昭和12年末、陸軍内部に密かに謀略を専門とする養成所が設けられ、20人を入所させた。それが、後方勤務要員養成所であり、後の陸軍中野学校である。後方勤務要員養成所創設の中心メンバーは、陸軍省軍務局の岩畔豪雄中佐、兵務局付の秋草俊中佐、福本亀治中佐の3人であったという。「昭和史七つの謎」保阪正康(講談社)より、その創設当初の部分を抜粋する。
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謀略のスペシャリスト
・・・
岩畔は、昭和31年に「準備された情報戦」というタイトルである雑誌に、中野学校創立時の意図を明かしているが、1930年代にはどの国も情報機関を整備していたといい、ソ連のんKGB(後のKGB)、ドイツのゲシュタポ、イギリスMI6などに比べると、日本は外事警察のような組織があるにせよ、それは「銭形平次の現代版」ていどにすぎなかったと記している。やっと昭和12年に兵務局付の組織として、牛込区若松町に木造の兵舎が建てられ、秋草をキャップとして、福本ら十数人の防諜要員が外国会館の盗聴を行うことになったというのである。この機関の中心人物が養成所創設の旗振り役を務めるが、日中戦争の謀略スタッフを本格的に養成することをねらいとしつつ、どのような学生を入学させるかについては頭を痛め「結局、幹部候補生出身の将校中から適任者を選抜すること」にしたのだという。
さらに岩畔によれば、筆記試験に合格した者は次いで口頭試問でよりわけるのだが、そのときは次のような問題をだしたのだという。
「黒地の紙に墨で字が書いてあるが、どのようにすれば判読できるか」
「野原に大小便のあとが残されている。それは男の者か、あるいは女のものか」
「妙齢の婦人が歩いている。この女性と話をするきっかけはどうつくるか」
「日露戦争時の明石元二郎大佐の活動をどう思うか」
こうして20人を選んだのだという。そして当初は1カ年を教育期間としたが、その教育内容は「性格の陶冶、学科および術科の三大部門に分かれ、性格の陶冶として秘密戦士に具えるべき気質、つまり積極性、不屈性、剛胆、細心、機敏などを訓練し、とくに物欲、名誉欲、生への執着などの欲望から超脱して、縁の下の力持ちたることに甘んずる心境に到達することを目標」にしたという。その強い精神力を土台にスパイとしての特殊技術、語学実習、護身術などに力をいれたというのだ。
アッと驚く修了テスト
第1期生20人は、ほとんどが高等専門学校や大学を卒業後、予備士官学校を出た者たちで、彼らは入所と同時に本名を用いることは禁止され、防諜名を使用した。さらに、軍服は一切着ずに背広姿となり、頭髪も長髪とした。
それだけではない。陸軍内部では、会話のなかでも天皇の名がでると誰もが姿勢を正すのであったが、この養成所ではそれがない。天皇の名がでて姿勢を正すと軍人ということがわかるので、誰もが自然のままにしていたり、ときに「天皇」と呼び捨てにしたりもするのだという。ひとたび商人や商社員、あるいは中国人に化けてしまうと、「天皇」という語に姿勢を正すのは不自然だからである。
第1期生が書き残している手記からは、天皇についてのタブーは一切なく、「天皇や国体について、学生に自由に議論させました」との一節を容易に見ることができる。表面上は皇国史観を排していたのである。
第1期生20人(実際の卒業生は19人)のレベルがあまりにも高かったのが、この養成所が陸軍中野学校として拡充されていく契機になった。そのレベルを知るエピソードがある。
昭和14年8月、第1期生の修了時には驚くような修了テストが行われた。初代所長の秋草は、ある一日を限って、その日に陸軍軍務局や兵務局の重要書類を盗みだすよう命じたのである。むろんこのことは陸軍省の将校たちとてまったく知らないことだ。夕方の定められた時間までに19人の学生は、命じられた部局から重要書類をすべて盗みだし、秋草のもとに届けている。
