「史的解明 独島(竹島)」愼鏞廈<著>韓誠<訳>には、はしがきや目次の前に、カラーの古い地図が何枚か入っている。
はじめは1822年に製作されたという<海左全図>(李燦所蔵)であるが、鬱陵島の東に独島(竹島)が正確に記されてあり朝鮮の領土であることを示している。
次は<八道全図>(別名東覧図)で、1530年に編纂された<新証東国輿地勝覧>の始めの部分の全国地図であるという。それには、于山島(独島)が鬱陵島より近くに記されているが、朝鮮領土としていることが重要だというわけである。
同じく<東国地図>の写本の江原道地図も、于山島を鬱陵島の東に記しているが、鬱陵島が江原道に属するということは、当然于山島も朝鮮領土という意識で記したと考えて間違いはないというわけである。
次は19世紀の<東国全図>(湖厳美術館所蔵)である。この地図の于山島の位置は正しく記されている。そして、朝鮮の領海に色をつけ、于山島(独島)をその領海内に記しているのである。
次には、日本の林子平の<三国接壌地図>も取り入れられている。朝鮮を黄色で示し、日本は緑色で示しているのであるが、独島(竹島)の位置は確かに黄色である。そして、地図上に”朝鮮ノ持ニ”とあることも確かにはっきり読み取ることができる。
次の18世紀の日本の<総絵図>は、朝鮮、日本、中国の領土を色分けしているが、これも鬱陵島と独島(竹島)の位置は黄色で朝鮮領土の色である。
最後に、日本人染畸延房の<朝鮮国細見全図>(1873年)(ソウル大図書館、国立中央図書館所蔵)である。朝鮮を道別に色分けしたこの地図では、鬱陵島と独島(竹島)の位置は江原道と同色で、蔚珍の横に記し江原道に属する島であることを示しているというわけである。
日本は1905年1月28日の閣議で「別紙内務大臣請議無人島所属ニ関スル件ヲ審査スルニ、…無人島ハ他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡ナク…」として島根県への編入を決定したが、これらの地図を見ただけでも、竹島を「無主地」と断定することは難しいと思われる。下記は、鬱陵島と独島(竹島)のとらえ方や様々な統治政策に関する同書からの一部抜粋である。
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第2章 512年に鬱陵島、独島は韓国領土になった
1 鬱陵島と独島の新羅国編入
独島(トクト)と鬱陵島(ウルルンド)が韓国の領土になったのは、はるか昔、三国時代の512年に于山国(ウサンコク)が新羅に服属したことにさかのぼる。
《三国史記(サムグックサギ)》新羅本紀智證王(チジュンワン)13年条には、”この年の夏、6月に于山国が降伏した”と次のように書かれている。
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13年6月に于山国が服属し、毎年貢物を献上することとなった。
于山国は溟州(ミョンジュ)(今の江陵)の真東にある、海の中の島国で、またの名を鬱陵島という。その地域は100里(訳120㎞)ほどの距離で、地形が険しく、なかなか降伏しようとしなかったので、伊飡(イチャン)(新羅時代の17等の中の2番目の官職)の異斯夫(イサブ)を阿瑟羅(アスラ)州の軍主とし、この地を服属させることにした。……于山国の人々は恐れをなして降伏した。
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《三国史記》列伝の異斯夫の条でも阿瑟羅州の群主・異斯夫が伽耶・加羅(カラ)を征服した後、続いて13年に于山国を併合するため出陣し、于山国を新羅に組み入れたと記されている。
ここではっきりしていることは、512年に新羅の将軍・異斯夫が派遣され、于山国が滅び新羅に組み入れられたという事実である。つまり独島は512年に于山国が新羅に併合された時から韓国の固有の領土になったのである。
・・・(以下略)
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2 独島が于山国の領土であったという文献上の証拠
512年に新羅に併合された于山国が鬱陵島だけでなく独島も含まれ、独島が于山国の領土であったことを示す一番古い記録に、《世宗実録(セジョンシルロク)》の地理誌(1432年編纂)がある。ここでは、于山島(ウサンド)(独島)と武陵島(ムルンド)(鬱陵島)の二つの島が天気の良い日には肉眼で見えることや、かつて新羅時代には于山国と呼ばれていたことなどが記されている。
また独島が于山国の領土であったことをはっきり証明する文献として、《万機要覧(マンギヨラン)》の軍政編(1808年編纂)がある。この資料には”「与地誌(ヨジジ)」によると、鬱陵島と于山島はすべて于山国の地であり、于山島は倭人の言葉では松島”と記されている。
すなわち、この資料は鬱陵島と于山島が共に于山国の領地であることをはっきり示している。そして、この于山島が現在の独島であれば、独島が于山国の領地であったことは明白である。
ところで、この資料には”于山島が日本人の呼ぶ松島である”と記されている。
1808年当時日本人は鬱陵島を”竹島”と呼び、独島を”松島”と呼んでいたが、このことは、日本人の独島研究者も認めている。
・・・(以下略)
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第3章 高麗王朝の鬱陵島、独島に対する統治政策
