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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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軍の関与と命令-戦犯の供述-NO2

2008年03月15日 | 国際政治
 下記は、中国侵略の実像を関係者本人の認罪のかたちで明らかにしているもので、中国戦犯裁判の法廷に提出された供述書の文である(1998年『世界』誌上ではじめて公表された)。敗戦前後中国や朝鮮でソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留された後、1950年7月に中国に移監され、1950年代半ば中国戦犯管理所において書かれたものである。周恩来が直接指揮を執ったといわれる計画的な戦犯対策に基づいて、師団、部隊、憲兵、警察、司法などに所属した者がグループをつくり、いろいろな立場で当時を語り合い、事実を確認し合った上で書かれたこの自筆供述書は、中国人被害者や遺族の告訴状、目撃者の証言、現地調査等との整合性も確認されており、日本軍の戦争犯罪を明らかにする史料として、極めて重要なものであると思う。慰安所設置や経営に対する軍の関与、強制労働や住民虐殺に関わる証言など数多く含まれているが、そのごく一部を抜粋した。(「侵略の証言-中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)より)

 陸軍第五十九師団歩兵第五十四旅団長 陸軍少将 長島 勤-----  三、第二次中国侵略第五十九師団歩兵第五十四旅団長 
 3 蟠居地における状況
  (1)1942年7月私の指揮下にありて萊蕪県に蟠居中、110大隊長は萊蕪県九頂  山附近の討伐を行った時、八路軍を免したことを居民が八路軍に内通したこと  と推断し報復の目的を以て瓦斯弾(クシャミ性)3発を歩兵砲で発射し、平和人  民老幼15名を殺害しました。

  (2)其の他1942年4月より1945年7月の間に於て各大隊(45大隊は1942年4  月-1943年6月間師団直轄期間を除く)は私の指揮下にありて所謂警備の任  務を以て治安維持のため担任地域に蟠居中、抗日軍及び平和人民に相当大  なる損害を与へ、且二十余回の討伐にて合計1300余名の抗日軍人と600余  名の平和人民を殺害し、抗日軍人と平和人民1000余名を逮捕しました。又大  多数の人民を強制して長大なる遮断壕の構築、望楼の修建其他兵器、弾薬、  糧食等の軍需品を運搬せしめ3年来これ等の強制労役は五十万工日以上の   中国人民を奴役しました。


 陸軍第三十九師団 師団長 陸軍中将 佐々眞之助---------
 21・・・
   師団湖北省駐屯間当陽には、日本人経営の慰安所が従前より設けられ、日  本軍隊の慰安に供せられて居ました。師団は之が経営を支援しました。当慰安  所には中国婦人十数名が日本帝国主義の侵略戦争に依り生活苦に陥り、強   制的に収容せられ、賤業に服して居たのでありました。宣昌、荊門にも同様の  慰安所があったと思われます。之等は侵略日本軍隊が強制的に中国婦人を陵  辱した重大な罪悪であります。之等罪行は私の発した命令に基づくものにて私  の重大な責任であることを認罪します。
 
 22師団が湖北省駐屯間、当陽に春屋と称する日本人経営の料理屋がありまし  た。春屋は1942年頃、荊門にて料理屋を経営中に第三十九師団司令部が荊  門から当陽に移駐した時随行し、当陽に開店したものであります。師団の支援  の下に経営し日本将兵の慰安に供して居たものでありました。春屋の主人は   師団御用商人であったので、各部隊需要に応じ、野菜等を師団の威力を背景  に利用して、中国人民より安価に収買して各部隊に供給し、中国人民より利益  を搾取し、又阿片商人なりし由なるを以て入手した阿片を其吸飲者なる中国人  に其悪癖を利用して高価に密売して莫大な利益を奪取して居た悪徳商人であ  ったと思われるが、師団は此行為を黙認して居た訳であります。之等莫大な収  益の分前として、春屋は日本軍将兵の慰安費を低廉ならしめて居たと認めら   れます。即ち師団将兵は春屋を通じて中国人民より搾取した利益に依り慰安し  つつ中国侵略戦争を実行して居たのであろります。此等罪行は私が認可したこ  とであり私の責任であることを認罪します。 
 

