「731部隊と天皇・陸軍中央」吉見義明/伊香俊哉(岩波ブックレットNO.389)によると、731部隊とは日本陸軍が細菌兵器の研究・開発のためにつくった中心部隊であり、731部隊だけにとどまらず、下記のように組織を拡大し、細菌戦を展開していったという。石井四郎軍医中将が中心であったことから、これらを総称して石井機関とか石井部隊というようである。こぢんまりと密かにやっていたのではないことがわかる。
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① 1932年 東京の軍医学校に防疫研究室設置。
② 1933年 背陰河に「統合部隊」設置。
③ 1936年 ハルピン市平房に関東軍防疫部(石井部隊〔のち731部隊〕)編成
④ 1936年 長春に関東軍軍馬防疫廠(若松部隊〔のち100部隊〕)編成。
⑤ 1939年 ノモンハン事件で細菌戦実施。
⑥ 1939年 北京に甲第1855部隊編成。
⑦ 1939年 南京に栄第1644部隊編成。
⑧ 1939年 広州に波第8604部隊編成。
⑨ 1940年 浙江省で細菌戦実施。
⑩ 1940年 牡丹江・林口・孫呉・ハイラルに石井部隊の支部設置。
⑪ 1941年 湖南省常徳で細菌戦実施。
⑫ 1942年 浙贛(セッカン)作戦で細菌戦実施
⑬ 1942年 シンガポールに南方防疫給水部(9420部隊)編成。
⑭ 1943年 安達に実験場設置。
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旧日本軍は、細菌戦の他に生体解剖や人体実験をやったことでも知られているが、下記は元陸軍軍医の証言の一部である。「細菌戦部隊」731研究会編(晩聲社)より
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陸軍病院の軍医として
元陸軍軍医 湯浅 謙
手術演習
二回目の手術演習は、その年の秋です。憲兵隊からもらい下げてきた二人の中国人を、生体解剖しました。演習の課題としては、腸管の切開と縫合、咽頭部の気管切開、睾丸の摘出などをやりました。日本の病院では経験できない手術なのに「これらはすべて戦地で軍人が負傷したときに役立つ」と、生きている中国人を殺したのです。
そのほかでは、病院長の特命を受けて、中国人の生体解剖の終わった人の脳の皮質をはぎとり、500ccのアルコール瓶10本に詰めたことがあります。これは日本の臓器製薬会社の研究・開発用として内地へ送られた、と聞きました。またある時は、衛生兵の初年次教育のおり、解剖学を一日も早く覚えさせるために、一人の中国人を生体解剖して皆に見せたことがあります。
1943年(昭和18年)の12月には軍医の集団教育が行われました。弾丸摘出手術の練習のため太原監獄内で4人の中国人を看守が拳銃で射ち、その体に入った弾丸を摘出する手術にかかわりました。切開や縫合手術などの実地訓練を、より多く積むためです。その後1945年(昭和20年)、私が潞安(ロアン)陸軍病院の庶務主任であった時北支那方面軍から機密命令が降りてきました。内容は「手術演習の実施計画を立てて提出するように」というものでした。そのため、私は1ヶ月おきに演習を行う計画を立てて提出しました。幸いに、当時は部隊の移動のため実施できませんでしたが。手術演習に人体が必要になると憲兵隊に電話し、トラックで衛生兵が犠牲となる中国人を取りに行きました。憲兵隊で受け取ると、病院側は領収書を憲兵隊に提出するといったかたちで手術演習は準備されました。こうして私は3年6ヶ月の間、7回にわたって14人の中国人を生体解剖し、殺害しました。
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下記は、731部隊看護婦の「石井四郎」に関する証言であるが、731部隊が何であるかをよく示していると思う。こういう人間が何の裁きも受けなかったことをどう考えたらよいのだろうと思う。上記と同じ「細菌戦部隊」より、一部抜粋である。
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731部隊の看護婦だった
元731部隊・看護婦 赤間まさ子
箝口令
新京に着いた日の夜、私たちは敗戦を伝えられたのです。停車していた列車の窓から、険しい形相の部隊長石井四郎が大声で怒鳴りました。
これからお前たちを内地に帰す。しかし部隊で見たこと、聞いたこと、体験したことは、今後いっさい誰にもしゃべるな。もしもしゃべったことがわかったら、この俺が草の根わけてもどこまでも探すぞ!」
まるでライオンのような声でした。
暗闇の中でしたので、副官が太いろうそくを持っていたのですが、隊長の顔がろうそくで不気味に照らし出されていました。あのときの隊長の顔のこわかったことといったらありませんでした。恐ろしかった。恐くて体が震え上がってしまいました。
私は帰国してからもその言葉が忘れられなくて、部隊でいっしょだった友達にはいっさい連絡をとらなかったため、そのときの友達を失ってしまいました。もしも、命令に背いたことがわかったら……そう考えるだけでこわくて……。あのときの隊長の声は、今も耳にこびりついています。
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http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/