秋草からこの報告を受けた陸軍省の局長たちは唖然とした表情だったそうだ。この第1期生は大体が参謀本部の班員になったという。陸大卒業の将校と同じ扱いを受けたのである。
こうした工作員をもっと大がかりに、体系立てて養成するために、養成所は昭和14年春に陸軍中野学校として組織替えがおこなわれることになる。東京・中野の電信隊の建物を改装し、設備も整えたうえに、しばらく参謀本部第2(情報)部長の隷下にあったが、やがて養成所は陸軍大臣直轄の学校にと変わった。
第2期生(乙Ⅰ期)は昭和14年11月にこの新しい建物に入学したのだが、学生の選抜も正規将校(陸軍士官学校出身者)や下士官、それに一部の有能な兵士にまでその範囲を広げていった。学生数も百人、2百人と広がっていき、加えて教育内容もすべての科目を施すのではなく、専門別教育(盗聴なら盗聴の専門家、ゲリラ戦のためのゲリラ戦士、戦況がどうあれ敵地に潜入する工作員、敵地に住みついて情報を送ってくる残地諜者まど)に分かれていったというのである。その分だけ教育期間もまた短くなっていった。
諸官は一人で一個師団に相当する
昭和20年8月15日までの間に、陸軍中野学校出身者はおよそ2500名を数えている(この数字も諸説あるが、昭和20年8月15日段階では、わずか1週間しか在学していない者もいた。彼らを含めるか否かで数字は変わってくる。ここでは含めておく)彼らの情報収集力、分析力、謀略工作の能力、それに精神的な強靱さは、太平洋戦争が始まってからは、重要な「戦力」であった。
前述した「防諜記」のなかでも紹介されているのだが、陸軍中野学校修了時の式には、杉山元参謀総長が臨席して必ず「諸官一人一人は、すなわち1個師団の兵員である。諸官ら優秀なる秘密戦士は、敵の何個師団もの兵力を壊滅せしめるだろう」と挨拶するのが常であったが、実際にこれらの工作員は中国各地で、東南アジアで、あるいはヨーロッパで、そして日本国内で意外なほど多くの謀略工作に携わったのだ。(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
青字および赤字が書名や抜粋部分です。「・・・」は、文の省略を示します。
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謀略のスペシャリスト
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岩畔は、昭和31年に「準備された情報戦」というタイトルである雑誌に、中野学校創立時の意図を明かしているが、1930年代にはどの国も情報機関を整備していたといい、ソ連のんKGB(後のKGB)、ドイツのゲシュタポ、イギリスMI6などに比べると、日本は外事警察のような組織があるにせよ、それは「銭形平次の現代版」ていどにすぎなかったと記している。やっと昭和12年に兵務局付の組織として、牛込区若松町に木造の兵舎が建てられ、秋草をキャップとして、福本ら十数人の防諜要員が外国会館の盗聴を行うことになったというのである。この機関の中心人物が養成所創設の旗振り役を務めるが、日中戦争の謀略スタッフを本格的に養成することをねらいとしつつ、どのような学生を入学させるかについては頭を痛め「結局、幹部候補生出身の将校中から適任者を選抜すること」にしたのだという。
さらに岩畔によれば、筆記試験に合格した者は次いで口頭試問でよりわけるのだが、そのときは次のような問題をだしたのだという。
「黒地の紙に墨で字が書いてあるが、どのようにすれば判読できるか」
「野原に大小便のあとが残されている。それは男の者か、あるいは女のものか」
「妙齢の婦人が歩いている。この女性と話をするきっかけはどうつくるか」
「日露戦争時の明石元二郎大佐の活動をどう思うか」
