「史的解明 独島(竹島)」愼鏞廈<著>韓誠<訳>に取り上げられている李睟光(イスグァン)の「……倭奴(ウェノム)が磯竹島を占拠したというが、磯竹島とはまさに鬱陵島のことである」という言葉や、東萊府使・朴慶業が、訪れた日本人に向かって言ったという「……現在のところ空島政策をとっているが、外国人の出入りは絶対に許すわけにはいかない」、という言葉からは、強い領土意識が読み取れる。「無人であったから編入した」という日本の言い分が通用するか疑問である。
また、日本の雲州の藩士、斉藤豊山の「……この2つの島は無人島で、高麗の国を前にするのは、雲州が隠岐を前にするのと同じである。 ……」を素直に読めば、鬱陵島と独島の2島は高麗の領土、隠岐島が雲州(日本)の領土と受けとめらなくはない。竹島に最も近いといえる雲州の藩士が、そのような意識であったということを考えると、「竹島は日本固有の領土である」とは言いにくい。上記の「史的解明 独島(竹島)」からの抜粋である。
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第4章 朝鮮王朝の鬱陵島、独島領有と統治政策
7 壬辰倭乱(イムジンウェラン)(文録慶長の役)直後の日本側の鬱陵島(ウルルンド)、
独島(トクト)政策
朝鮮(チョソン)王朝の領土である鬱陵島(ウルルンド)と于山島(ウサンド)=独島(トクト)は壬辰倭乱(イムジンウェラン)(1592~1597)の間に日本軍に占領され荒らされた。
李睟光(イスグァン)の《芝峰類説(ジボンユソル)》は、この時の様子を断片的に次のように伝えている。
「鬱陵島は別の名を武陵(ムルン)・羽陵(ウルン)といい、東海の中にあって蔚珍県と向かいあっており、島の真中に大きな山があり、土地の端から端までの距離は100里である。……壬辰倭乱の後、島に住みつくために渡った者もいたが、倭人の略奪を受け、二度と渡る者はいなかった。最近、聞くところによると、倭奴(ウェノム)が磯竹島を占拠したというが、磯竹島とはまさに鬱陵島のことである」
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翌年の1615年(光海君7年)にも、日本の船2隻が朝鮮にやって来て、”磯竹島(鬱陵島)の地形を調査したい”と要請した。
東萊府使・朴慶業は”昨年、朝鮮政府が外交文書で明らかにしたように、鬱陵島は朝鮮の領土であり、そのことは《東国輿地勝覧》にも記述されている。また新羅、高麗の時代から特産物の貢物を受け取ってきたし、朝鮮王朝時代にも何度も島民を本土に連れ戻した記録がある。現在のところ空島政策をとっているが、外国人の出入りは絶対に許すわけにはいかない”と断固彼らの要求をはねつけ、返書を持たせて追い返した。
しかし徳川幕府は、朝鮮政府と何らの協議なしに、1618年(光海君10年、日本では元和4年)、米子の町人である大谷甚吉と村川市兵衛に鬱陵島への渡航免許を与えた。
この渡航免許は、外国へ行って通商ができる免許であった。したがって、徳川幕府は鬱陵島を外国領土として認めていたが、人が住まない空島であるのを口実にして、2人の町人が、鬱陵島で漁労や伐採などができるように取り計らったのである。
万一朝鮮政府が抗議してくれば、この許可状は”渡航免許”で外国との通商許可状に過ぎないと白を切ればいいわけである。
そういうわけで、大谷甚吉と村川市兵衛は朝鮮政府の許可なしに鬱陵島に入り込み、思う存分、漁労と伐採に精を出した。独島にも途中何度か立ち寄ったことであろう。
大谷家は1656年に徳川幕府から独島渡航免許を受けた。その間、約80年間も朝鮮政府を無視したまま、鬱陵島、独島は2人の日本人の一族によって侵犯されたことになる。
・・・(以下略)
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8 日本の文献による独島(トクト)は高麗(コリョ)の領土
日本の調査によると、日本の文献の中で、鬱陵島(ウルルンド)と一緒に独島(トクト)が最初に登場するのは、1667年に編纂された《隠州視聴合記》である。
この本は編者の斉藤豊山が出雲・雲州の藩士として藩主の命を受けて1667年<寛文7年、朝鮮では顕宗(ヒョンジョン)8年>の秋に隠岐島を旅しながら観察したことを報告したものである。
この本に次のような文がある。
「隠州は北海の中にある。だから隠岐島と呼ぶ……戌亥の間(北西)に1泊2日の航海をすれば、松島(独島)に着く。またもぅ1日で竹島(鬱陵島)に着く。(別名、磯竹島というが竹と魚とおっとせいが多い、神書にあらわれるいわゆる五十猛であろうか)
この2つの島は無人島で、高麗の国を前にするのは、雲州が隠岐を前にするのと同じである。だから、日本の西北の境地はこの隠州と思う。」
この本では日本の隠岐から西北に船で2日行くと独島があり、独島から1日のところに鬱陵島があるとしてその位置と距離から想像して独島を松島と呼び、鬱陵島を竹島と呼んでいる。そして、距離的に2つの島から高麗国を見ることは日本の雲州(今の島根県)から隠岐島を見るのと同じだとしている。それ故に、日本西北の国境は隠岐島とみなすとしている。
日本で一番古い独島に関する記録が、独島は高麗の領土であり、日本の境界の外にあるという事実を明らかにした。
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