全文と各項目へリンクした一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
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① 1932年 東京の軍医学校に防疫研究室設置。
② 1933年 背陰河に「統合部隊」設置。
③ 1936年 ハルピン市平房に関東軍防疫部(石井部隊〔のち731部隊〕)編成
④ 1936年 長春に関東軍軍馬防疫廠(若松部隊〔のち100部隊〕)編成。
⑤ 1939年 ノモンハン事件で細菌戦実施。
⑥ 1939年 北京に甲第1855部隊編成。
⑦ 1939年 南京に栄第1644部隊編成。
⑧ 1939年 広州に波第8604部隊編成。
⑨ 1940年 浙江省で細菌戦実施。
⑩ 1940年 牡丹江・林口・孫呉・ハイラルに石井部隊の支部設置。
⑪ 1941年 湖南省常徳で細菌戦実施。
⑫ 1942年 浙贛(セッカン)作戦で細菌戦実施
⑬ 1942年 シンガポールに南方防疫給水部(9420部隊)編成。
⑭ 1943年 安達に実験場設置。
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旧日本軍は、細菌戦の他に生体解剖や人体実験をやったことでも知られているが、下記は元陸軍軍医の証言の一部である。「細菌戦部隊」731研究会編(晩聲社)より
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陸軍病院の軍医として
元陸軍軍医 湯浅 謙
手術演習
二回目の手術演習は、その年の秋です。憲兵隊からもらい下げてきた二人の中国人を、生体解剖しました。演習の課題としては、腸管の切開と縫合、咽頭部の気管切開、睾丸の摘出などをやりました。日本の病院では経験できない手術なのに「これらはすべて戦地で軍人が負傷したときに役立つ」と、生きている中国人を殺したのです。
そのほかでは、病院長の特命を受けて、中国人の生体解剖の終わった人の脳の皮質をはぎとり、500ccのアルコール瓶10本に詰めたことがあります。これは日本の臓器製薬会社の研究・開発用として内地へ送られた、と聞きました。またある時は、衛生兵の初年次教育のおり、解剖学を一日も早く覚えさせるために、一人の中国人を生体解剖して皆に見せたことがあります。
1943年(昭和18年)の12月には軍医の集団教育が行われました。弾丸摘出手術の練習のため太原監獄内で4人の中国人を看守が拳銃で射ち、その体に入った弾丸を摘出する手術にかかわりました。切開や縫合手術などの実地訓練を、より多く積むためです。その後1945年(昭和20年)、私が潞安(ロアン)陸軍病院の庶務主任であった時北支那方面軍から機密命令が降りてきました。内容は「手術演習の実施計画を立てて提出するように」というものでした。そのため、私は1ヶ月おきに演習を行う計画を立てて提出しました。幸いに、当時は部隊の移動のため実施できませんでしたが。手術演習に人体が必要になると憲兵隊に電話し、トラックで衛生兵が犠牲となる中国人を取りに行きました。憲兵隊で受け取ると、病院側は領収書を憲兵隊に提出するといったかたちで手術演習は準備されました。こうして私は3年6ヶ月の間、7回にわたって14人の中国人を生体解剖し、殺害しました。
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下記は、731部隊看護婦の「石井四郎」に関する証言であるが、731部隊が何であるかをよく示していると思う。こういう人間が何の裁きも受けなかったことをどう考えたらよいのだろうと思う。上記と同じ「細菌戦部隊」より、一部抜粋である。
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731部隊の看護婦だった
元731部隊・看護婦 赤間まさ子
箝口令
新京に着いた日の夜、私たちは敗戦を伝えられたのです。停車していた列車の窓から、険しい形相の部隊長石井四郎が大声で怒鳴りました。
これからお前たちを内地に帰す。しかし部隊で見たこと、聞いたこと、体験したことは、今後いっさい誰にもしゃべるな。もしもしゃべったことがわかったら、この俺が草の根わけてもどこまでも探すぞ!」
まるでライオンのような声でした。
暗闇の中でしたので、副官が太いろうそくを持っていたのですが、隊長の顔がろうそくで不気味に照らし出されていました。あのときの隊長の顔のこわかったことといったらありませんでした。恐ろしかった。恐くて体が震え上がってしまいました。
私は帰国してからもその言葉が忘れられなくて、部隊でいっしょだった友達にはいっさい連絡をとらなかったため、そのときの友達を失ってしまいました。もしも、命令に背いたことがわかったら……そう考えるだけでこわくて……。あのときの隊長の声は、今も耳にこびりついています。
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http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/
全文と各項目へリンクした一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。