下記は、陸軍中野学校の卒業生が関わった事件を「陸軍中野学校の真実 諜報員たちの戦後」斎藤充功(角川書店)から一部抜粋したものである。この事件の計画実行は、中野学校の教育とは直接関係があるわけではないと思われるが、関連事件として抜粋する。
なお、九州地区では米軍捕虜を日本刀で処刑したのは、油山事件のほかにも、西部軍管区司令部の庭で12名を斬首した事件があるという。
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油山事件
帰国後(櫻)はまたアメリカ班に勤務し、昭和19年8月に大尉に昇進。次いでアメリカ班を離れて昭和20年(1945)6月に、中野学校を卒業以来初めての部隊勤務となる。任地は九州の第16方面軍参謀部情報班であった。6月19日には福岡が米軍の空襲を受けて、司令部は灰燼に帰していた。
翌20日、市内の福岡高等女学校(現福岡中央高校)の校庭では異常な光景が展開していた。それは第1回の捕虜になっていたB29搭乗員12名の集団処刑であった。それも、日本刀による斬首の公開処刑である。午後1時から始まった処刑には、一般市民や学生など見物に来た黒山の人だかりができた。処刑には4時間を要したという。
第16方面軍(西部軍管区司令官兼任)司令官横山勇中将は空襲のあとに、司令部を福岡市の南方に位置する筑紫郡山家村(現筑紫野市)の洞窟に移してしまった。もちろん、司令部幕僚も司令官と一緒に洞窟司令部に移ったことはいうまでもない。
櫻が東京から転勤してきた6月8日で、公開処刑が行われる前であった。また、櫻が赴任してきた頃、参本第8課が第4班に変わり、その第4班から先輩の1期生亀山六蔵少佐が先任将校として情報班に転属になっていた。
「米軍捕虜の尋問をしたのは8月の暑い日だったことを覚えています。尋問したのは敵航空勢力の実力と侵攻状況などについてでした。尋問が戦時国際法に反していたとは思っていません。それに、捕虜に対して拷問したことはありません。
問題はそのあとのことです。私たちは、”油山事件”と呼んでいますが、捕虜を処刑したんです。このとこは、中野学校の一部の者が知る程度で、学校史にもほんのわずか記述されているにすぎません」
校史にはこうある。
<西部軍には、米軍俘虜の処置に関し、後に戦犯事件になる問題が2件発生した。その一つは油山事件で、赴任したばかりの中野出身者がこのために苦労しなければならなかったのは、誠に気の毒であった>
櫻が明かしてくれた油山事件とは、長崎に原爆が投下された8月9日に、福岡市郊外の油山と呼ばれていた市営火葬場近くの雑木林で、同じB29の搭乗員だった捕虜を処刑した2回目の事件であった。処刑の指揮官は西部軍参謀副長の友森清晴大佐(陸士34期)で、ほかにも憲兵少佐の江夏源治や第6航空軍参謀の伊丹少佐などが立ち会っていた。
では、実際の処刑はどのように行われたのか。当時、方面軍報道班員だった上野文雄の著作を引用してみる。
<死刑執行指揮官は、参謀見習の少佐射手園達夫であった。この日、刀を揮ったのはやはり腕自慢の法務大尉和光勇精大尉、法務中尉吉田寛二、少尉楢崎正彦、それに遊撃隊員も加わった。処刑者は8人であった。いずれも目隠しされて一ヵ所に座らされ、そこから一人ずつ、処刑場になっている緑の雑木林の奧に連れて行かれた。自分の順番を待つ間、彼らはもうりっぱに観念しているようで、騒ぐ者もいなかった。(中略)また剣道5段の楢崎少尉は、肩からはすかいにきれいなけさ切りで切った。>(『終戦秘録 九州8月15日』)
櫻は事件を回想する。
「油山事件はいやな事件でした。私は直接、処刑に立ち会ったことはありませんが、自分が尋問した捕虜が処刑された。と後で聞いた時には憂鬱な気分でした。おそらくこの処刑を決定した上層部の判断には、報復的な意味が充分あったと思うんです。処刑の直前には福岡空襲、広島の原爆投下、そして、9日には近くの長崎に原爆が投下されていますから……」
捕虜をケサ切りにしたとされる少尉は、後述する八丙出身の斎藤律平と同期の卒業生であった。楢崎にについて櫻は語る。
「楢崎君はたしか、国士舘出の剣道の達人で戦後は最高位の範士九段を取りました。あの事件で巣鴨に長く入っていたはずですが、四年前(平成11年6月)亡くなりました。私の記憶では油山事件で戦犯に問われて処刑された人はいなかったと思います」
処刑後、指揮官だった友森大佐は全員を集めて次のような訓辞をしていた。
<本日の処刑は、国際法の定めるところによっておこなわれたものである。しかし、外部にはあまり口外しないように>(前掲書より)
中野時代を詳細に語ってくれた櫻も、この油山事件に関してだけは口が重く、話したのは今回が初めてだという。私は心境を問うてみた。
「中野学校の卒業生が直接、間接に関わった歴史の表に出ない情報諜報活動はまだ他にもたくさんあると思います。しかし、私の信じるかぎり、中野の卒業生が自ら進んで無益な殺生をしたとは思っていません。おそらく楢崎君にしても、配属されていた西部軍の上官から命令されてやったことだと思うんです。
巣鴨に入ったのも、その責任を問われての結果でしょうが、執行の指揮官だった友森大佐の処分がどうなったかが気掛かりな点です。私が今回あなたに話したのは、中野学校の諜報、謀略などの教育を受けてきた我々は、時と場合によって非合法な活動をすることもあるという、その事実を知ってもらいたかったからです。楢崎君のケースは、非合法な活動というよりも上官の命でやったことですから。それと、剣道の達人ということが指名の第1にあったと思うんです」
(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
