端島や崎戸島では、朝鮮人抗夫の命懸けの脱走が絶えなかったことが、「死者への手紙-海底炭鉱の朝鮮人坑夫たち」林えいだい(明石書店)のいろいろな人の証言で分かる。「坑内で死ぬくらいなら……」と脱走し、たまたま生き延びることのできた人の炭鉱労働についての証言は、まさに奴隷労働以上のものである。人間地獄といわれた圧制から逃れるために、わざと自分の足や手の指を坑内ヨキで切り落とし病院に入ろうとしたり、あえて傷害や殺人を犯す者もあったという。下記は、聞き取り調査の一部である。戦時中の出来事とはいえ、日本人の為したことであり、まだ100年も経っていない歴史的事実であることが信じられない気がする。
リンチ------------------------------
・・・
端島炭鉱に来て五ヶ月目、同じ部屋の者が二人、急に姿を消した。朝鮮人の外勤がきたので、どうしたのかとたずねると知らないと答えた。
そのうち捕まえられて、事務所へ連れ戻された。坑木を筏に組んで逃亡しているところを監視人に発見され、船で追われたということが分かった。それからリンチが始まった。
「アイゴー、アイゴー、助けてください!」
殴りつける音と悲鳴が、部屋まで聞こえてきた。暗い部屋の中でその声を聞くと、両手で耳を塞がないと自分のほうが気が狂いそうになる。金さんは出勤時間になるとそっと寮を出た。
翌朝、昇坑してくると、前日の二人はどうなったのかと、同室の仲間にたずねた。
「こっそり見に行ったんだが、半殺しにして海の中に投げ込んだよ。生きているかも知れないのに、可哀そうなことをした」
二人の布団が、部屋の中に二つ並んだままだった。塔路炭鉱で同じ炭住にいた二人で、女房と子どもたちの姿が思い出された。
冬の海を、泳いで渡るのは無謀過ぎる。泳ぎ達者な漁師であっても、空腹の状態では無理なことだった。空間がない狭い島の環境と息詰まるような坑内労働で、正常な人間でも精神状態がおかしくなる。圧制の中で生活していると、それだけ自由への憧れは強い。
逃亡に失敗すると、みんなの前で見せしめのリンチが始まる。それだけひどいリンチが行われても、何処の部屋の誰がいなくなったと聞いた。(逃亡が続いたということ)外勤の動きを見ていると、すぐに誰かが逃亡したことがわかった。寮から逃亡する者が増えるにつれて、外勤の圧制は常軌を逸してひどくなった。
地下足袋の配給が途絶えがちなると、金さんは栄養補給の道がなくなった。(地下足袋を食糧と交換していたのである)
「働いたお金を渡してください」
「お前、何をいうとるんだ。こんな島の中で金を使うようなところはなか」
「じゃ、家族へ送ってくれてるんですか?」
「差し引いた賃金の70パーセントは送りよる。後は貯金だ。お前たちに金を渡すとすぐ逃げるからな、半島は油断も何もあったもんじゃなか」
そう答えているのは、朝鮮人の外勤だった。
食事と布団代を差し引いた残りから、70パーセントをサハリンの家族へ送っていると勤労課の外勤はいった。金さんは、姜道時さんと同様、敗戦を知らなかった。知らされなかったのだ。
・・・・
---------------------------------
著者(林えいだい氏)が「死者への手紙」を出し、返事のあった遺族を訪ね歩いて聞き取り調査をしたところ、戦後四十数年経過しているにもかかわらず、一部の人を除いては遺骨さえ帰っていず、未だに生死も分からない人たちもいたという。下記の証言が事実ではないかと思われるのである。
証言--------------------------------
「戦争中は事故が多い。火葬は中ノ島でしたが、戦争が激しくなるとそれどころじゃなくなる。重傷者が、病院に運ばれてきて亡くなると、外勤の労務が引き取りにくる。それから先はどうしたか、分院の者は知らない」 (端島炭鉱分院助手 金圭沢)
証言--------------------------------
「死体を海に流してしまえば、魚の餌になるだけ。遺骨も何も見たことはなか。死ぬと海に捨ててしまったからね。この端島に同胞の遺骨なんかあるわけがなか。海に捨てるのも多かと。所帯持ちの場合は、家族がアパートに住んどるから、そうはいきませんたい。みんながやかましかもんで捨てきりやせん。
吉田の朝鮮飯場の独身者は、ほとんどみよりがなかもんで、遺体は海に捨てて処分した。うちの主人の兄が吉田飯場にいて、同胞が死ぬと海に捨てるといつも話しとった。坑内事故で死ぬとゲージから上がってきて、すぐに吉田飯場の勘場がやってきて、処分するんだと。独り者は可哀そうなものよ。朝鮮にゃ親兄弟もおろうに……。そこの端島にお寺があったのに、朝鮮人の遺骨は全然なかでっしょうが、それが証拠ですたい」 (姜時点)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/
