真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

竹島領有権問題その2(諸地図や独島統治政策の変遷……)

2010年01月17日 | 国際・政治

 「史的解明 独島(竹島)」愼鏞廈<著>韓誠<訳>には、はしがきや目次の前に、カラーの古い地図が何枚か入っている。
 はじめは1822年に製作されたという<海左全図>(李燦所蔵)であるが、鬱陵島の東に独島(竹島)が正確に記されてあり朝鮮の領土であることを示している。
 次は<八道全図>(別名東覧図)で、1530年に編纂された<新証東国輿地勝覧>の始めの部分の全国地図であるという。それには、于山島(独島)が鬱陵島より近くに記されているが、朝鮮領土としていることが重要だというわけである。
 同じく<東国地図>の写本の江原道地図も、于山島を鬱陵島の東に記しているが、鬱陵島が江原道に属するということは、当然于山島も朝鮮領土という意識で記したと考えて間違いはないというわけである。
 次は19世紀の<東国全図>(湖厳美術館所蔵)である。この地図の于山島の位置は正しく記されている。そして、朝鮮の領海に色をつけ、于山島(独島)をその領海内に記しているのである。
 次には、日本の林子平の<三国接壌地図>も取り入れられている。朝鮮を黄色で示し、日本は緑色で示しているのであるが、独島(竹島)の位置は確かに黄色である。そして、地図上に”朝鮮ノ持ニ”とあることも確かにはっきり読み取ることができる。
 次の18世紀の日本の<総絵図>は、朝鮮、日本、中国の領土を色分けしているが、これも鬱陵島と独島(竹島)の位置は黄色で朝鮮領土の色である。
 最後に、日本人染畸延房の<朝鮮国細見全図>(1873年)(ソウル大図書館、国立中央図書館所蔵)である。朝鮮を道別に色分けしたこの地図では、鬱陵島と独島(竹島)の位置は江原道と同色で、蔚珍の横に記し江原道に属する島であることを示しているというわけである。
 日本は1905年1月28日の閣議で「別紙内務大臣請議無人島所属ニ関スル件ヲ審査スルニ、…無人島ハ他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡ナク…」として島根県への編入を決定したが、これらの地図を見ただけでも、竹島を「無主地」と断定することは難しいと思われる。下記は、鬱陵島と独島(竹島)のとらえ方や様々な統治政策に関する同書からの一部抜粋である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
        第2章 512年に鬱陵島、独島は韓国領土になった

1 鬱陵島と独島の新羅国編入

 独島(トクト)と鬱陵島(ウルルンド)が韓国の領土になったのは、はるか昔、三国時代の512年に于山国(ウサンコク)が新羅に服属したことにさかのぼる。
 《三国史記(サムグックサギ)》新羅本紀智證王(チジュンワン)13年条には、”この年の夏、6月に于山国が降伏した”と次のように書かれている。

──────────────────────────────────
 13年6月に于山国が服属し、毎年貢物を献上することとなった。
 于山国は溟州(ミョンジュ)(今の江陵)の真東にある、海の中の島国で、またの名を鬱陵島という。その地域は100里(訳120㎞)ほどの距離で、地形が険しく、なかなか降伏しようとしなかったので、伊飡(イチャン)(新羅時代の17等の中の2番目の官職)の異斯夫(イサブ)を阿瑟羅(アスラ)州の軍主とし、この地を服属させることにした。……于山国の人々は恐れをなして降伏した。

──────────────────────────────────

 《三国史記》列伝の異斯夫の条でも阿瑟羅州の群主・異斯夫が伽耶・加羅(カラ)を征服した後、続いて13年に于山国を併合するため出陣し、于山国を新羅に組み入れたと記されている。

 ここではっきりしていることは、512年に新羅の将軍・異斯夫が派遣され、于山国が滅び新羅に組み入れられたという事実である。つまり独島は512年に于山国が新羅に併合された時から韓国の固有の領土になったのである。

 ・・・(以下略)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2 独島が于山国の領土であったという文献上の証拠