1 五段階統治
統一新羅を継承し、韓(朝鮮)半島で新王朝を樹立した高麗王朝は、やはり前王朝に引き継ぎ、于山国の領土であった独島(竹島)および鬱陵島を領有し、政治的な統治権を行使した。その内容は5段階に分けられると思う。
第1段階は高麗の太祖・王建が鬱陵島の住民からの謁見と貢物を受け、その見返りとして彼らに高麗の官職を与え、鬱陵島、独島に対する統治権を再確認した時期である。
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当時、鬱陵島では多数の住民が漁労に従事していたので、当然于山国の一部であった独島に出かけ、漁労活動を行ったであろうことは十分に推測できる。
第2段階は顕宗(ヒョンジョン)(在位1009~1031年)の時代で、鬱陵島の住民は女真族の一派である東北女真の侵略を受けた。農地を破壊され、本土に避難してきた住民たちに農機具を与えるなど高麗の王朝が対策に頭を痛めた時期である。
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第3段階は徳宗(トクジョン)(在位1031~1034年)の時代で、鬱陵島を羽陵城(ウルンソン)と呼び、羽陵城主を置き、中央政府の積極的な支援のもと、自力で防衛できる能力を養おうとした時期である。
この時期は、異民族の侵略を防ぐために、鬱陵島を要塞化すべく努力したのが特徴である。
第4段階は仁宗(インジョン)(在位1122~1146年)の時代で、鬱陵島、独島を中央政府が直接統括せず、行政の権限を地方官に移譲し溟州(ミョンジュ)(今の江原道)に属するよう指導した時期である。この頃には東北女真族の侵略も昔話となっていたが、鬱陵島の住民数は激減し、中央政府は直接関与する必要性をあまり感じなかったらしく、鬱陵島、独島を江原道に編入させたのであろう。
第5段階は毅宗(ウイジョン)(在位1146~1170年)の時代で、鬱陵島に百姓を移住させる政策、すなわち移民政策を実行した時期である。
・・・(以下略)
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2 11世紀の日本の文献にみる鬱陵島と独島
高麗中期からは、日本側にも鬱陵島に対する記録が載り始めた。《権記》という資料によると、1004年(寛弘元年)に”高麗の藩徒である鬱陵島人が漂流してきた”(高麗藩徒芋陵島人漂至)とあり、漂流してきた11名を本国に送還しながら、高麗の藩徒の中に新羅の国の鬱陵島の人がいる”(高麗藩徒之中有新羅国迂陵人)と述べた。
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ここで興味をひくことは、日本では鬱陵島を宇流麻と呼び、漢字で「宇流馬島」、「芋陵島」、「迂陵島」などと表記されている事実だ。
この資料は、高麗王朝、穆宗(モクジョン)7年(1004年)に起こった事実を記録したもので、当時の日本人は鬱陵島人が高麗の藩徒であることをはっきりと理解しており、また「新羅宇流麻島人」という記述からは彼らが高麗の藩徒になる前は新羅に属していたことも知っていたことが伺える。
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しかし、日本の鬱陵島に関する最初の記録である《権記》は鬱陵島が新羅に属していたが、その後、高麗に属したとはっきり記録している。独島が鬱陵島の付属の島であり、于山国の領土であったことから、日本のこの資料も昔の于山国の地(鬱陵島と独島)が新羅から高麗
王朝の統治に変わったという事実を当事者は知っていたことを示すものである。
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第4章 朝鮮王朝の鬱陵島、独島領有と統治政策
2 太宗(テジョン)の鬱陵島に対する空島政策
朝鮮王朝第3代太宗は、臣下と鬱陵島住民に対する対策を論じた結果、1416~1417年(太宗16~17年)に鬱陵島に人が住まないようにさせる空島政策を実施することに決めた。
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ここで注目すべきことは、空島政策の核心は鬱陵島への倭寇の侵入を防ぐことであり、また鬱陵島に移り住む動機が、本土での軍役から逃避するためだという事実である。
・・・(以下略)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー3 独島=于山島の再確認
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ところが、金麟雨(キムインウ)が鬱陵島の第1次調査から本土に戻ってきた直後の朝廷の重臣会議で、太宗は”武陵等処”という用語を使わず”于山・武陵”、”于山・武陵等処”という用語を使った。
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従って今日の独島が朝鮮朝廷で”于山島”という名称に確定したのは太宗17年(1417年)のことといえる。
・・・(以下略)
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4 世宗とその後の鬱陵島、独島政策
