日本政府が竹島の領土編入を閣議決定し、島根県が「北緯37度9分30秒、東経131度55分、隠岐島から西北85海里に位置する島を竹島と命名し、今後は本県に所属し、隠岐島司の所管とする」と告示したのは、1905年2月22日である。しかしながら、下記の通り朝鮮王朝は、1882年は鬱陵島空島政策を廃止し、再開拓に着手していた。そして、大韓帝国勅令第41号で鬱陵郡を設置し、郡庁に竹島(独島)も管轄させることとしたようである。その地を、日本政府は「……隠岐島ヲ距ル西北85浬ニ在ル無人島ハ他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ム形跡ナク……」として、無主地先占論で編入した。そして、現在外務省は「竹島は日本固有の領土である」という。「史的解明 独島(竹島)」 愼鏞廈<著>韓誠<訳>(インター出版)を読むかぎり、無主地先占論も日本固有の領土論も、かなりの無理があると言わざるを得ない。
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第7章 朝鮮王朝の空島政策廃止と鬱陵島、独島再開拓
2 朝鮮王朝の空島政策廃止
朝鮮政府は1881年5月23日、李奎遠(イギュウオン)を鬱陵島検察使に任命したが、その時点から出発準備をしても伐採の季節が終わってしまうことから、実際に出発したのは翌年、1882年4月10日であった。
出発にあたって国王に拝謁したが、国王・高宗はその席で鬱陵島と共に独島も調査するよう命じた。
・・・
高宗国王は、1882年6月5日、鬱陵島検察使・李奎遠のこうした報告を受けて、
①日本人の侵入と”大日本国松島……”と看板を立てたことに対して、日本側に抗議文書を送り、②鬱陵島空島政策を廃止し、鬱陵島の開拓に早急に手をつけるべきだと強調した。
国王の勅命を受けた領議政・洪淳穆は、壬午軍乱(イモグンラン)が収拾した直後の1882年8月20日、鬱陵島開拓方針として、
①島に移住を希望する百姓を募集し、開墾を奨励し、5年間は無税とする
②嶺南(慶尚道)、湖南(全羅道)の人を鬱陵島に行かせて漕運船を造るよう、行
政的に許可し、
③検察使の推薦を受けて島長を任命し、
④設鎮(軍事施設を作る)は後回しにして、まず設邑(ソルウップ)(村づくり)を優先し
ながら開拓をすすめる……などを高宗国王に建議し、高宗はこれを受け入れ
た。
これによって朝鮮王朝の空島政策は、事実上廃止され、鬱陵島長に全錫奎
(チョンソクキュ)が任命された。
・・・(以下略)
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日本政府は、日本人の鬱陵島不法侵入と伐木に抗議する朝鮮政府の繰り返しの要求に、1882年12月渡航禁止令を出したと回答した。
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3 朝鮮王朝の鬱陵島、独島再開拓
・・・
日本内務省は政府の抗議と、実際に移住政策が実行されるのを見て、1883年9月、役人と巡査31名が乗った越後丸を鬱陵島に派遣し、そこに住む日本人254名をことごとく船に乗せ引き上げたのである。
・・・
そして日露戦争における日本の勝利の後、日本人は公然と鬱陵島で山林伐採を行うようになった。駐韓ロシア公使は、ロシアが大韓帝国から山林伐採権を頂いたのに、日本人が勝手に山林伐採を行うのは許せないと、1899年外交文書で大韓帝国外部(外務省)に抗議してきた。こうして日本人の鬱陵島における山林伐採が外交問題にまで発展したのである。……
この時期においても朝鮮王朝は、鬱陵島のみならず独島に対しても統治権を行使していた。大韓帝国学部(文部省)では、1898年に刊行した<大韓輿地図>と1899年に刊行した<大韓全図>で鬱陵島の東方の正確な位置に独島を記し、于山島と表記した。
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第8章 大韓帝国の鬱陵島、独島行政区域改正
2 1900年、大韓帝国勅令第41号と鬱陵郡の設置
大韓帝国政府は積極的対策の一環として、鬱陵島、独島の行政上の地位を独立した郡に昇格させ、島監ではなく郡守を置く改正案を議政府(内閣)に提出し、討議した結果、1900年10月24日、満場一致で議決した。これが1900年10月25日の”勅令第41号”で全6条から成る。鬱陵島を鬱島に改称し、島監を郡守に改正する件を公布し、官報にも掲載した。
勅令第41号
鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正した件
第1条…鬱陵島を鬱島と改称し江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、官制(行
政単位)に編入し、郡等級は5等にすること
第2条…郡庁は台霞洞(テハドン)に置き、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄する
こと
第3条…開国504年8月16日、官報の官庁事項内の鬱陵島以下19字を削除し、
開国505年、勅令36号、第5条江原道26郡の6字は7字に改正し、安
峽郡(アンヒョップ)の下に鬱陵島3文字を挿入すること
第4条…経費は5等級として準備し、当面諸般の予算が決まっておらず、また事務
管理業務もすべて初めてのことなので、島で納税によってまかなうこと
第5条…補足すべき諸条は、本島開拓の進み具合に応じて決めていくこと
光武4年10月25日
御押 御璽 奉
勅 議政府 臨時署理
賛政 内部大臣 李乾夏(イコンハ)
・・・
ここで注目すべきことは、第2条の鬱陵島が管轄する”正域は鬱陵全島と竹島、石島とする”とある部分である。ここで竹島は鬱陵島の真横にある岩島、竹嶼島
(チョクソド)を指すものであると李奎遠の《鬱陵島検察日記》から確認される。そして石島がまさに独島なのである。