リンチ------------------------------
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端島炭鉱に来て五ヶ月目、同じ部屋の者が二人、急に姿を消した。朝鮮人の外勤がきたので、どうしたのかとたずねると知らないと答えた。
そのうち捕まえられて、事務所へ連れ戻された。坑木を筏に組んで逃亡しているところを監視人に発見され、船で追われたということが分かった。それからリンチが始まった。
「アイゴー、アイゴー、助けてください!」
殴りつける音と悲鳴が、部屋まで聞こえてきた。暗い部屋の中でその声を聞くと、両手で耳を塞がないと自分のほうが気が狂いそうになる。金さんは出勤時間になるとそっと寮を出た。
翌朝、昇坑してくると、前日の二人はどうなったのかと、同室の仲間にたずねた。
「こっそり見に行ったんだが、半殺しにして海の中に投げ込んだよ。生きているかも知れないのに、可哀そうなことをした」
二人の布団が、部屋の中に二つ並んだままだった。塔路炭鉱で同じ炭住にいた二人で、女房と子どもたちの姿が思い出された。
冬の海を、泳いで渡るのは無謀過ぎる。泳ぎ達者な漁師であっても、空腹の状態では無理なことだった。空間がない狭い島の環境と息詰まるような坑内労働で、正常な人間でも精神状態がおかしくなる。圧制の中で生活していると、それだけ自由への憧れは強い。
逃亡に失敗すると、みんなの前で見せしめのリンチが始まる。それだけひどいリンチが行われても、何処の部屋の誰がいなくなったと聞いた。(逃亡が続いたということ)外勤の動きを見ていると、すぐに誰かが逃亡したことがわかった。寮から逃亡する者が増えるにつれて、外勤の圧制は常軌を逸してひどくなった。
地下足袋の配給が途絶えがちなると、金さんは栄養補給の道がなくなった。(地下足袋を食糧と交換していたのである)
「働いたお金を渡してください」
「お前、何をいうとるんだ。こんな島の中で金を使うようなところはなか」
「じゃ、家族へ送ってくれてるんですか?」
「差し引いた賃金の70パーセントは送りよる。後は貯金だ。お前たちに金を渡すとすぐ逃げるからな、半島は油断も何もあったもんじゃなか」
そう答えているのは、朝鮮人の外勤だった。
食事と布団代を差し引いた残りから、70パーセントをサハリンの家族へ送っていると勤労課の外勤はいった。金さんは、姜道時さんと同様、敗戦を知らなかった。知らされなかったのだ。
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著者(林えいだい氏)が「死者への手紙」を出し、返事のあった遺族を訪ね歩いて聞き取り調査をしたところ、戦後四十数年経過しているにもかかわらず、一部の人を除いては遺骨さえ帰っていず、未だに生死も分からない人たちもいたという。下記の証言が事実ではないかと思われるのである。
証言--------------------------------
「戦争中は事故が多い。火葬は中ノ島でしたが、戦争が激しくなるとそれどころじゃなくなる。重傷者が、病院に運ばれてきて亡くなると、外勤の労務が引き取りにくる。それから先はどうしたか、分院の者は知らない」 (端島炭鉱分院助手 金圭沢)
証言--------------------------------
「死体を海に流してしまえば、魚の餌になるだけ。遺骨も何も見たことはなか。死ぬと海に捨ててしまったからね。この端島に同胞の遺骨なんかあるわけがなか。海に捨てるのも多かと。所帯持ちの場合は、家族がアパートに住んどるから、そうはいきませんたい。みんながやかましかもんで捨てきりやせん。
吉田の朝鮮飯場の独身者は、ほとんどみよりがなかもんで、遺体は海に捨てて処分した。うちの主人の兄が吉田飯場にいて、同胞が死ぬと海に捨てるといつも話しとった。坑内事故で死ぬとゲージから上がってきて、すぐに吉田飯場の勘場がやってきて、処分するんだと。独り者は可哀そうなものよ。朝鮮にゃ親兄弟もおろうに……。そこの端島にお寺があったのに、朝鮮人の遺骨は全然なかでっしょうが、それが証拠ですたい」 (姜時点)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/