真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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三島由紀夫 盾の会隊長の命令書

2008年10月20日 | 国際・政治
 「盾の会」の指導に当たった山本舜勝一佐(後に陸将補)は自衛隊調査学校(現小平学校)の副校長であり、陸軍中野学校で情報戦術を教える研究部員兼任の教官であった人であるが、その著『自衛隊「影の部隊」三島由紀夫を殺した真実の告白』元自衛隊陸将補山本舜勝(講談社)で、「30年経った今、三島事件を改めて問い直そうという気運が見え始めたのは幸いである」と書いている。憲法改正の動きの中に、「生命尊重以上の価値、それは自由でも民主主義でもなく、天皇である」というような三島の思想があり、それが力を持ち始めているとすれば、見逃すわけにはいかないと思う。ここでは、同書の中から、盾の会会員への「命令書」を抜粋する。
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命令書

 小賀正義君 君は予の慫慂により、死を決して今回の行動に参加し、参加に際しては、予の命令に絶対服従を誓った。依ってここに命令する。君の任務は同志古賀浩靖君と共に人質を護送してこれを安全に引き渡したるのち、いさぎよく縛につき、盾の会の精神を堂々と、法廷において陳述することである。

 今回の事件は、盾の会隊長たる三島が、計画、立案、命令し学生長森田必勝が参画したものである。三島の自刃は隊長としての責任上、当然のことなるも、森田必勝の自刃は、自ら進んで盾の会全会員及び現下日本の憂国の志を抱く青年層を代表して、自ら範を垂れて、青年の心意気を示さんとする、鬼神を哭かしむる凛冽の行為である。三島はともあれ、森田の精神を後世に向かって恢弘せよ。
 しかしひとたび同志たる上は、たとひ生死相隔たるとも、その志に於いて変わりはない。むしろ死は易く、生は難い。敢て命じて君を艱苦の生に残すことは予としても忍び難いが、今や盾の会の精神が正しく伝わるか否かは君らの双肩にある。あらゆる苦難に耐え、忍び難きを忍び、決して挫けることなく、初一念を貫いて、皇国日本の再建に邁進せよ。
                                        盾の会隊長
                                        三島由紀夫
 昭和45年11月
 小賀 正義君



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三島由紀夫 「檄」自衛隊の治安出動

2008年10月20日 | 国際・政治
 1970年11月25日、三島由紀夫は「楯の会」のメンバー4人を伴い、陸上自衛隊東部方面総監部を訪問した。ドゴール将軍の軍服を意識し作らせたという会の制服姿であった。そして、総監・益田兼利陸将を縛り上げて監禁し、自衛官と詰めかけたマスコミ陣に対して30分間演説することを認めさせた後、バルコニーで自衛隊にクーデターを迫る演説をした。決起を促す三島の演説は約10分間続いたが、自衛官は全く動く気配を見せず、「バカヤロー、何を考えてんだー!」、「英雄気取りするなー!」、「頭を冷やせー!」などの反撥の声が上がる始末であったという。 三島は「天皇陛下万歳」を三唱して総監室に戻ると、切腹の作法に則って持参の短刀で自決した。学生長森田必勝および古賀浩靖が介錯したとのことであるが、彼の文学作品は、その時すでにヨーロッパやアメリカで高く評価され、ノーベル文学賞の候補にも上げられていたのである。なぜ、世界的に通用する思想や平和を追求せず、天皇中心の国家理念や武士道を至上のものとし、戦争へと向かう国粋主義的な言動に終始したのか理解できない。大戦末期、大多数の国民や兵士の地獄の苦しみには目もくれず「本土決戦、一億玉砕」を叫んだ青年将校が思い出される。
 『自衛隊「影の部隊」三島由紀夫を殺した真実の告白』元自衛隊陸将補山本舜勝(講談社)
より、「檄」の一部を抜粋する。筆者は、「盾の会」の指導に当たった山本舜勝一佐(後に陸将補)で、自衛隊調査学校(現小平学校)の副校長であり、陸軍中野学校で情報戦術を教える研究部員兼任の教官であった人である。
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                                 盾の会隊長 三島由紀夫
 われわれ盾の会は、自衛隊によって育てられ、いはば自衛隊はわれわれの父であり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かえりみれば、私は4年、学生は3年、隊内で
準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかった男の涙を知った。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑ひもない。われわれにとって自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈の気を呼吸できる唯一の場所であった。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢えてこの挙に出たのは何故であるか。たとえ強弁と云われようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
 われわれ戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を瀆してゆくのを、歯噛みしながら見てゐなければならなかった。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されてゐるのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、ご都合主義の法的解釈によってごまかされ、軍の名を用いない軍として、日本人の魂の腐敗、道義の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もっとも名誉を重んずべき軍が、もっとも悪質の欺瞞の下に放置されて来たのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を負いつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与えられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与えられず、その忠誠の対象も明確にされなかった。われわれは戦後のあまりに永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によって、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽くすこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
 4年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には盾の会を結成した。盾の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てようといふ決心にあった。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、
治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となって命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によって国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであろう。日本の軍隊の建軍の本義とは「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲がった大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。

 ・・・(中略)

 われわれは4年待った。最後の1年は熱烈に待った。もう待てぬ。自ら冒瀆する者を待つわけには行かぬ。しかしあと30分、最後の30分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。


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