真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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竹島領有権問題その6(空島政策廃止と勅令第41号)

2010年01月26日 | 国際・政治
 日本政府が竹島の領土編入を閣議決定し、島根県が「北緯37度9分30秒、東経131度55分、隠岐島から西北85海里に位置する島を竹島と命名し、今後は本県に所属し、隠岐島司の所管とする」と告示したのは、1905年2月22日である。しかしながら、下記の通り朝鮮王朝は、1882年は鬱陵島空島政策を廃止し、再開拓に着手していた。そして、大韓帝国勅令第41号で鬱陵郡を設置し、郡庁に竹島(独島)も管轄させることとしたようである。その地を、日本政府は「……隠岐島ヲ距ル西北85浬ニ在ル無人島ハ他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ム形跡ナク……」として、無主地先占論で編入した。そして、現在外務省は「竹島は日本固有の領土である」という。「史的解明 独島(竹島)」 愼鏞廈<著>韓誠<訳>(インター出版)を読むかぎり、無主地先占論も日本固有の領土論も、かなりの無理があると言わざるを得ない。
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第7章 朝鮮王朝の空島政策廃止と鬱陵島、独島再開拓

2 朝鮮王朝の空島政策廃止

 朝鮮政府は1881年5月23日、李奎遠(イギュウオン)を鬱陵島検察使に任命したが、その時点から出発準備をしても伐採の季節が終わってしまうことから、実際に出発したのは翌年、1882年4月10日であった。
 出発にあたって国王に拝謁したが、国王・高宗はその席で鬱陵島と共に独島も調査するよう命じた。


 ・・・

 高宗国王は、1882年6月5日、鬱陵島検察使・李奎遠のこうした報告を受けて、
 ①日本人の侵入と”大日本国松島……”と看板を立てたことに対して、日本側に抗議文書を送り、②鬱陵島空島政策を廃止し、鬱陵島の開拓に早急に手をつけるべきだと強調した。

 国王の勅命を受けた領議政・洪淳穆は、壬午軍乱(イモグンラン)が収拾した直後の1882年8月20日、鬱陵島開拓方針として、
①島に移住を希望する百姓を募集し、開墾を奨励し、5年間は無税とする 
②嶺南(慶尚道)、湖南(全羅道)の人を鬱陵島に行かせて漕運船を造るよう、行
  政的に許可し、
③検察使の推薦を受けて島長を任命し、
④設鎮(軍事施設を作る)は後回しにして、まず設邑(ソルウップ)(村づくり)を優先し
  ながら開拓をすすめる……などを高宗国王に建議し、高宗はこれを受け入れ
  た。
 これによって
朝鮮王朝の空島政策は、事実上廃止され、鬱陵島長に全錫奎
(チョンソクキュ)が任命された。

 ・・・(以下略)
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 日本政府は、日本人の鬱陵島不法侵入と伐木に抗議する朝鮮政府の繰り返しの要求に、1882年12月渡航禁止令を出したと回答した。
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3 朝鮮王朝の鬱陵島、独島再開拓

 ・・・
 日本内務省は政府の抗議と、実際に移住政策が実行されるのを見て、1883年9月、役人と巡査31名が乗った越後丸を鬱陵島に派遣し、そこに住む日本人254名をことごとく船に乗せ引き上げたのである。

 ・・・

 そして日露戦争における日本の勝利の後、日本人は公然と鬱陵島で山林伐採を行うようになった。駐韓ロシア公使は、ロシアが大韓帝国から山林伐採権を頂いたのに、日本人が勝手に山林伐採を行うのは許せないと、1899年外交文書で大韓帝国外部(外務省)に抗議してきた。こうして日本人の鬱陵島における山林伐採が外交問題にまで発展したのである。……
 この時期においても朝鮮王朝は、鬱陵島のみならず独島に対しても統治権を行使していた。大韓帝国学部(文部省)では、1898年に刊行した<大韓輿地図>と1899年に刊行した<大韓全図>で鬱陵島の東方の正確な位置に独島を記し、于山島と表記した。
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第8章 大韓帝国の鬱陵島、独島行政区域改正

