1989年7月22日、新宿区に建設中の厚生省予防衛生研究所の建設現場から多数の人骨(警察発表では35体)が発見された。同現場は、旧陸軍軍医学校の跡地であり、満州の第731部隊(細菌戦部隊)と関係の深い防疫研究室が存在していた場所でる。この防疫研究室は1932年8月、後に第731部隊の部隊長に就任する石井四郎を主幹として新設された研究室である。当然のことながら、”特移扱”で”丸太”とされ、人体実験によって殺された人たちの骨ではないかと考えられた。問題は、そうした指摘を受けた政府や、発見時の警察の対応である。「消えた細菌戦部隊(関東第731部隊)」常石敬一(ちくま文庫)から、とびとびにその問題部分を抜粋する。
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こうした状況証拠から、人骨はそこに軍医学校があった1929年から1945年までに投棄されたのだろうと判断された。
そのため新宿区は厚生省に対して、人骨発見の約2週間後の8月5日付で「人骨の身元確認調査について」という文書を出している。厚生省は3日後の8日に、
「当方としてはこれを行う考えはない」という返事をしている。この後9月5日までにさらに2回新宿区は厚生省に人骨の身元調査・鑑定を求めるが、厚生省は2度とも拒否の回答をした。
新宿区は厚生省に身元調査・鑑定を要求しても埒が明かないので、9月21日に当時の区長山本克忠が、区として独自に人骨の鑑定・身元調査を行うことを区議会本会議で表明した。
鑑定はすぐには開始されなかった。新宿区が各研究者に打診すると、すぐに承諾が得られた。しかし彼らが所属する科学博物館や医科大学などに正式に依頼すると、館長や学長が断ってくるのだった。科学博物館は文部省の一部門であり、厚生省に配慮して鑑定を断ったのではないかと考える人もいた。また医科大学は付属病院を持っており、厚生省の意向に逆らうことは利益にならないのだろう、と指摘する人もいた。この間、新宿区の鑑定が進まないのは厚生省の無言の圧力があるためではないかと推測された。
こうした状況のため、翌90年4月3日に人骨が鑑定抜きで埋葬されてしまうことを恐れる人々が集まり、「軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会」
(以下では「骨の会」と略記する)が結成された。会である以上代表を置く必要があるということで、筆者が代表を務めることとなった。
人骨の鑑定
人骨の鑑定は紆余曲折を経て発見から2年後、新宿区の依頼で札幌学院大学教授の佐倉朔が1991年秋から行った。鑑定結果は「戸山人骨の鑑定報告書」
(以下では「鑑定書」と略記する)として翌年4月に公表された。「鑑定書」はB五判で、本文18ページ、B4の表2枚、それに写真102枚からなっている。「報告書」の要約をさらに短くまとめると次のようになる。
一,人骨が土の中にあった年数は数十年以上であるが、また百年以下である。
二、人骨の数は頭蓋骨でみると62体分はあり、その他の部分を考えると100体
以上にのぼる。
三、性別は3対1で男性が多い。
四、人種的にはほとんどがモンゴロイドであるが、単一ではなく、かなり多様な人
種にわたっている。
五、十数個の頭骨には脳外科手術の練習をしたような跡がある。それ以外の頭
骨の中には銃で射ぬかれた跡のあるもの、切られた跡のある者、刺された跡
のあるものがあった。
・・・
これはどのように考えても、発見された人骨は医学の教育・研究機関と、そしてこの場合は軍医学校と、関わりのある骨である。人骨と軍医学校とが関係あることは鑑定前から推測されていた(仮説)ことであり、今紹介した鑑定もそうした判断をしている(確認)。科学的には仮説が実験その他で確認され、それでひとつの事実となる。
・・・
鑑定結果の公表で当初の警察の発表に少し疑問が生まれた。人骨は掘り出された直後に警察が鑑定し、土の中での経過年数を測定した。そのときに「鑑定書」が明らかにした、人骨に実験あるいは手術の痕跡があったこと、銃や刃物で傷つけられた痕跡があったことを見落としていたのだろうか、という疑問だ。もしそうだとすればずさんな鑑定だったということになる。もうひとつの可能性は、7月22日の朝発見され、公表が24日になされたが、その2日間でなんらかの隠ぺい工作を行おうとすればできたということである。土地の管理者としての厚生省は、佐倉鑑定がスタートするまで、骨の管理者である新宿区に対して一貫して身元調査はする考えがなく、「すみやかな埋葬」を主張していた。初めから警察は厚生省の意向をくんで不十分にしか鑑定結果を発表していなかったとも考えられる。
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日本軍は、撤退を余儀なくされたとき、また玉砕が避けられないと判断したとき、あらゆる証拠の隠滅を図った。第731部隊の撤退は象徴的である。日本軍の証拠隠滅は徹底していた。そして、その隠蔽の体質が日本政府にしっかりと受け継がれているように思えてならない。
