極寒の地”樺太”(現サハリン)で6万から7万といわれる朝鮮人が炭砿や軍事施設、道路建設などの過酷な労働を強いられた。そして、皇国臣民として強制連行された多くの人たちが、日本の敗戦とともに「あなた方は日本人ではないので、引き揚げの対象ではない」と帰国の機会を与えられなかった。30万人の日本人は数百人を残しほぼ全員引き揚げたが、4万3000人の朝鮮人は千人弱が引き揚げたのみで、サハリンに置き去りにされたのである。ソ連国籍を得なかった人たちは無国籍となった。韓国で夫の帰りを待ち続ける妻や家族、また、家族を樺太に呼び寄せたが、敗戦直前、石炭船の回航が困難になったため「樺太転換坑夫」として配転を命ぜられ(約2万人)、再び離散を強いられた家族、戦後半世紀以上が経過した今なお、サハリン、韓国、日本のそれぞれ地で苦難の日々を送る人たち。写真記録 樺太棄民 残された韓国・朝鮮人の証言 伊藤孝司著 高木健一解説(ほるぷ出版)は、こうした97名の貴重な写真入り証言集である。下記は、その中から5人の証言を抜粋したものである。
金 正極(キム・ジョングク)----------------------
1920年3月4日生まれ ソ連国籍 ソ連サハリン州ユジノサハリンスク市在住
樺太に行くまでの朝鮮での生活は大変でした。お父さんは農業をしていましたが、食べる物はありませんでした。戦争中でしたから、畑を耕しても全部供出させられてしまい、配給も満足に貰えませんでした。貧乏だったので、学校にも行けず、おじさんに漢字を教えてもらいました。
名目は「募集」だけれども、「徴用」と同じ事でした。「募集」に来たのは、日本人の指令で来た朝鮮の役人でした。「今、世界は戦争をしているから、石炭を掘るために樺太に行かなければならない」と、応じさせられたのです。行かなかったら警察に捕まるんですから。
樺太での仕事は、炭坑で石炭を乗せたトロッコを押す仕事でした。飯場には、同じ地方からの朝鮮人がいました。飯場では布団や枕に草を入れても、寒くてたまりませんでした。朝、起きると、口や布団の上に氷がついているほどです。なぜ、人間がこんな布団に寝なくてはいけないのか、私たちは人間ではないのかと、その時は思いました。
契約では、8時間労働で8円払うという事になっていましたが、行ってみると一律3円50銭でした。その内から、食事、布団代と物品代を除くと、何ぼも残らないのです。それでも、10円くらいたまったら、朝鮮に送金しました。
1943年の11月に樺太に着いたので、2年間の徴用期間が終わらない内に、戦争が終わったんです。8月15日の仕事は、三番方だったんで、飯場にいました。そこには、ラジオは1台しかなかったんですが、昼の12時頃、天皇陛下さんの発表を聞きました。その時は、日本が勝った方が良かったと思ったんです。朝鮮人も「皇国臣民」だといって、教育されていましたからね。
本国と連絡できなくなり、お金もないので、労働者たちは会社に預けてあった貯金を払ってくれと、日本の親方に詰め寄りました。危なくなったその日本人たちは、みんな逃げてしまいました。
朝鮮から一緒に来た78人の内、みんな死んでしまって、今まで生き残っているのは5人だけです。韓国には妻と娘がいますが、娘が小さい時に樺太に来てしまったので、私の顔を覚えていません。樺太で、私はずっと1人で暮らしてきました。なぜ、ここで結婚しなかったかというと、明日には、来年には帰国できると信じていたので、40年が過ぎてしまったんです。
金 泰鳳(キム・デボン)-----------------------
1915年生まれ、1990年1月18日、ソ連サハリン州アニワ地区より永住帰国、 韓国大邱市在住
村の区長が「徴用」の通知を持って来たので逃げたが、捕まってしまいました。行き先も知らされないまま、同じ密陽(ミリャン)郡の350人と一緒に、サハリンへ連れて行かれたのです。着いた所は、内幌炭砿でした。1944年9月の事です。
戦後は床屋・時計の行商・警備員をやり、後は自分で農業をしてきました。