2 1900年、大韓帝国勅令第41号と鬱陵郡の設置

 大韓帝国政府は積極的対策の一環として、鬱陵島、独島の行政上の地位を独立した郡に昇格させ、島監ではなく郡守を置く改正案を議政府(内閣)に提出し、討議した結果、1900年10月24日、満場一致で議決した。これが1900年10月25日の”勅令第41号”で全6条から成る。鬱陵島を鬱島に改称し、島監を郡守に改正する件を公布し、官報にも掲載した。



 勅令第41号
鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正した件
第1条…鬱陵島を鬱島と改称し江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、官制(行
      政単位)に編入し、郡等級は5等にすること
第2条…
郡庁は台霞洞(テハドン)に置き、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄する
      こと

第3条…開国504年8月16日、官報の官庁事項内の鬱陵島以下19字を削除し、
      開国505年、勅令36号、第5条江原道26郡の6字は7字に改正し、安
      峽郡(アンヒョップ)の下に鬱陵島3文字を挿入すること
第4条…経費は5等級として準備し、当面諸般の予算が決まっておらず、また事務
      管理業務もすべて初めてのことなので、島で納税によってまかなうこと
第5条…補足すべき諸条は、本島開拓の進み具合に応じて決めていくこと


     光武4年10月25日
     御押 御璽 奉
           勅 議政府 臨時署理
           賛政 内部大臣 李乾夏(イコンハ)

 
 ・・・
 ここで注目すべきことは、第2条の鬱陵島が管轄する”正域は鬱陵全島と竹島、石島とする”とある部分である。ここで竹島は鬱陵島の真横にある岩島、竹嶼島
(チョクソド)を指すものであると李奎遠の《鬱陵島検察日記》から確認される。そして石島がまさに独島なのである。
 当時、鬱陵島に住む者の多くは全羅道(チョンラド)出身で、全羅道の方言では”トル(石)”を(トク)(独)と発音し、”トル島”が”トク島”になったことは、よく知られている事実で、大韓帝国政府は漢字に直して”石島”と表記したのである。そして発音通りを漢字に直したのが”独島”である。

 ・・・(以下略)


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竹島領有権問題その5(内務省稟議書と太政官指令)

2010年01月26日 | 国際・政治
 竹島領有権の問題を考えるとき、鬱陵島や竹島(独島)に関わりを持っていた個人・団体・地域・組織などの判断や当時の実態が重要であることはいうまでもないが、国家の最高機関である太政官の「竹島外一島の件に対して、本邦は関係なしと心得るものなり」の指示は、”決定的”であると思う。また、文書の中に、「…元禄5年朝鮮人(安龍福を指す)入島以来…」とあることから、竹島外一島の「一島」が松島(現竹島)であることを否定することも難しい。「史的解明 独島(竹島)」愼鏞廈<著 >韓誠<訳>(インター出版)からの抜粋である。
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第6章 明治政府の独島、朝鮮領有の再認識

2 日本内務省の独島、朝鮮領土再確認


 ・・・
 内務省は1876年に日本国土の地籍を調査し、地図を製作する過程において、1876年10月16日付の公文書で島根県の地図に鬱陵と独島を含めるべきか、含めるべきでないかについて、島根県当局から質疑書を受け取った。
 ・・・

 日本海内竹島外一島地籍編纂方伺

 竹島所轄之儀ニ付島根県ヨリ別紙伺出取調候処。該島之儀ハ元禄5年朝鮮人入島以来別紙書類ニ摘採スル如ク元禄9年正月第1号舊政府評議之旨意ニ依リ2号訳官ヘ達書3号該国柬4号本邦回答及ビ口上書等之如ク則元禄12年ニ至リ夫夫往復相済
本邦関係無之相聞候得共版図ノ取捨ハ重大之事件ニ付別紙書類相添為念此段相伺候也。
                    明治10年3月17日
                           内務卿 大久保利通代理                                   内務少輔 前島密
        右大臣 岩倉具視殿