 512年に新羅に併合された于山国が鬱陵島だけでなく独島も含まれ、独島が于山国の領土であったことを示す一番古い記録に、《世宗実録(セジョンシルロク)》の地理誌(1432年編纂)がある。ここでは、于山島(ウサンド)(独島)と武陵島(ムルンド)(鬱陵島)の二つの島が天気の良い日には肉眼で見えることや、かつて新羅時代には于山国と呼ばれていたことなどが記されている。
 また独島が于山国の領土であったことをはっきり証明する文献として、《万機要覧(マンギヨラン)》の軍政編(1808年編纂)がある。この資料には”「与地誌(ヨジジ)」によると、鬱陵島と于山島はすべて于山国の地であり、于山島は倭人の言葉では松島”と記されている。

 すなわち、この資料は鬱陵島と于山島が共に于山国の領地であることをはっきり示している。そして、この于山島が現在の独島であれば、独島が于山国の領地であったことは明白である。
 ところで、この資料には”于山島が日本人の呼ぶ松島である”と記されている。
 1808年当時日本人は鬱陵島を”竹島”と呼び、独島を”松島”と呼んでいたが、このことは、日本人の独島研究者も認めている。

 ・・・(以下略)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第3章 高麗王朝の鬱陵島、独島に対する統治政策

1 五段階統治

 統一新羅を継承し、韓(朝鮮)半島で新王朝を樹立した高麗王朝は、やはり前王朝に引き継ぎ、于山国の領土であった独島(竹島)および鬱陵島を領有し、政治的な統治権を行使した。その内容は5段階に分けられると思う。

 第1段階は高麗の太祖・王建が鬱陵島の住民からの謁見と貢物を受け、その見返りとして彼らに高麗の官職を与え、鬱陵島、独島に対する統治権を再確認した時期である

 ・・・
 当時、鬱陵島では多数の住民が漁労に従事していたので、当然于山国の一部であった独島に出かけ、漁労活動を行ったであろうことは十分に推測できる。

 第2段階は顕宗(ヒョンジョン)(在位1009~1031年)の時代で、鬱陵島の住民は女真族の一派である東北女真の侵略を受けた。農地を破壊され、本土に避難してきた住民たちに農機具を与えるなど高麗の王朝が対策に頭を痛めた時期である。

 ・・・
 第3段階は徳宗(トクジョン)(在位1031~1034年)の時代で、鬱陵島を羽陵城(ウルンソン)と呼び、羽陵城主を置き、中央政府の積極的な支援のもと、自力で防衛できる能力を養おうとした時期である。
 この時期は、異民族の侵略を防ぐために、鬱陵島を要塞化すべく努力したのが特徴である。

 第4段階は仁宗(インジョン)(在位1122~1146年)の時代で、鬱陵島、独島を中央政府が直接統括せず、行政の権限を地方官に移譲し溟州(ミョンジュ)(今の江原道)に属するよう指導した時期である。この頃には東北女真族の侵略も昔話となっていたが、鬱陵島の住民数は激減し、中央政府は直接関与する必要性をあまり感じなかったらしく、鬱陵島、独島を江原道に編入させたのであろう。

 第5段階は毅宗(ウイジョン)(在位1146~1170年)の時代で、鬱陵島に百姓を移住させる政策、すなわち移民政策を実行した時期である。

 ・・・(以下略)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2 11世紀の日本の文献にみる鬱陵島と独島

 高麗中期からは、日本側にも鬱陵島に対する記録が載り始めた。《権記》という資料によると、1004年(寛弘元年)に”高麗の藩徒である鬱陵島人が漂流してきた”(高麗藩徒芋陵島人漂至)とあり、漂流してきた11名を本国に送還しながら、高麗の藩徒の中に新羅の国の鬱陵島の人がいる”(高麗藩徒之中有新羅国迂陵人)と述べた。

 ・・・
 ここで興味をひくことは、日本では鬱陵島を宇流麻と呼び、漢字で「宇流馬島」、「芋陵島」、「迂陵島」などと表記されている事実だ。
 この資料は、高麗王朝、穆宗(モクジョン)7年(1004年)に起こった事実を記録したもので、当時の日本人は鬱陵島人が高麗の藩徒であることをはっきりと理解しており、また「新羅宇流麻島人」という記述からは彼らが高麗の藩徒になる前は新羅に属していたことも知っていたことが伺える。

