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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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三光作戦・三光政策(燼滅掃蕩作戦)ー冀中作戦

2008年04月22日 | 国際・政治
 北支那方面軍司令官岡村寧次の五一大掃蕩の一環として、聯隊を指揮し冀中作戦を展開した陸軍少将の証言と、その被害者の証言を「中国侵略の空白ー三光作戦と細菌戦」アジアの声第12集(戦争犠牲者を心に刻む会編)より抜粋する
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           中国の戦犯管理所で書いた供述書
                 陸軍第59師団歩兵第53旅団長 陸軍少将 上坂 勝

(一)「冀中侵略作戦」
  1942年5月下旬河北省安平県安平北方滹沱川及潴龍川中間地区おいて北支方面軍により計画され、大百十師団長中将飯沼守の指揮命令に依り実施せられたものであります。
  師団命令の要旨「師団は安平北方滹沱川及潴龍川中間一帯の地区を掃蕩し、八路軍根拠地を覆滅せんとす。歩兵第163聯隊は一部を以て定県より主力を以て保定ー徐水間の地区より前記の地区に向ひ進出すべし。進出日時はX+1日正午とす。本作戦間各部隊は努めて機会を求め地下壕の戦闘に赤筒及緑筒を使用し、その用法を実験し作戦終了後所見を提出すべし。各聯隊に赤筒及緑筒○○個を交付す」


 以上の命令により私は聯隊長として本部、通信班、第一大隊、第二大隊、第三大隊、歩兵砲中隊約1500名を抽出し、この侵略作戦に参加しました。

・・・

(1)第一大隊方面(北たん村事件 ── 編者)
 第一大隊は5月27日早朝定県を出発し、侵略前進中、同地東南方約22粁の地点に於いて八路軍と遭遇しました。大隊は直ちに主力を展開して之を包囲攻撃し、八路軍戦士に対し殲滅的打撃を与えたのみならず、多数の平和住民をも殺害いたしました。
 大隊は此の戦闘に於いて赤筒及緑筒の毒瓦斯を使用し、機関銃の掃射と相俟って八路軍のみならず、逃げ迷う住民をも射殺しました。又内を「掃蕩」し多数の住民が遁入せる地下壕内に毒瓦斯赤筒、緑筒を投入して窒息せしめ、或いは苦痛のため飛び出す住民を射殺し刺殺し斬殺する等の残虐行為をいたしました。私は此の戦闘に於いて第一大隊をして八路軍戦士及住民を殺害すること約800人に上り、又多数の兵器や物資を掠奪させました。以上は第一大隊長大江少佐の報告によるものです


(2)聯隊主力 
 聯隊は北たん村滹沱川北岸地区に進出し左の師団命令を受けました。
───「上坂部隊は某村より某村に亘る地区を粛正掃蕩し該地区に框舎を構築すべし」。之に基き私は聯隊長として以下の命令を下しました。──「各大隊は其の担任地区を粛正掃蕩し該地区内に框舎を構築すべし、各大隊担任地区の境界次の如し(略)」(但第一大隊は警備態勢に復帰しました)。此の掃蕩戦では地下壕内に赤筒、緑筒を使用しました。即ち地下壕内に遁入した住民や八路軍戦士に対し此の毒瓦斯を壕内に投げ込み両方の入り口を閉塞して中国人民に多大の災害を与えました。其の殺人は約300名で住民中には多くの八路軍が混入しありと推測して居ます。以上は各大隊及東軍医大尉の報告に依り推定いたしました。


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              井戸の周りで沢山の人が死んでいた
                                   李振忠(リチェンチョン)
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 虐殺事件の歴史的背景 
 1942年5月27日に日本軍が三光作戦の中で行った惨殺事件は、住民側に大きな被害を与えました。殺された人の名前と死体の確認ができた者だけで800人を超えています。北たん村というのは決しておおきな村ではありません。事件当時220世帯が住んでいましたが、事件後まだ地下道には掘り出されていない死体が多数ありました。虐殺によって38世帯の家族が一家全滅させられたのです。中国のごく普通の村になぜこれほどの被害が日本軍によって加えられたのか、その歴史的背景を述べさせていただきます。
 1937年7月7日に廬溝橋事件が勃発しますと、北たん村のすぐ近くある定県が日本軍に占領されましたが、国民党軍は抵抗しないで南へ撤退してしまいました。その後村の人々は共産党軍に加わり、ありったけの力で日本軍に抵抗しました。北たん村は見渡す限りの平野にあって、住民たちは日本軍から逃げようとしても隠れる所がありません。そこで村民は日本軍に対抗する手段としていろいろ工夫を凝らして地下道を掘る方法を編み出しました。その後地下道は改築され、当時の地下道は高さが2メートル、幅は二人の人が通れるくらいでした。村民はその地下道を利用して戦いました。
 日本の兵隊が多ければ地下道に入って身を隠し、反撃しませんでした。敵が少ない時は村民は銃とか地雷とか粗末な武器で抵抗し、大敗させました。また、隣の村の若者たちもゲリラを組織して抵抗したので、日本軍も新しい方法をとるようになりました。
 1942年5月、日本軍は抗日根拠地を殲滅するため新しい戦略を打ち出し、華北で食糧や資源の大規模な掠奪を始めました

上坂部隊が村を襲う
 そして5月27日、北たん村は陸軍第百十師団第百六十三聯隊の上坂勝に率いられた部隊に襲われました。近くに迫っていた2~3000人の兵力が北たん村に動員されてやってきたのです。日本軍が攻撃してくるとの情報が届いた時、村に残っていた八路軍の兵士は少数しかいませんでした。村民は地下道に逃げました。27日朝、村は日本軍に包囲され、戦闘が始まりました。粗末な銃や地雷で必死に戦いましたが、兵力でも武器でも日本軍の方が圧倒的に勝り、八路軍は弾丸が尽きて地下道へ入ってきました。日本軍は八路軍の兵士が見えなくなったので、懸命に探し、午後から地下道の入り口が次々に発見され、結局地下道の出入り口のほとんどが発見されました。
 日本軍は携帯していた毒ガス弾を次々に地下道に投げ込み、毒ガスを外に出さないように出入り口の上を濡れた布団などで塞ぎました。地下道の中は大混乱状態になりました。子どもたちの泣き叫ぶ声があちこちであがりました。地下道の中にいた人々は唐辛子のような匂いと火薬の匂いが目にしみて、涙が出るし鼻水が出るし、非常に苦しみ始めましたが、地下道の出入り口がほとんど全部日本軍によって塞がれていたので外へ出られず、バタバタと沢山の人が死んでいきました。体の丈夫な者や若い人は必死に外へ出ようとしていました。地下道には八路軍の兵士もいましたが大部分は村民で、幸い脱出できても外に待ち構えていた日本兵に銃殺され、若い者は日本軍に捕まっても抵抗したため木に縛り付けられて銃剣で突き殺されました。日本兵は死んだ後も銃剣で何度も突き刺していました。

  
               http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/        
           全文と各項目へリンクした一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。

 
 


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