───上記の口語訳───
 日本海内竹島外一島の地籍編纂に対する伺書

 竹島所轄の件に対して島根県から別紙の稟議書が回ってきて調査したところ、該島の件は、元禄5年朝鮮人(安龍福─著者)が入島して以来、別紙書類に抜き書きしたように元禄9年正月の第1号の旧政府の評議の主旨によると、第2号訳官に与えた達書(たっしがき)(通達)、第3号該国から来た公簡、第4号本邦回答及び口上書などと同じであり、すなわち元禄12年になって双方からの書状の交換が終了し、
本邦に関係がないと聞いていますが、版図の取捨は重大案件である故、別紙の書類を添付し、指示をお伺いします。
                    明治10年3月17日
                           内務卿 大久保利通代理                                   内務少輔 前島密
        右大臣 岩倉具視殿


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3 太政官による独島、朝鮮領土再確認

 国家の最高機関である太政官(右大臣・岩倉具視)は内務省の稟議書を検討した結果、1870年3月20日付けで、”稟議趣旨の竹島外一島に対して本邦(日本─著者)は関係なしと心得る”と次のような指令文を作成し、決定した。

 ・・・

明治10年3月20日
大臣 印 本局 印 印
参議 印
卿輔 印
別紙内務省伺日本海内竹島外一島地籍編纂之件。右ハ元禄5年朝鮮人入島以来舊政府該国ト往復之末逐ニ本邦関係無之相聞候叚申立候上ハ伺之趣御聞置左之通御指令相成可然哉。此叚相伺候也。
御指令接
伺之趣竹島外一島之義本邦関係無之義ト可相心得事

───上記口語訳───
明治10年3月20日
大臣 岩倉具視
別紙内務省稟議の日本海内竹島外一島地籍編纂之件

 右の件は元禄5年朝鮮人(安龍福─著者)が入島以来、旧政府と該国(朝鮮─著者)との往復の結果、本邦とは関係なしと聞き、申し立ての稟議の趣旨を聞き、次のような指令を作成し、この件に対し稟議する。

 指令案


 稟議趣旨の竹島外一島の件に対して、本邦は関係なしと心得るものな


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省略を示します。 

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竹島領有権問題その4(安龍福の証言ほか…)

2010年01月26日 | 国際・政治
 現在は竹島の領有権が問題になっているが、歴史的には対馬藩が鬱陵島の領有権を得るために画策したこともあったし、日本人が知って知らずか、約束を破って鬱陵島に侵入することがたびたびあったようである。下記は、そうしたことに関する「史的解明 独島(竹島)」愼鏞廈<著>韓誠<訳>からの抜粋である。
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第5章 鬱陵島(ウルルンド)、独島(トクト)領土論争と安龍福(アンヨンボク)

1 17世紀末の日本による鬱陵島、独島侵奪の試み

 朝鮮の東海(日本海)と南海沿岸の漁民たちは、鬱陵島にこっそり行っては漁労や造船に励んだ。一方、徳川幕府は1618年、大谷と村川の両家に”鬱陵島渡海免許”を与えていたので両国の漁民は時々衝突した。
 1693年(粛宗19年)の春には、鬱陵島で魚をとっていた東萊(トンネ)、蔚山(ウルサン)の漁民40名と、鬱陵島に漁業にやってきた日本人漁民たちの間で衝突事件が発生した。
 数的に優勢であった日本人漁民たちが、朝鮮の蔚山のボス格である安龍福(アンヨンボク)・朴於屯(パクオドン)らにゆっくり話し合おうと、うまく持ちかけて隠岐島へ連行した。
 安龍福は隠岐島主に鬱陵島は朝鮮の領土であることを訴えた。そして”朝鮮人が自分の国の地に入っただけなのに何故に拉致したのか”と抗議した。隠岐島主は上司である伯耆藩の藩主に安龍福を引き渡した。そこでも安龍福は堂々と朝鮮領土であることを主張した。そして日本は日本人漁民が国境を越えて出漁するのを取締まるべきだと要求した。
 当時の伯耆藩の藩主は鬱陵島が朝鮮の領土であることを知っていたので、安龍福を江戸幕府に引き渡した。
 江戸幕府は審問した結果、彼の主張に一貫性があり、事実を述べていることを認め、”鬱陵島は日本の領土ではない”(鬱陵島非日本界)という外交文書を伯耆藩の藩主に書かせ、安龍福らを江戸から長崎、対馬を経て朝鮮に送り返そうとした。

