「中国戦線従軍記」藤原彰(大月書店)より、何カ所か抜粋したい。まず、歴史上前例のない割合の餓死者を含む、日本軍兵士の死没者数についてである。
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昨2001年5月に、私は『飢え死にした英霊たち』という題の本を出した。この本では、第2次世界大戦における日本軍人の戦没者230万人の過半数が戦死ではなく戦病死であること、それもその大部分が補給途絶による戦争栄養失調症が原因の、ひろい意味での餓死であることを、各戦線にわたって検証した。そして、大量餓死をもたらしたものは、補給を軽視し作戦を優先するという日本軍の特性と、食糧はなくとも気力で戦えという精神主義にあったことを論じたのが、この本の趣旨であった。
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餓死が6割とか7割、あるいはまた8割以上という説などもあるが、いずれにしてもあらゆる戦場で補給なき戦いを強いられ、歴史的に例のないような大量の餓死者を出したことは間違いのない事実である。日本軍兵士の戦場の記録には、必ずといっていいほど食べるものに窮した事実が出てくる。住民を敵に回わさざるを得ない供出の強制や掠奪・強奪は当たり前で、そうしたことさえできない状況に追い込まれた事実も数多く報告されている。「死の島」と呼ばれたニューギニアやミンダナオ島をはじめとするフィリピンの島々、小笠原の父島などで発生した日本軍兵士の人肉食事件は、長期間にわたるそうした異常事態の中で発生したことを忘れてはならないと思う。それは、公然と「敵弾適食で戦え」という大本営や参謀本部の問題なのだとも思う。
下記は第二十七師団支那駐屯歩兵第三聯隊や中隊の具体的な数である。
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1944年4月から敗戦後帰国するまでの「大陸縦断作戦」間における聯隊の死没者1647名のうち、戦死509名、31%、戦傷死84名、5%、戦病死1038名、63%、その他(不慮死、不詳など)16名、1%である。すなわち戦死者の2倍以上の戦病死者を出しているのである。なお私の第三中隊は中隊長として戦病死者をなるべく出さぬよう努力したつもりだが、それでも戦死36名、47%、戦傷死六名、8%、戦病死35名、45%となっている。ガダルカナルやニューギニアと違って、人口稠密で物資の豊富な中国戦線では、餓死者など生じなかったと思われがちである。だが、大陸打通作戦の実態は、補給の途絶から給養が悪化して多数の戦争栄養失調症を発生させ、戦病死者すなわち広義の餓死者を出していたのである。
---------------------------------- また、「長台関の悲劇」の中で、凍死者を出した事実も報告されている。その一部を抜粋する。
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5月15日の早朝から一晩の休養をとった中隊は、本道に戻って行軍に移った。進むにしたがって、道路は昨夜の雨による泥と、人馬にかき乱されたぬかるみで、歩きにくくなっていた。そしてさらに異臭が鼻をつきはじめた。馬や騾馬の死体が、泥のなかに横たわっているのである。そのなかに放棄された車も見えだした。とても本道を歩けないほどの凄惨な光景があらわれだしたのである。これが長台関の悲劇の、翌日の現場だった。
炎天下の行軍を避けて夜行軍をおこなっていた師団は、淮河の唯一の渡河点である長台関を前にして、それまでの三縦隊が一本にまとまったため、ひどい行進縦隊をおこした。しかも、昼間の炎熱とはまるで逆の烈しい氷雨に打たれたのである。雨はしだいに豪雨となり、一寸先もみえない真暗闇となってしまった。泥が膝を没する道路の周囲は、これも歩行を許さない水田である。このため行軍は行きづまり、雨に打たれて凍死する者も出てきた。各部隊はバラバラになり、沿道のに難を避けるものがつづいた。悲惨なのは山砲や歩兵砲などの馬部隊で、馬や大砲を見捨てることができず、泥の道路で立ち止まって、一夜を明かす以外になく、多数の犠牲者を出したのであった。
日中は炎熱で日射病が出るほどなのに夜の豪雨とぬかるみで凍死者を出すという、五月の中国大陸で、考えられないような事故がおこったのである。後の調査では、師団の凍死者は166名、聯隊は47名の犠牲者を出した。