こうして20人を選んだのだという。そして当初は1カ年を教育期間としたが、その教育内容は「性格の陶冶、学科および術科の三大部門に分かれ、性格の陶冶として秘密戦士に具えるべき気質、つまり積極性、不屈性、剛胆、細心、機敏などを訓練し、とくに物欲、名誉欲、生への執着などの欲望から超脱して、縁の下の力持ちたることに甘んずる心境に到達することを目標」にしたという。その強い精神力を土台にスパイとしての特殊技術、語学実習、護身術などに力をいれたというのだ。
アッと驚く修了テスト
第1期生20人は、ほとんどが高等専門学校や大学を卒業後、予備士官学校を出た者たちで、彼らは入所と同時に本名を用いることは禁止され、防諜名を使用した。さらに、軍服は一切着ずに背広姿となり、頭髪も長髪とした。
それだけではない。陸軍内部では、会話のなかでも天皇の名がでると誰もが姿勢を正すのであったが、この養成所ではそれがない。天皇の名がでて姿勢を正すと軍人ということがわかるので、誰もが自然のままにしていたり、ときに「天皇」と呼び捨てにしたりもするのだという。ひとたび商人や商社員、あるいは中国人に化けてしまうと、「天皇」という語に姿勢を正すのは不自然だからである。
第1期生が書き残している手記からは、天皇についてのタブーは一切なく、「天皇や国体について、学生に自由に議論させました」との一節を容易に見ることができる。表面上は皇国史観を排していたのである。
第1期生20人(実際の卒業生は19人)のレベルがあまりにも高かったのが、この養成所が陸軍中野学校として拡充されていく契機になった。そのレベルを知るエピソードがある。
昭和14年8月、第1期生の修了時には驚くような修了テストが行われた。初代所長の秋草は、ある一日を限って、その日に陸軍軍務局や兵務局の重要書類を盗みだすよう命じたのである。むろんこのことは陸軍省の将校たちとてまったく知らないことだ。夕方の定められた時間までに19人の学生は、命じられた部局から重要書類をすべて盗みだし、秋草のもとに届けている。
秋草からこの報告を受けた陸軍省の局長たちは唖然とした表情だったそうだ。この第1期生は大体が参謀本部の班員になったという。陸大卒業の将校と同じ扱いを受けたのである。
こうした工作員をもっと大がかりに、体系立てて養成するために、養成所は昭和14年春に陸軍中野学校として組織替えがおこなわれることになる。東京・中野の電信隊の建物を改装し、設備も整えたうえに、しばらく参謀本部第2(情報)部長の隷下にあったが、やがて養成所は陸軍大臣直轄の学校にと変わった。
第2期生(乙Ⅰ期)は昭和14年11月にこの新しい建物に入学したのだが、学生の選抜も正規将校(陸軍士官学校出身者)や下士官、それに一部の有能な兵士にまでその範囲を広げていった。学生数も百人、2百人と広がっていき、加えて教育内容もすべての科目を施すのではなく、専門別教育(盗聴なら盗聴の専門家、ゲリラ戦のためのゲリラ戦士、戦況がどうあれ敵地に潜入する工作員、敵地に住みついて情報を送ってくる残地諜者まど)に分かれていったというのである。その分だけ教育期間もまた短くなっていった。
諸官は一人で一個師団に相当する
昭和20年8月15日までの間に、陸軍中野学校出身者はおよそ2500名を数えている(この数字も諸説あるが、昭和20年8月15日段階では、わずか1週間しか在学していない者もいた。彼らを含めるか否かで数字は変わってくる。ここでは含めておく)彼らの情報収集力、分析力、謀略工作の能力、それに精神的な強靱さは、太平洋戦争が始まってからは、重要な「戦力」であった。
前述した「防諜記」のなかでも紹介されているのだが、陸軍中野学校修了時の式には、杉山元参謀総長が臨席して必ず「諸官一人一人は、すなわち1個師団の兵員である。諸官ら優秀なる秘密戦士は、敵の何個師団もの兵力を壊滅せしめるだろう」と挨拶するのが常であったが、実際にこれらの工作員は中国各地で、東南アジアで、あるいはヨーロッパで、そして日本国内で意外なほど多くの謀略工作に携わったのだ。(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
青字および赤字が書名や抜粋部分です。「・・・」は、文の省略を示します。