 しかし安龍福らが長崎に着くと、対馬島主は彼らを再び捕縛し、対馬へ連行し、そこで鬱陵島は日本の領土ではないと書いてある外交文書を奪い、彼を、日本領土である鬱陵島を侵犯した罪人あつかいにし、朝鮮の東萊府で朝鮮側に不法な要求をつきつけて彼を釈放した。
 要するに、対馬島主は安龍福を事件を逆に利用して幕府の全権大使のように振舞いながら、橘真重を使節に任命し、人の住まない鬱陵島を対馬藩所属の島にしようと画策したのである。

 対馬島主は1693年11月に安龍福らを送り返す時に、橘真重を派遣し、東萊府使を通じて朝鮮側に書状を送りつけた。 
 その書状では東海に鬱陵島ではなく竹島という日本領土が存在するかのような表現法を使い、”これからは日本領土である竹島に朝鮮の船が入るのを絶対に許さないので、朝鮮側も竹島での漁労を厳しく取り締まってほしい”というとんでもない要求をつきつけてきた。

 対馬島主は、鬱陵島がすなわち竹島であることを知りながらも、朝鮮政府から、竹島が日本領土であることを認める公文書を手に入れた後、鬱陵島=竹島を領土紛争地として争い、最終的には対馬島に帰属させようという戦略があったに違いない。

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 下記は日本側の「竹島での漁労を厳しく取り締まってほしい」との要求に対する回答であるが、竹島が鬱陵島であるということを知りながら、知らないふりをし、竹島が鬱陵島とは別の島であることにして回答したものであるという。
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2 朝鮮政府の穏健派による対応

 ・・・
……つまり、朝鮮政府は鬱陵島が朝鮮の領土であることだけを明確にして、日本側の書状に書かれてある竹島が鬱陵島であると知りながら、知らないふりをして竹島での朝鮮漁民の出漁を禁じる次のような返事の書状を橘真重から対馬島主に伝えさせた。

 「わが国の東海沿岸の漁民に外洋に出るのを禁じたのは、たとえわが領地の鬱陵島とはいえ遠方の故、勝手に行ったり来たりするの許していないのであるが、いわんやそれ以上の遠方においては。この度、わが国の漁船が貴国の境地である竹島に入り込んだため領送(送還)という手間をとらせ、また書状まで持たせてくれて本当に隣国同士の親善の交誼に感謝するものである。」

 ・・・ 
 東萊倭館(トンネウェグァン)で待機していた橘真重は”貴国の境地である竹島……”と書いてある回答文で半分、目的を達成したのも同然であったが、”わが国の境地である鬱陵島”という字句が、鬱陵島の侵奪の妨げになると考え、”書状に竹島という名だけで済むことなのに、鬱陵島という名があるのはどういうことか”と抗議し、鬱陵島の名を削除することを要求した。

 橘真重は回答文の受け取りを15日間、拒否し続けたが、結局断念してそのまま回答文を携えて対馬に帰国した。その時、もし朝鮮政府が”わが国の境地である鬱陵島”という字句を削除していたら、日本は鬱陵島を竹島の名で自国の領土に組み入れられる朝鮮政府の書状を手に入れることができたというものである。
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3 強硬派の執権と日本の侵略企図撃退