 ・・・
 しかし、日本の鬱陵島に関する最初の記録である《権記》は鬱陵島が新羅に属していたが、その後、高麗に属したとはっきり記録している。独島が鬱陵島の付属の島であり、于山国の領土であったことから、日本のこの資料も昔の于山国の地(鬱陵島と独島)が新羅から高麗
王朝の統治に変わったという事実を当事者は知っていたことを示すものである。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第4章 朝鮮王朝の鬱陵島、独島領有と統治政策

 2 太宗(テジョン)の鬱陵島に対する空島政策

 朝鮮王朝第3代太宗は、臣下と鬱陵島住民に対する対策を論じた結果、1416~1417年(太宗16~17年)に鬱陵島に人が住まないようにさせる空島政策を実施することに決めた。

・・・
 ここで注目すべきことは、空島政策の核心は鬱陵島への倭寇の侵入を防ぐことであり、また鬱陵島に移り住む動機が、本土での軍役から逃避するためだという事実である
・・・(以下略)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー3 独島=于山島の再確認

 ・・・
 ところが、金麟雨(キムインウ)が鬱陵島の第1次調査から本土に戻ってきた直後の朝廷の重臣会議で、太宗は”武陵等処”という用語を使わず”于山・武陵”、”于山・武陵等処”という用語を使った。
 ・・・
 従って今日の独島が朝鮮朝廷で”于山島”という名称に確定したのは太宗17年(1417年)のことといえる。
 ・・・(以下略)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
4 世宗とその後の鬱陵島、独島政策

 太宗の後を継いだ世宗(セジョン)は、父の空島制策をそのまま踏襲した。しかし当時の封建的搾取のひどい時代では、人民は土地を失ったり逃亡したりする場合が多く、朝廷の空島政策にかかわらず鬱陵島に逃げ込み、農業や漁業で生計を立てる者がいても不思議なことでは無かった。

 ・・・
 世宗は1425年(世宗7年)8月、金麟雨を再び「于山・武陵等処按撫使(ウサン・ムルンドンチョアンムサ)に任命し、”発卯年(1425年)に金己之(キムウルチ)など、男女28名が本島(鬱陵島)に戻った事実を指摘して”兵を派遣して連れ戻すよう命じた。
 この一件を記録した《世宗実録》甲戌(カップスル)条(世宗7年8月)には特に注目すべき事実が二つある。
 ひとつは、世宗が金麟雨を太宗の”武陵等処按撫使”ではなく、”于山・武陵等処按撫使”として任命した事実である。
 これは、武陵島(鬱陵島)だけではなく、于山島(独島)も金麟雨が按撫(行政管理)しなければならない地域に格上げされたことを示している。
 ほうひとつは、この記録では武陵島を二度にわたって”本島”と記している点である。これは世宗とその担当の臣下が鬱陵島が本島で、それに所属する島もあるということをよく認識していた事実を物語っている。

 ・・・
 于山武陵等処按撫使・金麟雨は第2次調査の時、兵船2隻で鬱陵島に上陸し、居住人20名を連れて戻ってきた。その時、礼曺参判(規律・教育などを司る省の次官)が国王に連れ戻された島民を処罰すべく進言したところ、王は”彼らは外国へ行ってきたのではなく、また以前にも一度許してやったことがあるので今回も処罰することはよくない。兵曺(ピョンジョ)(軍事を司る役所)に命じて彼らを忠清道の山奥に送り、逃げられないようにして、3年後に復戸(賦役が免除される)させるように”と命じたと記録されている。
 ・・・(以下略)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
5 《世宗実録》地理誌による独島領有の再確認

 朝鮮王朝・世宗が独島と鬱陵島の空島政策を実施しながらも、それらの島が朝鮮の領土であることを明瞭に規定している記録がある。
 《世宗実録》地理誌(1432年および1454年編纂)江原道蔚珍県条の次の記録である。

 于山と武陵の2つの島が県(蔚珍県──著者)の真東の海にある。2つの島はそれほど離れておらず、空が澄みきった日には、かすかに見える。新羅時代は于山国と呼んだ。またの名を鬱陵島という。2つの島の距離は100里である。