太宗の後を継いだ世宗(セジョン)は、父の空島制策をそのまま踏襲した。しかし当時の封建的搾取のひどい時代では、人民は土地を失ったり逃亡したりする場合が多く、朝廷の空島政策にかかわらず鬱陵島に逃げ込み、農業や漁業で生計を立てる者がいても不思議なことでは無かった。
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世宗は1425年(世宗7年)8月、金麟雨を再び「于山・武陵等処按撫使(ウサン・ムルンドンチョアンムサ)に任命し、”発卯年(1425年)に金己之(キムウルチ)など、男女28名が本島(鬱陵島)に戻った事実を指摘して”兵を派遣して連れ戻すよう命じた。
この一件を記録した《世宗実録》甲戌(カップスル)条(世宗7年8月)には特に注目すべき事実が二つある。
ひとつは、世宗が金麟雨を太宗の”武陵等処按撫使”ではなく、”于山・武陵等処按撫使”として任命した事実である。
これは、武陵島(鬱陵島)だけではなく、于山島(独島)も金麟雨が按撫(行政管理)しなければならない地域に格上げされたことを示している。
ほうひとつは、この記録では武陵島を二度にわたって”本島”と記している点である。これは世宗とその担当の臣下が鬱陵島が本島で、それに所属する島もあるということをよく認識していた事実を物語っている。
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于山武陵等処按撫使・金麟雨は第2次調査の時、兵船2隻で鬱陵島に上陸し、居住人20名を連れて戻ってきた。その時、礼曺参判(規律・教育などを司る省の次官)が国王に連れ戻された島民を処罰すべく進言したところ、王は”彼らは外国へ行ってきたのではなく、また以前にも一度許してやったことがあるので今回も処罰することはよくない。兵曺(ピョンジョ)(軍事を司る役所)に命じて彼らを忠清道の山奥に送り、逃げられないようにして、3年後に復戸(賦役が免除される)させるように”と命じたと記録されている。
・・・(以下略)
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5 《世宗実録》地理誌による独島領有の再確認
朝鮮王朝・世宗が独島と鬱陵島の空島政策を実施しながらも、それらの島が朝鮮の領土であることを明瞭に規定している記録がある。
《世宗実録》地理誌(1432年および1454年編纂)江原道蔚珍県条の次の記録である。
于山と武陵の2つの島が県(蔚珍県──著者)の真東の海にある。2つの島はそれほど離れておらず、空が澄みきった日には、かすかに見える。新羅時代は于山国と呼んだ。またの名を鬱陵島という。2つの島の距離は100里である。
ここで重要なのは、《世宗実録》地理誌が世宗の統治する領土、つまり朝鮮王朝の領土に対する地誌だということである。この地誌は独島と鬱陵島の2つの島が朝鮮の領土であることを如実に証明している。
それではここに記録された于山島が、現在の独島であると断言できる根拠は何か?
鬱陵島の周辺にあるいくつかの小さな岩の島(例:三仙岩、観音島、竹嶼)は鬱陵島の海岸から皆、近いところにあってそれぞれよく見え、空の澄みきった日だけかすかに見える島は独島しかない。島がほとんどない東海(日本海)であるので、この記録からだけでも于山島が今日の独島であることは明らかだ。
それに《万機要覧(マンギヨラン)》軍政編と《粛宗実録》《増補文献比考》では于山島が倭人の呼ぶ松島(独島の当時の日本側の名称)であると念を押して記録しているので、于山島が今日の独島であることは疑う余地がない。
・・・(以下略)
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6 《東国輿地勝覧(トングッヨジスンラン)》の独島領有規定
朝鮮王朝は長期にわたる編纂作業の末、1481年(成宗12年)に《東国輿地勝覧(トングッヨジスンラン)》を完成させた。また1531年(中宗(チュンジョン)26年には《新増東国輿地勝覧》を編纂した。
前者は伝えられておらず、その内容はわからないが、後者は蔚珍(ウルチン)県条に”于山島(ウサンド)と鬱陵島(ウルルンド)は武陵(ムルン)とも于陵(ウルン)ともいう。この2つの島は蔚珍県の真東の海上にある”と、于山島(独島)と鬱陵島が別々の島であり、蔚珍県の真東の位置にあると規定し、その地形を説明している。
ここで注目すべきことは、《新増東国輿地勝覧》という書物が持つ特徴である。この書物は単純な官撰の地理書ではなく、朝鮮政府の”朝鮮の領土・地理解説書”である。そしてこの書物を通じて、朝鮮王朝は領土に関する情報を整理し、広く世に知らしめることによって朝鮮の領土を明確に規定したのである。
この本では、于山島と鬱陵島が蔚珍県条に記載されているが、これはこの2つの島が行政区域としては江原道の蔚珍県に属し、朝鮮王朝の領土であることをはっきりと証明するものである。
また、《新増東国輿地勝覧》は付属地図を製作し、付け加えているが、この書物の<八道総図(バルトチョンド)>と<道別道(トビョルド)>
(江原道地図、1481年製作)では共に鬱陵島と于山島が異なった島として東海の真中に描かれており、朝鮮領土と表示されている。
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