当時、鬱陵島に住む者の多くは全羅道(チョンラド)出身で、全羅道の方言では”トル(石)”を(トク)(独)と発音し、”トル島”が”トク島”になったことは、よく知られている事実で、大韓帝国政府は漢字に直して”石島”と表記したのである。そして発音通りを漢字に直したのが”独島”である。
・・・(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。読み仮名は半角カタカナの括弧書きにしました(一部省略)。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。
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第7章 朝鮮王朝の空島政策廃止と鬱陵島、独島再開拓
2 朝鮮王朝の空島政策廃止
朝鮮政府は1881年5月23日、李奎遠(イギュウオン)を鬱陵島検察使に任命したが、その時点から出発準備をしても伐採の季節が終わってしまうことから、実際に出発したのは翌年、1882年4月10日であった。
出発にあたって国王に拝謁したが、国王・高宗はその席で鬱陵島と共に独島も調査するよう命じた。
・・・
高宗国王は、1882年6月5日、鬱陵島検察使・李奎遠のこうした報告を受けて、
①日本人の侵入と”大日本国松島……”と看板を立てたことに対して、日本側に抗議文書を送り、②鬱陵島空島政策を廃止し、鬱陵島の開拓に早急に手をつけるべきだと強調した。
国王の勅命を受けた領議政・洪淳穆は、壬午軍乱(イモグンラン)が収拾した直後の1882年8月20日、鬱陵島開拓方針として、
①島に移住を希望する百姓を募集し、開墾を奨励し、5年間は無税とする
②嶺南(慶尚道)、湖南(全羅道)の人を鬱陵島に行かせて漕運船を造るよう、行
政的に許可し、
③検察使の推薦を受けて島長を任命し、
④設鎮(軍事施設を作る)は後回しにして、まず設邑(ソルウップ)(村づくり)を優先し
ながら開拓をすすめる……などを高宗国王に建議し、高宗はこれを受け入れ
た。
これによって朝鮮王朝の空島政策は、事実上廃止され、鬱陵島長に全錫奎
(チョンソクキュ)が任命された。
・・・(以下略)
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日本政府は、日本人の鬱陵島不法侵入と伐木に抗議する朝鮮政府の繰り返しの要求に、1882年12月渡航禁止令を出したと回答した。
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3 朝鮮王朝の鬱陵島、独島再開拓
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日本内務省は政府の抗議と、実際に移住政策が実行されるのを見て、1883年9月、役人と巡査31名が乗った越後丸を鬱陵島に派遣し、そこに住む日本人254名をことごとく船に乗せ引き上げたのである。
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そして日露戦争における日本の勝利の後、日本人は公然と鬱陵島で山林伐採を行うようになった。駐韓ロシア公使は、ロシアが大韓帝国から山林伐採権を頂いたのに、日本人が勝手に山林伐採を行うのは許せないと、1899年外交文書で大韓帝国外部(外務省)に抗議してきた。こうして日本人の鬱陵島における山林伐採が外交問題にまで発展したのである。……
この時期においても朝鮮王朝は、鬱陵島のみならず独島に対しても統治権を行使していた。大韓帝国学部(文部省)では、1898年に刊行した<大韓輿地図>と1899年に刊行した<大韓全図>で鬱陵島の東方の正確な位置に独島を記し、于山島と表記した。
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第8章 大韓帝国の鬱陵島、独島行政区域改正
2 1900年、大韓帝国勅令第41号と鬱陵郡の設置
大韓帝国政府は積極的対策の一環として、鬱陵島、独島の行政上の地位を独立した郡に昇格させ、島監ではなく郡守を置く改正案を議政府(内閣)に提出し、討議した結果、1900年10月24日、満場一致で議決した。これが1900年10月25日の”勅令第41号”で全6条から成る。鬱陵島を鬱島に改称し、島監を郡守に改正する件を公布し、官報にも掲載した。
勅令第41号
鬱陵島を鬱島と改称し、島監を郡守に改正した件
第1条…鬱陵島を鬱島と改称し江原道に所属させ、島監を郡守に改正し、官制(行
政単位)に編入し、郡等級は5等にすること
第2条…郡庁は台霞洞(テハドン)に置き、区域は鬱陵全島と竹島、石島を管轄する
こと
第3条…開国504年8月16日、官報の官庁事項内の鬱陵島以下19字を削除し、
開国505年、勅令36号、第5条江原道26郡の6字は7字に改正し、安
峽郡(アンヒョップ)の下に鬱陵島3文字を挿入すること
第4条…経費は5等級として準備し、当面諸般の予算が決まっておらず、また事務
管理業務もすべて初めてのことなので、島で納税によってまかなうこと
第5条…補足すべき諸条は、本島開拓の進み具合に応じて決めていくこと
光武4年10月25日
御押 御璽 奉
勅 議政府 臨時署理
賛政 内部大臣 李乾夏(イコンハ)
・・・
ここで注目すべきことは、第2条の鬱陵島が管轄する”正域は鬱陵全島と竹島、石島とする”とある部分である。ここで竹島は鬱陵島の真横にある岩島、竹嶼島
(チョクソド)を指すものであると李奎遠の《鬱陵島検察日記》から確認される。そして石島がまさに独島なのである。
当時、鬱陵島に住む者の多くは全羅道(チョンラド)出身で、全羅道の方言では”トル(石)”を(トク)(独)と発音し、”トル島”が”トク島”になったことは、よく知られている事実で、大韓帝国政府は漢字に直して”石島”と表記したのである。そして発音通りを漢字に直したのが”独島”である。
・・・(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。読み仮名は半角カタカナの括弧書きにしました(一部省略)。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。