私は死ぬ前にやっと帰れましたが、サハリンで再婚し、30年一緒に生活した妻を連れてこられませんでした。妻は北朝鮮国籍だからです。妻は大邱の出身ですが、北朝鮮からサハリンへ漁業のために派遣された労働者でした。バザールでジャガイモなどを売って、1人で暮らしをしています。
日本が私たちを異国へ連れて行ったのだから、残っている人たちが早く帰れるように、何とかしてほしいです。
辛 相根(シン・サングン)----------------------
1918年生まれ 1990年1月14日、ソ連サハリン州ホルムスク市より、妻の李 達任(イ・ダリム)と共に永住帰国 韓国国慶尚南道固城(コソン)郡在住
私が「徴用」されたのは、21歳の時です。面(村)長から行くようにと、直接いわれました。父がいないので、私が「行きたくない」といったら、面の役人3人に、棒で力いっぱい殴られました。
同じ郡からの66人が、馬山(マサン)までトラックに乗せられ、釜山(プサン)までは汽車で運ばれました。期限の2年が過ぎて帰って来たら、復讐してやるという気持ちで、頭に包帯を巻いたまま、サハリンへ行っのです。
着いたら、渡辺組のタコ部屋入れられて、馬群潭で道路工事をさせられました。
戦争が終わってからは、ホルムスクで建築を、港で荷物運びや、道路建設をしたりしていました。
その頃、今の妻と一緒になりました。子どもはいません。韓国に残して来た妻は、私を7年待ってから再婚したそうです。
韓国に帰ることを考えて、今まで2人とも不利益を承知で、無国籍を通してきました。この事でずいぶん厭味や北朝鮮かソ連の国籍を取るようにいわれました。
釜山に着いた時は、何ともいえない気分でした。死ぬのは韓国でと、思っていたからです。いくらソ連で年金を貰えても、やはり自分の国で暮らす方が良いと思います。
鄭 然寿(チョン・ヨンス)----------------------
1915年6月20日生まれ 無国籍 ソ連サハリン州ユジノサハリンスク市在住
親戚の人に「徴用」が来たのですが、私は農業をしていたけど貧しかったので、金儲けができると思い代わったんです。その時、私は29歳で子どもが3人いました。
国後島では、テント生活をしながら飛行場と塹壕建設をしました。それから、樺太の川上炭鉱へと回されましたが、契約の2年が過ぎたのに、そのまま働かされたんです。
食事は1日4回、玄米を茶碗に1杯だけで、おかずもありませんでした。いつも空腹をかかえていました。タコ部屋に入れられてしまい、働いたお金も実際に見た事はありませんでした。すべて朝鮮に送っていると聞いていました。家族からの手紙も届きませんでした。
戦後すぐに、一度だけ韓国から便りがありました。返事を出したのですが、その後、手紙が来ることはありませんでした。南北での戦争が始まって、連絡を取り合うのはあきらめました。
この世でひとりぼっちになったと思い、ロシア人の女性と結婚しました。結婚は正式なものではありませんでした。この妻がものすごい酒飲みで、働いたお金をすべて使ってしまったのです。隠しておいても見つけ出して、酒に替えてしまいました。子供は女の子が1人生まれました。
韓国に残した妻と3人の子どもたちは、私が韓国を出た日を命日にして10年間法事をしたそうですよ。私の近所に住んでいた人が韓国に行って、釜山にいる長男に会ってわかったのです。ここで再婚したロシア人の妻は亡くなってしまい、一人娘は永住帰国してもいいといってくれています。
朱 玉姫(チュ・オッキ)-----------------------
1926年12月28日生まれ 無国籍 ソ連サハリン州ポロナイスク市在住
終戦の時は、東海岸の国境近くの遠内に住んでいました。子供を背負って逃げ、敷香に着いたら、街は火の海でした。憲兵の車に乗せてもらい、内路まで行き、列車に乗ったのです。
その時、乗っていた男を、憲兵が銃で頭を叩いて降ろしてしまいました。日本人が「朝鮮人のために戦争に負けたから降ろせ」と言ったので、朝鮮人も次々と降りてしまったんです。
豊原に着いて敷香からの組に入って、お寺に泊まりました。その晩にソ連の空襲がありました。ここでも、「ここには半島人がいるから殺さなければならない」という、日本人がいたんです。