 ここで重要なのは、《世宗実録》地理誌が世宗の統治する領土、つまり朝鮮王朝の領土に対する地誌だということである。この地誌は独島と鬱陵島の2つの島が朝鮮の領土であることを如実に証明している。

 それではここに記録された于山島が、現在の独島であると断言できる根拠は何か?
 鬱陵島の周辺にあるいくつかの小さな岩の島(例:三仙岩、観音島、竹嶼)は鬱陵島の海岸から皆、近いところにあってそれぞれよく見え、空の澄みきった日だけかすかに見える島は独島しかない。島がほとんどない東海(日本海)であるので、この記録からだけでも于山島が今日の独島であることは明らかだ。
 それに《万機要覧(マンギヨラン)》軍政編と《粛宗実録》《増補文献比考》では于山島が倭人の呼ぶ松島(独島の当時の日本側の名称)であると念を押して記録しているので、于山島が今日の独島であることは疑う余地がない。

 ・・・(以下略)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
6 《東国輿地勝覧(トングッヨジスンラン)》の独島領有規定

 朝鮮王朝は長期にわたる編纂作業の末、1481年(成宗12年)に《東国輿地勝覧(トングッヨジスンラン)》を完成させた。また1531年(中宗(チュンジョン)26年には《新増東国輿地勝覧》を編纂した。
 前者は伝えられておらず、その内容はわからないが、後者は蔚珍(ウルチン)県条に”于山島(ウサンド)と鬱陵島(ウルルンド)は武陵(ムルン)とも于陵(ウルン)ともいう。この2つの島は蔚珍県の真東の海上にある”と、于山島(独島)と鬱陵島が別々の島であり、蔚珍県の真東の位置にあると規定し、その地形を説明している。

 ここで注目すべきことは、《新増東国輿地勝覧》という書物が持つ特徴である。この書物は単純な官撰の地理書ではなく、朝鮮政府の”朝鮮の領土・地理解説書”である。そしてこの書物を通じて、朝鮮王朝は領土に関する情報を整理し、広く世に知らしめることによって朝鮮の領土を明確に規定したのである。
 この本では、于山島と鬱陵島が蔚珍県条に記載されているが、これはこの2つの島が行政区域としては江原道の蔚珍県に属し、朝鮮王朝の領土であることをはっきりと証明するものである。
 また、《新増東国輿地勝覧》は付属地図を製作し、付け加えているが、この書物の<八道総図(バルトチョンド)>と<道別道(トビョルド)>
(江原道地図、1481年製作)では共に鬱陵島と于山島が異なった島として東海の真中に描かれており、朝鮮領土と表示されている。

http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。漢字の読み仮名は半角カタカナの括弧書きにしました(但し一部省略しています)。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。  

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

竹島領有権問題その1(日本の資料は……)

2010年01月17日 | 国際・政治
 昨年末(12月28日)読売新聞は、その社説で文部科学省を痛烈に批判した。新学習指導要領の解説書で「竹島」問題に触れなかったからである。「将来を担う世代に、自国の領土や歴史をきちんと教えていくのは、大切なことだ」というわけである。その通りだと思う。しかしながら、いくつかの日本の資料が「竹島は歴史的にも国際法上も我が国固有の領土」であるという考え方に疑問を抱かせる。わが国の目先の利益のために、真実から目を背けてはならないと思い、「史的検証 竹島・独島」内藤正中・金柄烈(岩波書店)から抜粋する。

 まず資料1は、阿部豊後守が調査に基づいて1696年1月28日に発した「渡海禁止令」に関わるものである。老中阿部豊後守の質問に対し鳥取藩は明確に「竹島は因幡伯耆両国に附属する島ではない」と回答しているのである。そして、竹島(現鬱陵島)ばかりではなく松島も(現竹島)についても同様に、因幡伯耆両国に附属する島ではないと回答しているのである。

 資料2は「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」である。安龍福(アンピンシャ)が地図を持参し、鬱陵島と竹島は朝鮮のものだと抗議に来たというものである。持参したという朝鮮八道の名の江原道の下に、確かに「此ノ道ノ中ニ竹嶋松島有之」とある。