 満州国憲兵訓練処処長 少将 齋藤美夫----------------
 抗日聯軍・朝鮮游撃隊への工作
 二、人民鎮圧に対する方針
 (一)略
 (二)1937年11月初旬、新京北・南憲兵分隊、及偽首都警察庁の「厳重
    処分」に附すべき中国人約30名を隊附き西田憲兵少佐に指揮せしめ、
    偽首都警察庁押送用バス2台に分乗せしめ、憲兵偽警察官40名を以て
    護衛し、偽新京東北方約20吉米の刑場にに押送途中、被護送游撃隊員
    一名が手錠を装したるまま警察官拳銃を奪い、警察官を即座に射撃し、
    其場に斃し離脱を計りました。西田少佐は後部車両にありましたが、急
    遽全車を停止せしめ、憲兵警察官を指揮し、又最寄より自衛団を集
    めて遂にこの勇敢なる游撃隊員其他全員約30名を射殺し、引揚の上其
    顛末を報告しました。私は西田少佐が臨機応変の処置を講じたことに対
    し賞詞を与えました。本件は被押送者が受刑の直前、必死の最後的反抗
    闘争を敢行し、成功すると否とに拘ず日帝に対する憎しみを以て死の直
    前迄完闘したその精神は、誠に尊きものでありました。而して指揮官西
    田少佐は反抗を鎮圧することを理由として、無武装の被押送者を全部射
    撃致しました。私は隊長として西田以下を指揮し、このを実行
    せしめたのであります。しかも当時西田に対して賞詞を与えております。
    私の罪行は最も厳重であります。茲に衷心認罪致します。


 [石井部隊・討伐検挙・「厳重処分」]
 (四)1938年1月26日、関憲警五八号をもって石井細菌化学部隊と関係
    のある憲兵隊司令部命令を受領しました。私は、石井部隊が憲兵隊より
    引渡す人員を其細菌化学試験に充当するものなるを察知しました。私は
    右命令に基づき処置を取りましたが、当時如何なる手続きを経て何名の
    人員を石井部隊に引渡したるや等、其具体的情況を記憶致しませんため、
    ここに其供述をなし得ませぬことは誠に申訳なき次第であります。細菌
    化学試験に充つる中国人を憲兵隊が石井部隊に引渡したことについては、
    1938年新京憲兵隊附として在職した憲兵少佐橘武夫が、1948年
    ハバロフスク国際裁判法廷に証人として証言したることにより、之れを
    確認する次第であります。細菌化学試験に関する前記命令に基づいて、
    私は新京憲兵隊長として之れに対する措置を実行したに相違なく、従っ
    て私は石井細菌化学部隊の試験工作に封幇助協力して国際法規に違反し
    非人道極まる罪行を犯したることにつき、茲に謹んで認罪する次第であ
    ります。

    
 三 人民鎮圧に関する具体的事項
(二)1939年初頭より海拉爾日本軍陣地構築に関し、労働作業、生活管理不良    の為、中国人労働者に多数の病死者を出しました。この陣地構築労働者は、   防諜の見致より現地住民を避け、遠く熱河省方面より募集しきたりしものであ   ります。地下構築作業が主であったため、温度湿度が身体に合はず、且つ給   与管理が不適当であった為、爆発的に呼吸器疾患、或いは伝染病が多発し   たのであります。海拉爾憲兵隊は防諜警備上現場に出動勤務し、労働者に    酷烈なる監視を加え、病者の外、健康者に対しては更に苛酷なる取扱を実施   しました。私は警務部長として現地憲兵の陣地構築警戒監視に関する命令    指示を致しました。其関係においてこの事件に重大なる責任を負う次第であり   ます。


 
                http://www15.ocn.ne.jp/~hide20

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