真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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背陰河(ペイインホー)の東郷部隊

2008年05月26日 | 国際・政治
 1932年8月、2年間にわたるヨーロッパ視察旅行から帰国した石井四郎を主幹として陸軍軍医学校に防疫研究室が設立された。しかし石井は、この時すでに満州に部隊を創設し細菌戦(生物戦)の実地研究を行っていたという。秘密保持の必要のない防御のための生物兵器研究は陸軍軍医学校の防疫研究室で行い、日本国内ではできないような人体実験を伴う攻撃用生物兵器の研究は満州で行うというのが彼の基本的な考え方であったようである。
 「標的・イシイ-731部隊と米軍諜報活動」常石敬一編訳(大月書店)によると、1932年8月に石原莞爾中佐(当時)の後任の関東軍作戦主任参謀となった遠藤三郎中将は『日中十五年戦争と私』の中で次のように書いているという。
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 1932(昭和七)年私が関東軍作戦主任参謀として満州(現東北)に赴任した時、前任の石原莞爾大佐から”極秘裏に石井軍医正に細菌戦の研究を命じておるから面倒を見てほしい”との依頼を受けました。寸暇を得てその研究所を視察しましたが、その研究所は哈爾賓(ハルビン)、吉林の中間、哈爾賓よりの背陰河(ペイインホー)という寒村にありました。高い土塀に囲まれた相当大きな醤油製造所を改造した所で、ここに勤務している軍医以下全員が匿名であり、外部との通信も許されぬ気の毒なものでした。部隊名は「東郷部隊」と云っておりました。被実験者を一人一人厳重な檻にに監禁し各種病原体を生体に植え付けて病勢の変化を検査しておりました。その実験に供されるものは哈爾賓監獄の死刑囚とのことでありましたが、如何に死刑囚とはいえまた国防のためとは申せ見るに忍びない残酷なものでありました。死亡した者は高圧の電気炉で痕跡も残さない様に焼くとのことでありました。
 本研究は絶対極秘でなければならず、責任を上司に負わせぬため作戦主任参謀の私の所で止め、誰にも報告しておりません。石原参謀から面倒を見てほしいと申送られましたが具体的に私のすることは何もありませんので、研究費として軍の機密費20万円を手交し目的を逸脱せぬ様厳重に注意しておきました。ところ或る時細菌の試験以外に、健康体に食物を与えて水を与えず、あるいは水を与えて食物を与えず、または水と食物を共に与えずして幾日の生命を保ち得るか等の実験もしていると聞き、本来の目的を逸脱した医学的興味本位の研究と直感し、石井軍医正を招致して厳重に叱責し、今後もし目的を逸脱した実験をするが如きことがあれば一切の世話を打ち切ると宣言したこともありました。
 その後在職期間さらに一回現場を視察しましたが試験場が整備されているほか格別変わったことはありませんでした。

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 背陰河の東郷部隊は、後の平房の「満州第731部隊」の前身であり、当初から人体実験をやっていたことが明らかにされているのである。 

  http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ 各項目へリンクした一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。

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