 対馬からの使者・橘真重が、朝廷からの回答文に不満を抱き、相当ごねた挙げ句、帰国したという噂が朝鮮朝廷に伝わると、穏健派に対する批判と糾弾の声が一挙に高まった。
 そして、ついに穏健派は退陣し、南九万(ナムグマン)らの強硬派が執権するに至った。


 ・・・
 粛宗国王も領議政・南九万(ナムグマン)の意見を取り入れ、前回の回答書(上記)を取り戻すように命じた。
 ・・・
 ……そこで、南九万(ナムグマン)領議政は前回の回答書を取り消し、新しい回答書の作成に取りかかった。その要旨は鬱陵島がまさに竹島であり、朝鮮の領土であると明確にしたことであった。
 また日本人が鬱陵島に入り込み、安龍福らを日本に連行したことは、朝鮮領土への侵入であり干渉である(侵渉)とした。
 また朝鮮人を朝鮮の領土から連行(拘執)したのは重大な過ちであると指摘し、このことを江戸幕府に伝え、二度と日本人が鬱陵島に入り込まないように対策を講じてほしいと要求した。
 対馬の使節は、この修正された回答書を受け取り、”侵渉”と”拘執”を他の表現に直すことを要請し、また対馬島主の2回目の書状に対する返書を要求したが、これらすべてを朝鮮朝廷は拒絶した。
 朝鮮朝廷は三陟僉使(サムチョクチョムサ)(従三品の武官)・張漢相(チャンハンサン)を1694年9月から10月にかけて鬱陵島に派遣し、そこを調査させた。張漢相の報告を受けた領議政・南九万は移住政策を実施するより、1年から2年に一度ずつ島に対する探査をするのが賢明であると進言し、王から許しを受けた。之によって1694年以降は、朝鮮朝廷の定期的な探査(捜討)政策が実施された。

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4 徳川幕府の将軍による鬱陵島、独島の朝鮮領土再確認

 ・・・
 1896年(粛宗22年、元禄9年)1月に(対馬島主宗義真が)将軍に対面した時、伯耆藩藩主ら4名が居並ぶ中、将軍から鬱陵島問題について宗義真に質問があびせられた。
 将軍以下、幕府の協議を重ねて検討した結果、鬱陵島を朝鮮の領土と認めざるを得ない結論に達し、日本人の鬱陵島出漁を以後一切禁止することに決定した。
 その時の質疑応答と将軍が最終的に下した結論と、対馬島主に命じた事柄の要旨は次のようなものである。

 ① 鬱陵島は日本の島根県から160里の距離であるのに対し、朝鮮からは40
   里ほどの距離で朝鮮に近いことから、朝鮮の領土とみなす方が自然であるこ   と
 ② 日本人の鬱陵島への渡航を禁止すること
 ③ このような内容を対馬の島主が朝鮮に伝えること
 ④ 対馬島主は対馬に戻れば、刑部大輔(裁判官)を朝鮮に派遣し、この決定を
   朝鮮に知らせた後、その結果について将軍することであった。
 
 ・・・(以下略)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
5 安龍福の活動

 ・・・
 《粛宗実録》によると、安龍福は1696年(粛宗22年)の春に万全の準備をして蔚山に行き、そこで鬱陵島に行けば海産物がどっさり手にはいると宣伝し、順天の松慶寺の商僧・雷憲と李仁成、劉日夫(船頭)、劉奉石、金吉成、金順立ら16名とともに鬱陵島に船を向けた。
 鬱陵島には、すでに日本の船がたくさん停泊していた。そこで安龍福が彼らに怒鳴りつけた。


