真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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石井部隊-”マルタ”生体実験

2008年05月09日 | 国際・政治
 下記は、人間を単なる「物」として扱っていたとしか言いようのない残酷な生体実験とその人集めの証言であり、「細菌戦部隊」731研究会編(晩聲社)より抜粋したものである。
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                   終生の重荷
                             731部隊・教育部 千田 英男
地獄に通じる道
 中央廊下を過ぎる階段を下りる。ここは地獄に通じる道。靴音がコツ…コツ…コツ…と不気味に響く。私の足どりは重かった。鉄の扉を押し開けると警備詰所があって、屈強な若者たちがモーゼル拳銃を肩にして屯している。
「ご苦労さん」
「ご苦労様です」
 挨拶の後、当然のことながら顔写真の貼ってある出入許可証を提示しなければならないのだが、顔馴染みの私にはそれは必要なかった。
「今日の”丸太”(マルタ)は何番…何番…何番…10本頼む」
「ハイ、承知しました」
 ここでは生体実験に供される人たちを”丸太”と称し、一連番号が付されていた。数人の警備員が棍棒を手にして先に立っていって施錠をはずすと、頑丈そのものの鉄扉が開いて中庭にでる。その中央に二階建ての”丸太”の収容棟がある。四周は三層の鉄筋コンクリート造りの建物に囲まれていて、そこには2階まで窓がなく、よじ登ることもはい上がることもできない。つまり逃亡を防ぐ構造である。屋上を仰ぐと、四つの角には万一備えて大きな投光器が下をにらむように居座っていて、これと同じ構造のものが反対側にもあって、通称七、八棟と称していた。

・・・

「何番…何番…何番…」
 この人たちにとっては、地獄からの招きにも似た呼び声とともに、分厚い鉄製の扉が開けられたくくり戸から、一人また一人と腰をかがめて出てくる。チョコチョコと小幅にしか歩けないほどの短い鉄鎖の音が、廊下にもの悲しく響く。両足にガッシリとはめられた足かせが痛々しい。……


生体実験
 昭和17年(1942年)春のことだった。入営以来の住み馴れた東満国境の部隊から関東軍防疫給水部に転勤になったとき、私に与えられた職務は教育部付きとして各支部に配属される衛生兵の教育だった。それが終了した後、第一部吉村班に出向ということになった。
 ここは主として凍傷に関する研究を担当していて、私が行ったとき、たまたま喝病〔原文ママ〕の生体実験が行われている最中だった。それまでこの部隊は防疫給水、特に濾水機の製造補給が主な任務と聞いていた私には、初めて接する部隊の隠された側面にただ驚くばかりであった。堅牢なガラス張りの箱に全裸の人間を入れ、下から蒸気を注入して人工的に喝病にかかりやすい気象条件を作り出して罹患させ、臨床的、病理的に観察し、その病因を究明するためのものだった。
 時間が経過するにつれ全身が紅潮し汗が滝のように流れ出る。いかに苦しくとも束縛されていて身動きもできない。やがて発汗が止まる。苦渋に顔が歪み、必死に身悶えする。耐えかねて哀訴となり、怒号となり、罵声となり、狂声と変わっていくあの凄まじい断末魔ともいえる形相は、今もって脳裏にこびりついて離れない。私は初めて見るこの凄惨な光景をとても直視するに忍びず、一刻も早く逃げ出したかった。それにしても平然としてこのような実験に取り組んでいる人たちは、果たしてどんな神経の持ち主なのであろうか。……

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           ”特移扱”で中国人を731へ送った
                                     憲兵 三尾 豊
”特移扱”について
 ”特移扱”〔特殊移送扱い〕と申しますのは、憲兵が逮捕した人々を関東軍司令官の命令で731部隊に人体実験の材料として送る、その扱いを秘匿するための呼称です。”特移扱”の文書には、ソ連の諜報員と”反満抗日軍”、それから軍・国家に不利な者と書いてありました。その人たちのなかには、旧”満州国”政府に勤務する中国人もいました。中国人のことですから当然、日本政府に対して不満を持っている。そのような事実がわかれば軍・国家にとって不利であるということで、731部隊に送る対象になったわけです。 
 ご承知のように、”満州国”は傀儡政権で、”満州国”皇帝は関東軍司令官の指導のもとに動いていたわけでありますから、そこにいる、勤務している中国人は日本軍の支配に満足するはずはありません。
 さらにそこに浮浪者と書いてありますが、浮浪者はいったいなぜこのような対象になったのか。

 当時毒ガスをさかんに研究していたんです。731部隊で毒ガスを研究して、そして広島の大久野島で毒ガスの生産をしていました。毒ガスを空輸して、そして安達あるいはその先の孫呉、またハイラル、チチハルなどで毒ガス実験をさかんにやっておりました。一回の毒ガス実験で、少なくとも30~40名の実験要員が必要です。ところがこのチチハルとか孫呉で実験する時にはもっと多い数が必要で、そうしますと、実験する材料が足りなくなる、そうすると憲兵が捕らえて送り込む”特移扱”だけでは足りないんです。そこで浮浪者(開拓団の入植によって土地を収奪された農民は都市に流出し、浮浪者になる)が731部隊の材料にさせられるわけです。
 1943年(昭和18年)10月、新京警察長官三田正夫は新京憲兵隊長の依頼によって浮浪者80名を100部隊に送ったと言っています。三田さんは横浜の方で最近亡くなられましたが、警察長というのは日本流にいいますと警視総監ですね。
 100部隊というのは731部隊の姉妹部隊で、もと新京の寛城子(かんじょうし)という所にありまして関東軍病馬廠のことです。そこでは731とまったく同じことをやっていました。そこに送って実験に使いました。1943年3月に牡丹江警察局警正原口一八が、25名を731部隊牡丹江支部に送ったと供述しています。このようにして”特移扱”とは、本来正規の司法手続きとって裁判にかけるべき人を何の手続きもなく、いつでもどこでも勝手に憲兵が捕らえ、そして憲兵の判断によって731部隊に送る、そしてあの非人道きわまる実験に供出したわけです。


             http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/        
         全文と各項目へリンクした一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
  

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