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次に、戦争と軍隊を専門とする歴史研究者として名高い藤原彰氏は、陸軍士官学校を卒業して第二十七師団支那駐屯歩兵第三連隊に所属し、小隊長や中隊長としてあちこちの戦闘に参加したとのことであるが、中学五年を四年一学期で修了し、本来の予科二カ年を一カ年で修了、隊付け教育半年を四ヶ月で、さらには伍長や軍曹は各一ヶ月、士官学校本科二カ年を一年三ヶ月で修了して卒業したため、実際に戦場に臨んだ際には役に立たなかったことが少なくなかったという。満十九歳と三ヶ月で少尉である。特に問題だと思うことは、国際戦時法などが省略されたため、適切な捕虜の扱いに関する問題意識などもほとんど持ち合わせないで従軍していることである。こうした無茶な将校の短期育成も大本営や参謀本部の問題であると思う。そうしたことが、下記のような現地住民に対する配慮を欠いた差別的処遇や人権侵害さらには虐殺となって現れることとなった面もあるのではないかと思う。
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景和鎮での第三中隊の日常は、分散配置の小駐屯隊としては規則正しいといえた。起床、点呼、食事、消灯などは規則正しくおこなわれ、内地の兵営のように喇叭で合図をしていた。日課としては銃剣術が熱心におこなわれていて、実弾射撃も頻繁におこなわれていた。戦地の特権で、内地の部隊よりは実弾が自由になるからだったろう。ただし内地のように設備の整った射撃場があるわけではなく、街の外の畑に標的を立てて実弾を発射していた。農民にとっては、非常に危険な行動で、日本軍の傍若無人ぶりのあらわれだったといえよう。私は射撃をするというので、はじめて立ち会ったとき、兵舎を出てすぐの街外れの畑でいきなり実弾を発射したのにびっくりした。一般人家へ危険が及ぶことへの配慮がまったくないのに驚いたのである。このような民衆への差別感はこれからもくりかえされ、しだいに麻痺していくようになった。
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八路軍側は(日本軍の)自転車隊への対策として周辺に壕を掘り、の間は坑道でつなぎ、連絡壕に段差を設けて自転車の通行を妨害するなど、さまざまな対抗策を講じていた。日本軍支配下の治安地区と八路軍が支配している解放区の境界あたりの民は、八路軍がくると壕を掘らされ、日本軍がくるとそれを埋めさせられた。
あるとき山崎中隊長は、新しく壕が掘られていたで、住民を集めて壕の中に代表者の男性をすわらせ、壕を掘った罪で射殺すると通訳に言わせた。それが本気だとわかると、集められた老幼婦女子がいっせいに号泣して生命乞いをした。壕を掘るのも埋めるのも強制されてのことで、民にとってさぞ災難だったろう。
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中国に赴任して八路軍と戦うまで、私は中国共産党についても、農民の状態についても、何の知識もなかった。そもそもこの戦争は、皇威になびかぬ暴戻支那を鷹懲するためのものだと、教えられたことを、そのまま信じていた。そして、中国の民衆を天皇の仁慈に浴させるものだと思い込んでいたのである。しかし、戦場に到着して早々に体験した現実は、を焼いたり、農民を殺したり、およそ民衆の愛護とか天皇の仁慈とかいう美辞麗句とは縁遠いものばかりで、何かおかしいと、しだいに感じはじめていた。その疑問は、勇猛な指揮官だと讃えられている上官にじかに接することで、いっそうふくらんだ。
分屯地に赴任してしまうと、聯隊長や大隊長に出会うのは、討伐の途中だけである。その際の幹部の印象は、それぞれに強烈だった。聯隊長山本募大佐は、のちにビルマ戦線の歩兵団長として勇名を馳せた人で、剛毅果断という評判が高かった。あるで、民が八路軍に通謀している疑いがあるという理由で、聯隊長自身が大声で「燼滅!」と命じたのを聞いた。それが「焼き尽くしてしまえ」という意味であることがわかって、驚いた。聯隊長じきじきの命令で、兵たちははりきって一軒一軒に火をつけて廻りはじめた。に残っていた一人の老婆が、兵の足にすがりついて放火をやめるように懇願したが、それを蹴倒して作業を続けている。それを見て、こういうことでよいのだろうかという疑問を感じた。
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