深い溜息をついた。
弟の現默さんが1944年(昭19)強制連行された時は、柳谷里にはもう若い者はいなかった。鄭さんも徴用を逃れるために、ずっと山奥の洞窟に隠れていた。夜になると山から出て、暗い畑で農作業を済ませ、夜明け前に弁当を持って山へ引き返して行った。
三菱から直接強制連行にきた労務係は、にやってきては働けそうな者を探し回り、捕まえると面事務所へ連れて行った。そこにはすでに戸籍抄本が用意され、拒否することは許されなかった。
「家の宝物を連れていったんだからね、残されたアボジ(父親)は大変なものだ。新婚早々の女房は狂ったようになった。日本人のやることは人間じゃない。恨みの相手だ。
生きて帰ってきたのならいいが、弟を殺してしまい、日本は仇だよ。弟は死ぬために日本へ行ったようなものだ。の人たちは、ただ可哀そうなことをしたというだけで、どうすることもできない。日帝時代のことで文句もいえなかった」
弟が強制連行された二ヶ月後の7月26日、崎戸炭鉱から死亡の電報が届いた。どのような理由で死んだかわからないまま、鄭さんは借金をして旅費をつくり、関釜連絡船に乗って長崎へと向かった。
崎戸炭鉱の親和寮で弟と対面したがすでに火葬が終わって遺骨になっていた。
変わり果てた弟の姿に声もなく、本当に死んでしまったのかと、一夜遺骨を抱いて寝た。翌朝、弟と一緒に強制連行された同じ洛東面の三人に会わせてくれと、労務係に頼み込んだ。すると彼らは、「同郷の仲間の死を知らせると、戦意高揚に影響する」と、一言のことに鄭さんの願いをはねつけた。
埋火葬認許証交付簿にある死因は、「左側湿性肋膜炎兼急性腸カタル」で、7月18日に発病して、26日に死亡している。鄭さんにとっては、健康であった弟がどうして死亡したのか、同郷の仲間に確かめたかったというのだ。
鄭さんの話によると、弟の死亡補償金はもちろん、働いた賃金ももらわず、往復の旅費も炭鉱側は支払わなかったという。
「遺骨だと渡されただけで、弟は日本のためにまるで犬死にだ。今もそのことを忘れることはない。弟の女房に会うのがつらかった。
自分の主人が死んだんだから、補償金をもらって帰ってくるとばかり思っていたのに、死んで遺骨だけが帰ってきたのだからね」
鄭さんは、弟の女房に説明がつかなかった。
逆に補償金を自分のものにしたのではないかと疑われた。鄭さんの立場を考えると、女房が疑うはずである。たとえ植民地時代といえども、人間一人を死亡させた代償を払うのは当然なこと。それを炭鉱側は無視してきたわけであるから、鄭さんが心の底から怒りをぶつける気持ちはわかる。
父親は十年後に、悲しみのうちに亡くなった。
最期まで息子の死を信じようとせず、墓をつくっても一度も参ろうとはしなかった。
「お前の手紙を見てからというもの、わしは朝から焼酎ばっかり飲んで、気分をまぎらわせている。どうだ一杯飲まないか」
転がった焼酎瓶を這いながら手に取ると、飲みかけの茶碗を差し出した。
鄭さんと会って、韓国での第一歩がこれでは大変な取材になると体がひきしまる思いがした。次の星州郡へ向かう間、韓国の遺族へ手紙をだしてよかったのかどうか考え直してみた。
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