青字および赤字が書名や抜粋部分です。「・・・」は、文の省略を示します。
なお、九州地区では米軍捕虜を日本刀で処刑したのは、油山事件のほかにも、西部軍管区司令部の庭で12名を斬首した事件があるという。
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油山事件
帰国後(櫻)はまたアメリカ班に勤務し、昭和19年8月に大尉に昇進。次いでアメリカ班を離れて昭和20年(1945)6月に、中野学校を卒業以来初めての部隊勤務となる。任地は九州の第16方面軍参謀部情報班であった。6月19日には福岡が米軍の空襲を受けて、司令部は灰燼に帰していた。
翌20日、市内の福岡高等女学校(現福岡中央高校)の校庭では異常な光景が展開していた。それは第1回の捕虜になっていたB29搭乗員12名の集団処刑であった。それも、日本刀による斬首の公開処刑である。午後1時から始まった処刑には、一般市民や学生など見物に来た黒山の人だかりができた。処刑には4時間を要したという。
第16方面軍(西部軍管区司令官兼任)司令官横山勇中将は空襲のあとに、司令部を福岡市の南方に位置する筑紫郡山家村(現筑紫野市)の洞窟に移してしまった。もちろん、司令部幕僚も司令官と一緒に洞窟司令部に移ったことはいうまでもない。
櫻が東京から転勤してきた6月8日で、公開処刑が行われる前であった。また、櫻が赴任してきた頃、参本第8課が第4班に変わり、その第4班から先輩の1期生亀山六蔵少佐が先任将校として情報班に転属になっていた。
「米軍捕虜の尋問をしたのは8月の暑い日だったことを覚えています。尋問したのは敵航空勢力の実力と侵攻状況などについてでした。尋問が戦時国際法に反していたとは思っていません。それに、捕虜に対して拷問したことはありません。
問題はそのあとのことです。私たちは、”油山事件”と呼んでいますが、捕虜を処刑したんです。このとこは、中野学校の一部の者が知る程度で、学校史にもほんのわずか記述されているにすぎません」
校史にはこうある。
<西部軍には、米軍俘虜の処置に関し、後に戦犯事件になる問題が2件発生した。その一つは油山事件で、赴任したばかりの中野出身者がこのために苦労しなければならなかったのは、誠に気の毒であった>
櫻が明かしてくれた油山事件とは、長崎に原爆が投下された8月9日に、福岡市郊外の油山と呼ばれていた市営火葬場近くの雑木林で、同じB29の搭乗員だった捕虜を処刑した2回目の事件であった。処刑の指揮官は西部軍参謀副長の友森清晴大佐(陸士34期)で、ほかにも憲兵少佐の江夏源治や第6航空軍参謀の伊丹少佐などが立ち会っていた。
では、実際の処刑はどのように行われたのか。当時、方面軍報道班員だった上野文雄の著作を引用してみる。
<死刑執行指揮官は、参謀見習の少佐射手園達夫であった。この日、刀を揮ったのはやはり腕自慢の法務大尉和光勇精大尉、法務中尉吉田寛二、少尉楢崎正彦、それに遊撃隊員も加わった。処刑者は8人であった。いずれも目隠しされて一ヵ所に座らされ、そこから一人ずつ、処刑場になっている緑の雑木林の奧に連れて行かれた。自分の順番を待つ間、彼らはもうりっぱに観念しているようで、騒ぐ者もいなかった。(中略)また剣道5段の楢崎少尉は、肩からはすかいにきれいなけさ切りで切った。>(『終戦秘録 九州8月15日』)
櫻は事件を回想する。
「油山事件はいやな事件でした。私は直接、処刑に立ち会ったことはありませんが、自分が尋問した捕虜が処刑された。と後で聞いた時には憂鬱な気分でした。おそらくこの処刑を決定した上層部の判断には、報復的な意味が充分あったと思うんです。処刑の直前には福岡空襲、広島の原爆投下、そして、9日には近くの長崎に原爆が投下されていますから……」
捕虜をケサ切りにしたとされる少尉は、後述する八丙出身の斎藤律平と同期の卒業生であった。楢崎にについて櫻は語る。
「楢崎君はたしか、国士舘出の剣道の達人で戦後は最高位の範士九段を取りました。あの事件で巣鴨に長く入っていたはずですが、四年前(平成11年6月)亡くなりました。私の記憶では油山事件で戦犯に問われて処刑された人はいなかったと思います」
処刑後、指揮官だった友森大佐は全員を集めて次のような訓辞をしていた。
<本日の処刑は、国際法の定めるところによっておこなわれたものである。しかし、外部にはあまり口外しないように>(前掲書より)
中野時代を詳細に語ってくれた櫻も、この油山事件に関してだけは口が重く、話したのは今回が初めてだという。私は心境を問うてみた。
「中野学校の卒業生が直接、間接に関わった歴史の表に出ない情報諜報活動はまだ他にもたくさんあると思います。しかし、私の信じるかぎり、中野の卒業生が自ら進んで無益な殺生をしたとは思っていません。おそらく楢崎君にしても、配属されていた西部軍の上官から命令されてやったことだと思うんです。
巣鴨に入ったのも、その責任を問われての結果でしょうが、執行の指揮官だった友森大佐の処分がどうなったかが気掛かりな点です。私が今回あなたに話したのは、中野学校の諜報、謀略などの教育を受けてきた我々は、時と場合によって非合法な活動をすることもあるという、その事実を知ってもらいたかったからです。楢崎君のケースは、非合法な活動というよりも上官の命でやったことですから。それと、剣道の達人ということが指名の第1にあったと思うんです」
(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
青字および赤字が書名や抜粋部分です。「・・・」は、文の省略を示します。