 ”鬱陵島はもともとわれわれの島であるのに、日本人がなぜ国境を越えて入ってくるのか。お前たちは皆、捕らえられるべきだ”と
 日本人がこう答えた。
 ”われわれはもともと松島(于山島・独島)に住む者だが、たまたま魚を追ってここに来たのであって、すぐ帰るつもりだ。”
 安龍福はこれに対して

 ”松島は于山島で、やはりわれわれの島だ。どうして松島に住んでいるのか”(松島即于山島比亦我国地汝敢住比島)と言い返した。
 そして次の日、于山島に行ってみると、昨日の漁夫たちが釜で魚を煮ていたので棒切れで追っ払ったところ、皆、船に乗って日本へ帰って行った。

 安龍福らは彼らを追って日本の隠岐島に上陸した。隠岐島主が安龍福に渡航理由を尋ねると彼は大声で怒鳴った。
 ”何年か前、私が日本に来た時、鬱陵島、于山島などの島は朝鮮の領土の境界に決まり、将軍の書状まで頂いたのに、日本は分別もなく我が領土を踏みにじるのか”
 (傾年吾人来比処以鬱陵島・于山島等島定以朝鮮地界至有関白書契而本国不有定式今又侵犯我境是何道理云爾)

 これに対し、隠岐島主は彼の抗議の内容を伯耆藩主に必ず伝えると約束した。しかしいくら待っても何の消息もなかった。
 安龍福はこれに憤慨し、船で伯耆(島根県)に向かった。


 ・・・
 
 伯耆藩主はこれを承諾したので、安龍福は李仁成をして上訴文を書かせて将軍に手渡すよう求めた。
 この時ちょうど対馬島主の父親が伯耆藩主を訪れて、”もしこの上訴文が将軍のもとに届けば私の息子は必ず処罰され、死を免れないので絶対にこの上訴文を受け取らないでほしい”と要請したのである。そのため、安龍福の上訴文は将軍のもとに届かなかった。
 しかし伯耆藩主は、鬱陵島に侵入した漁民たちを15名を捕らえ、処断した上でこう約束した。

 ”2つの島はすでに朝鮮の領土なのだから、今後、国境を越え、侵入する者があったり、また対馬島主が不法に侵奪しようとした時は、朝鮮側が国書を携えて訳官(通訳)を定めて日本に派遣したらよろしい。そうすれば必ず厳罰をもってのぞむつもりである”
 (両島既属爾国之後或有更為犯越者島主如或横侵竝作国書定訳官入送則党為重処)


 ここで注目すべきは、安龍福の談判をもって1696年に伯耆藩主が”2つの島、つまり(鬱陵島と于山島・竹島と松島)はすでに朝鮮の領土である”とはっきり認めていることである。
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6 17世紀末に鬱陵島、独島領有権論争は集結した

 韓国側と日本側の資料の日付が正確であれば、安龍福と伯耆藩主との談判は、江戸幕府が鬱陵島問題に対して、鬱陵島が朝鮮の領土であることを認め、日本人漁民の鬱陵島への渡航を禁じた1696年1月以降の何ヶ月間の間にあったものと考えられる。
 この時点で日本側は、独島を鬱陵島の付属島とみなし、将軍の1696年1月の鬱陵島問題に対する決定と命令は、鬱陵島と付属島の独島を含めてのことであり安龍福の活動によって文書化されている。つまり”2つの島(鬱陵島と独島)はすでに朝鮮の領土である”という記録が残されている。

 ・・・(以下略) 
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7 徳川幕府の古地図には鬱陵島、独島が朝鮮領土と表示してある

 ・・・
 ここで注目すべきことは、江戸時代の代表的地図(三国接壌地図・総絵図)が鬱陵島と独島を朝鮮の領土であると明記し、それも”朝鮮ノ島”とせず、朝鮮ノ持ニ”と記したことである。これは17世紀末の朝鮮と日本との”鬱陵島、独島論争”が解決し、”朝鮮の島に”確定したという徳川幕府の、1696年1月の最終決着がこれらの地図に反映したものとみることができる。
 ・・・(以下略)

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