戦時中、満州で活動していた731部隊および第100部隊(軍馬防疫廠)の主力は、敗戦とともにいちはやく細菌戦の証拠隠滅を図り、日本に逃げ帰ったが、両部隊を離れていた者や支部で勤務していた関係者が逃げ遅れソ連の捕虜となった。そして、細菌戦に関わった12名の関係者が、ソ連のハバロフスクで裁判にかけられたのである。被告は山田乙三(関東軍司令官)、梶塚隆二(関東軍軍医部長)、高橋隆篤(関東軍獣医部長)、佐藤俊二(関東軍第五軍軍医部長)、三友一男(100部隊員)、菊池則光(海林支部員)、久留島裕司(林口支部員)、川島清(731部隊第四部細菌製造部長)、柄沢十三夫(第四部細菌製造第一班班長)、西俊英(教育部長兼孫呉支部長)、尾上正男(海林支部長)などであるという。(死去した2名の被告を除いて、上記裁判の被告全員が1956年12月までに日本に帰国し
ているという)
この裁判で、日本軍による細菌戦に関する多くの事実が明らかになった。公判記録は1950年に日本語版、中国語版、英語版等でも出版されたというが、当初、人体実験などの研究成果を独占入手していたアメリカが、この裁判を、日本人のソ連抑留問題から目を逸らすための「でっち上げ」であるとの声明を出したりしたため、日本では正当に評価されなかったようである。しかしながら、研究が進むとともに、他の関連文書(アメリカの調査報告書を含む)や関係者の証言との整合性が確認され、徐々にその重要性が認められてきたようである。
この記録は「細菌戦用兵器ノ準備及ビ使用ノ廉デ起訴サレタ元日本軍軍人ノ事件ニ関スル公判書類」という表題で、738ページにのぼる大冊であるという。
その中から川島清(731部隊第四部細菌製造部長)の証言の一部を抜粋する。「戦争と疫病ー731部隊のもたらしたもの」松村高夫、解学詩、郭洪茂、李力、
江田いづみ、江田憲治(本の友社)からの抜粋である。
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川島清の公判証言
1949年12月25日の公判ので川島清(第四部細菌製造部長)は、1941年の夏に731部隊の安達(アンダー)の実験場で実験の責任指導者大田澄のもとで、15人の「被実験者」を柱に縛りつけ、飛行機からペストノミを充填した爆弾を投下し実験したことを述べたのちに、
「731部隊ノ派遣隊ガ中国中部ニ於ケル中国軍ニ対シテ兵器トシテ殺人細菌ヲ使用シタコトガ1941年ニ1度、1942年ニモ1度
アリマシタ」
と述べ、次のような証言をした。
第1回目ハ、私ガ述ベマシタ様ニ1941年ノ夏デシタ。第二部長太田大佐ガ何カノ拍子ニ中国中部ニ行クト語リ、其ノ時私ニ別レヲ告ゲマシタ。帰ッテ来テ間モ無ク、彼ハ、私ニ中国中部洞庭湖近辺ニアル常徳市附近一帯ニ飛行機カラ中国人ニ対シテペスト蚤ヲ投下シタ事ニツイテ語りマシタ。其様ニシテ、彼ガ述ベタ様ニ、細菌攻撃ガ行ワレタノデアリマス。其ノ後太田大佐ハ、私ノ臨席ノ下ニ第731部隊長石井ニ、常徳市附近一帯ニ第731部隊派遣隊ガ飛行機カラペスト蚤ヲ投下シタ事及ビ此ノ結果ペスト伝染病ガ発生シ、若干ノペスト患者ガ出タトイウ事ニ関シテ報告シマシタガ、サテ其ノ数ガドノ位カハ私ハシリマセン。
(問)此ノ派遣隊ニ第731部隊ノ勤務員ハ何人位参加シタカ?
(答)40人─50人位デス。
(問)1941年ニ於ケル此ノ派遣当時ノペスト菌ニヨル地域ノ汚染方法如何?
(答)ペスト蚤ヲ非常ナ高度カラ飛行機デ投下スル方法デアリマス。
(問)コレハ細菌爆弾ノ投下ニヨッテ行ナワレタノカ、ソレトモ飛行機カラ蚤ヲ撒布ス
ル方法ニヨッテカ?
(答)撒布ニヨッテデアリマス。
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