下記は、朝鮮戦争に於ける朝鮮民衆の体験をつぶさに調査し、いち早くその犯罪性を告発した国際民主婦人連盟17カ国の代表からなる調査団の報告書である。この報告書は24カ国語に翻訳され世界中に衝撃を与えたのみならず、この報告書を受けて「国際民主法律家協会」が調査団を組織し、調査に乗り出したということでも、重要な役割を果たしたといえる。また、それがさらに「国際科学委員会」の調査団派遣へと続き、朝鮮戦争において原爆使用を辞さずと宣言していた米国などの動きを抑制し、朝鮮戦争の停戦を求める国際世論を高揚させる上で果たした役割は計り知れないといわれる。「国連軍の犯罪(民衆女性から見た朝鮮戦争)」編・解説 藤目ゆき(不二出版)からの抜粋である。(旧字体は新字体にした)
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アメリカ軍の残虐行為(付録)
国際婦人調査団報告
国際婦人調査団による朝鮮にいるアメリカ軍と李承晩軍の残虐行為調査報告書
国際民主婦人連盟の招きをうけて、さまざまな婦人団体──国際民主婦人連盟やその他の婦人団体──から派遣された代表として、わたしたちは朝鮮にいるアメリカ軍と李承晩軍のやった残虐行為を調べるために、国際婦人調査団に参加しました。わたしたちはヨーロッパ、アメリカ、アジアそれにアフリカの17カ国を代表しています。調査団のメンバーは次のような人たちです。団長ノラ・ロツド(カナダ)副団長リウ・チンヤン(中国)同イダ・バツハマン(デンマーク)書記ミルセ・スヴァトソヴァ(チェコスロヴアキア)副書記トレース・ソエニト・ヘイリゲルス(オランダ)
……以下略
・・・
各民族の、さまざまな宗教や政治的見解をもっているわたしたち婦人──その中には種々な政党員もいるいし、政党に関係のない人もいる──は、目のまえに一つの共通の仕事をもったのです。つまり、この調査団にわたしたちを派遣した婦人たちや、全世界の平和を愛する人たちにたいして、わたしたちが見たままの事実を、良心的に正しく伝えるという仕事です。(……以下略)
第一章
調査団は、朝鮮と中国の国境の一都市シニジュ(新義洲)をおとずれた。この町は、ほとんど完全に破壊されていた。残った建物はひどくこわれていた。町はいく度も爆撃されたが、被害のほとんど全部は1950年11月8日の夜3回にわたる空襲と、11月10日、11日の空襲によるものであった。調査団がシニジュ(新義洲)をおとずれた日には、3回警報がでた。
シニジュ(新義洲)市人民委員会の公式発表によれば、この町は1950年7月には1万4千戸に12万6千人の住民が住んで、働いていた。調査団は、この町にはすこしでも軍需生産に役だつような工業はなかったということをきかされた。町には軽工業があっただけである。つまり、大豆、豆腐(大豆製品)の加工、靴、マッチ、塩、箸の製造である。1950年11月8日この町は、朝鮮にいるいわゆる国連軍に属する空軍百機の爆撃をうけた。この時、総計3017あった国の家と市の建物のうち2100が破壊され、住宅11000余戸のうち6800戸がこわされた。5000人あまりの住民が殺され、そのうちほぼ4000人は婦人と子供であった。17の小学校のうち16は破壊され町の19の中学校のうち12が焼夷弾で焼かれた。各派17の教会のうち残ったのはたった2つだけであった。二つの市立病院は、国際慣習の規定通りそれぞれ屋根に大きな赤十字をつけていたのに、焼夷弾で焼かれた。調査団のメンバーは、残った屋根にこれらの赤十字の跡があるのを見うけた。ある病院では、26人の患者が焼夷弾の焔で焼け死んだ。調査団は、大きなプロテスタント教会が直撃弾をうけた時、250人の人たちが死んだということをきいた。調査団が耳にした他のエピソードの中には、市営食堂の爆撃後避難しようとしている間に30人の母親と子供が殺されたという話があった。人口の密集している市場地区では、2500人の人々が死傷した。11月8日のシニジュ(新義洲)市の負傷者の総数は3155人であった。調査団のメンバーはガラクタの中から掘り出された爆弾の破片をしらべ、次の記号を書きとめた。Amm.LotRN-14-29 shell MJ For M 2 a MF MEL 1 Lot-GL-2-116 1944 MJBCA 2 ACT464
・・・
3回にわたる大空襲が、おもに多数の焼夷弾によってやられたことは明らかであった。だが、団員たちは、なぜ被害がこのように広くおよんだのか、はじめはわからなかった。たまたま、わたしたちと話しあうために集まった市の、吏員や公衆の人たちから話をきいて、やっとその理由がわかった。わたしたちと話しあった人たちは、すべて次のようにいっていた。焼夷弾の最初の波が落とされた時、火を消そうとして街路に飛び出したものは、低く飛んできた飛行機に故意に銃撃された。市が大規模に焼失したのは、火を消そうとしていた市民を、故意に銃撃したことに原因があった。
市の一婦人チャン・ユンチャ(張潤子)は、彼女の父親と夫は、焼夷弾で燃え上がった自分たちの家の火を消すために水を取ってこようとしている時、低空飛行の銃撃で殺されたといった。他の婦人キム・インタン(金仁丹)は11月8日の空襲で3人の孫と娘をなくしたと語った。子供たちは、かれらの燃えている家から走ってでる時、低空飛行の銃撃によって殺されたのである。娘は、自分の末っ子を火の中から引きづり出したところを射たれた。キム・ホンユン(金洪潤)は、かれの妻は焼夷弾で燃え上がった家から走り出したところを、機銃掃射で殺されたと話した。
シニジュ(新義洲)から平壌へゆく途中で、調査団は、通過した町や村のすべてが、完全にあるいはほとんど完全に破壊されているのを見た。それらの町はナムシ(南市)、チェンチュ(定州)、アンジュ(安州)、スクチェン(順川)、それにスンアン(順安)である。大部分の村は廃墟同然であった。