進んで調査し、事実を公表するとともに、適切な措置をとるべきであったと思う。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
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こうした状況証拠から、人骨はそこに軍医学校があった1929年から1945年までに投棄されたのだろうと判断された。
そのため新宿区は厚生省に対して、人骨発見の約2週間後の8月5日付で「人骨の身元確認調査について」という文書を出している。厚生省は3日後の8日に、
「当方としてはこれを行う考えはない」という返事をしている。この後9月5日までにさらに2回新宿区は厚生省に人骨の身元調査・鑑定を求めるが、厚生省は2度とも拒否の回答をした。
新宿区は厚生省に身元調査・鑑定を要求しても埒が明かないので、9月21日に当時の区長山本克忠が、区として独自に人骨の鑑定・身元調査を行うことを区議会本会議で表明した。
鑑定はすぐには開始されなかった。新宿区が各研究者に打診すると、すぐに承諾が得られた。しかし彼らが所属する科学博物館や医科大学などに正式に依頼すると、館長や学長が断ってくるのだった。科学博物館は文部省の一部門であり、厚生省に配慮して鑑定を断ったのではないかと考える人もいた。また医科大学は付属病院を持っており、厚生省の意向に逆らうことは利益にならないのだろう、と指摘する人もいた。この間、新宿区の鑑定が進まないのは厚生省の無言の圧力があるためではないかと推測された。
こうした状況のため、翌90年4月3日に人骨が鑑定抜きで埋葬されてしまうことを恐れる人々が集まり、「軍医学校跡地で発見された人骨問題を究明する会」
(以下では「骨の会」と略記する)が結成された。会である以上代表を置く必要があるということで、筆者が代表を務めることとなった。
人骨の鑑定
人骨の鑑定は紆余曲折を経て発見から2年後、新宿区の依頼で札幌学院大学教授の佐倉朔が1991年秋から行った。鑑定結果は「戸山人骨の鑑定報告書」
(以下では「鑑定書」と略記する)として翌年4月に公表された。「鑑定書」はB五判で、本文18ページ、B4の表2枚、それに写真102枚からなっている。「報告書」の要約をさらに短くまとめると次のようになる。
一,人骨が土の中にあった年数は数十年以上であるが、また百年以下である。
二、人骨の数は頭蓋骨でみると62体分はあり、その他の部分を考えると100体
以上にのぼる。
三、性別は3対1で男性が多い。
四、人種的にはほとんどがモンゴロイドであるが、単一ではなく、かなり多様な人
種にわたっている。
五、十数個の頭骨には脳外科手術の練習をしたような跡がある。それ以外の頭
骨の中には銃で射ぬかれた跡のあるもの、切られた跡のある者、刺された跡
のあるものがあった。
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これはどのように考えても、発見された人骨は医学の教育・研究機関と、そしてこの場合は軍医学校と、関わりのある骨である。人骨と軍医学校とが関係あることは鑑定前から推測されていた(仮説)ことであり、今紹介した鑑定もそうした判断をしている(確認)。科学的には仮説が実験その他で確認され、それでひとつの事実となる。
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鑑定結果の公表で当初の警察の発表に少し疑問が生まれた。人骨は掘り出された直後に警察が鑑定し、土の中での経過年数を測定した。そのときに「鑑定書」が明らかにした、人骨に実験あるいは手術の痕跡があったこと、銃や刃物で傷つけられた痕跡があったことを見落としていたのだろうか、という疑問だ。もしそうだとすればずさんな鑑定だったということになる。もうひとつの可能性は、7月22日の朝発見され、公表が24日になされたが、その2日間でなんらかの隠ぺい工作を行おうとすればできたということである。土地の管理者としての厚生省は、佐倉鑑定がスタートするまで、骨の管理者である新宿区に対して一貫して身元調査はする考えがなく、「すみやかな埋葬」を主張していた。初めから警察は厚生省の意向をくんで不十分にしか鑑定結果を発表していなかったとも考えられる。
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日本軍は、撤退を余儀なくされたとき、また玉砕が避けられないと判断したとき、あらゆる証拠の隠滅を図った。第731部隊の撤退は象徴的である。日本軍の証拠隠滅は徹底していた。そして、その隠蔽の体質が日本政府にしっかりと受け継がれているように思えてならない。
進んで調査し、事実を公表するとともに、適切な措置をとるべきであったと思う。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。