以上には1951年5月18日調査団の全員が署名した。
第2章以降は後程抜粋予定。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
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アメリカ軍の残虐行為(付録)
国際婦人調査団報告
国際婦人調査団による朝鮮にいるアメリカ軍と李承晩軍の残虐行為調査報告書
国際民主婦人連盟の招きをうけて、さまざまな婦人団体──国際民主婦人連盟やその他の婦人団体──から派遣された代表として、わたしたちは朝鮮にいるアメリカ軍と李承晩軍のやった残虐行為を調べるために、国際婦人調査団に参加しました。わたしたちはヨーロッパ、アメリカ、アジアそれにアフリカの17カ国を代表しています。調査団のメンバーは次のような人たちです。団長ノラ・ロツド(カナダ)副団長リウ・チンヤン(中国)同イダ・バツハマン(デンマーク)書記ミルセ・スヴァトソヴァ(チェコスロヴアキア)副書記トレース・ソエニト・ヘイリゲルス(オランダ)
……以下略
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各民族の、さまざまな宗教や政治的見解をもっているわたしたち婦人──その中には種々な政党員もいるいし、政党に関係のない人もいる──は、目のまえに一つの共通の仕事をもったのです。つまり、この調査団にわたしたちを派遣した婦人たちや、全世界の平和を愛する人たちにたいして、わたしたちが見たままの事実を、良心的に正しく伝えるという仕事です。(……以下略)
第一章
調査団は、朝鮮と中国の国境の一都市シニジュ(新義洲)をおとずれた。この町は、ほとんど完全に破壊されていた。残った建物はひどくこわれていた。町はいく度も爆撃されたが、被害のほとんど全部は1950年11月8日の夜3回にわたる空襲と、11月10日、11日の空襲によるものであった。調査団がシニジュ(新義洲)をおとずれた日には、3回警報がでた。
シニジュ(新義洲)市人民委員会の公式発表によれば、この町は1950年7月には1万4千戸に12万6千人の住民が住んで、働いていた。調査団は、この町にはすこしでも軍需生産に役だつような工業はなかったということをきかされた。町には軽工業があっただけである。つまり、大豆、豆腐(大豆製品)の加工、靴、マッチ、塩、箸の製造である。1950年11月8日この町は、朝鮮にいるいわゆる国連軍に属する空軍百機の爆撃をうけた。この時、総計3017あった国の家と市の建物のうち2100が破壊され、住宅11000余戸のうち6800戸がこわされた。5000人あまりの住民が殺され、そのうちほぼ4000人は婦人と子供であった。17の小学校のうち16は破壊され町の19の中学校のうち12が焼夷弾で焼かれた。各派17の教会のうち残ったのはたった2つだけであった。二つの市立病院は、国際慣習の規定通りそれぞれ屋根に大きな赤十字をつけていたのに、焼夷弾で焼かれた。調査団のメンバーは、残った屋根にこれらの赤十字の跡があるのを見うけた。ある病院では、26人の患者が焼夷弾の焔で焼け死んだ。調査団は、大きなプロテスタント教会が直撃弾をうけた時、250人の人たちが死んだということをきいた。調査団が耳にした他のエピソードの中には、市営食堂の爆撃後避難しようとしている間に30人の母親と子供が殺されたという話があった。人口の密集している市場地区では、2500人の人々が死傷した。11月8日のシニジュ(新義洲)市の負傷者の総数は3155人であった。調査団のメンバーはガラクタの中から掘り出された爆弾の破片をしらべ、次の記号を書きとめた。Amm.LotRN-14-29 shell MJ For M 2 a MF MEL 1 Lot-GL-2-116 1944 MJBCA 2 ACT464
・・・
3回にわたる大空襲が、おもに多数の焼夷弾によってやられたことは明らかであった。だが、団員たちは、なぜ被害がこのように広くおよんだのか、はじめはわからなかった。たまたま、わたしたちと話しあうために集まった市の、吏員や公衆の人たちから話をきいて、やっとその理由がわかった。わたしたちと話しあった人たちは、すべて次のようにいっていた。焼夷弾の最初の波が落とされた時、火を消そうとして街路に飛び出したものは、低く飛んできた飛行機に故意に銃撃された。市が大規模に焼失したのは、火を消そうとしていた市民を、故意に銃撃したことに原因があった。
市の一婦人チャン・ユンチャ(張潤子)は、彼女の父親と夫は、焼夷弾で燃え上がった自分たちの家の火を消すために水を取ってこようとしている時、低空飛行の銃撃で殺されたといった。他の婦人キム・インタン(金仁丹)は11月8日の空襲で3人の孫と娘をなくしたと語った。子供たちは、かれらの燃えている家から走ってでる時、低空飛行の銃撃によって殺されたのである。娘は、自分の末っ子を火の中から引きづり出したところを射たれた。キム・ホンユン(金洪潤)は、かれの妻は焼夷弾で燃え上がった家から走り出したところを、機銃掃射で殺されたと話した。
シニジュ(新義洲)から平壌へゆく途中で、調査団は、通過した町や村のすべてが、完全にあるいはほとんど完全に破壊されているのを見た。それらの町はナムシ(南市)、チェンチュ(定州)、アンジュ(安州)、スクチェン(順川)、それにスンアン(順安)である。大部分の村は廃墟同然であった。
以上には1951年5月18日調査団の全員が署名した。
第2章以降は後程抜粋予定。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。