 資料3は、幕府によって再度「渡海禁止令」が出されたためか、「海国兵談」で有名な林子平の「三国接壌地図」でも、鬱陵島及び竹島は朝鮮領として色づけされているというものである。

 資料4は、朝鮮に開国をせまる明治政府から朝鮮視察を命ぜられた役人の「朝鮮国交際始末内探書」という報告の中に、「竹島松島朝鮮附属ニ相成候」との記述がみられることである。この部分は「日韓併合小史」山辺健太郎(岩波新書)からの抜粋である。

 資料5は、近代的な日本地図と地積図を作成するに当たって、島根県が問い合わせてきたことに対し、「竹島外一島のことは本邦に関係をもたないものと心得べき事」と太政官で決定し、内務省を通じて島根県にその回答が伝達されたものである。

 資料6は、そうした過去の歴史的事実に目を向けることなく、「隠岐島ヲ距ル西北85浬ニ在ル無人島ハ他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ム形跡ナク」と無主地先占論によって、「自今島根県所属隠岐島司ノ所管ト為サントス」という内務大臣の提案を受け、竹島の島根県編入を閣議決定したものである。しかし、編入に当たって、中央政府での編入告示や官報掲載をせず、さらには日本海に面する国々に対する通告もなく、島根県知事に管内告示をするように指示だけであったという。この秘密裏に近い編入は、日露戦争の最中であり、日本海においてバルチック艦隊を迎え撃とうと計画中の時期であったことと考え合わせれば、軍事目的であったであろうことが想像される。

資料1-------------------------------
               第1部 竹島の歴史──内藤正中
3 竹島一件と安龍福
 4 釜山倭館での日朝交渉

 ・・・
 ところが、12月24日(1695年)になって、老中阿部豊後守は鳥取藩に対して7項目の質問を行い、鳥取藩は翌日直ちに回答する(詳述は後述)。質問の第1は「因州・伯州の領地とされる竹島は、いつ頃両国のものになったのか」というものであり、これに対して鳥取藩は、「竹島は因幡・伯耆に所属する島ではありません」と回答する。この回答が決定的な要因となって、阿部豊後守の竹島への認識を
改めさせることになった。こうして阿部老中は、対馬藩の家老平田直右衛門を招いて、直接に以下のような結論を述べるのであった。1696年1月9日のことである。


 竹島のことについては、たしかなことはわかっていない。伯耆国から渡海して漁をしているそうで、松平伯耆守殿に尋ねてみたところ、因幡、伯耆に所属する島ではないという。先年米子町人の両名が渡海したいとの申し出があったので、その時の領主である松平新太郎殿より案内があったように、渡海してもよろしいと奉書で申し渡した。……以上のようなことで渡海し、漁をしたまでのことであって、朝鮮の
島を日本に取ろうというわけではない。島には日本人は住んでもいない。島への距離は、伯耆から160里、朝鮮へは40里ほどであるので、それは朝鮮国の鬱陵島のようである。

 それと日本人居住者がいるのなら、こちらに取るべき島であり、いまさら渡し難いところであるが、、そのような証拠もなく、こちらからは構えていいださないようにしては如何であろうか。
 ……もともと鮑を取りに行ったまでで、無益な島であるところにこの件が決着し、年来行われてきた通交が絶えてしまうのもどんなものだろうか。御威光あるいは武威をもって談判に及ぶのも、筋違いのことといえるので事を進めるわけにはいかない。
 竹島の件は、きっぱり進めないことにした。例年行かないことになった。異国人が渡海してくるので、重ねて渡海しないように申し渡すようよう老中土屋相模守殿から申し渡され、基本的に禁止することにした。無益なことにいつまでもかかわるのは如何なものか。

 ……以上のように申し渡した口上の趣は、覚のため書付をを残すようにとのことで、覚書を渡されたので受け取って拝見したところ、只今の意向があらまし書かれているように思える。
 そうであれば、以後日本人は竹島へ渡海してはいけないとの意向かと伺ったところ、如何にもその通りである。重ねて日本人は渡海しないようにとの意向で、お上の決定がなされたとのことなので、竹島の件は、返しつかわされるのでもないのかと申し上げたところ、そのこともその通りである。元々取っていた島ではないので、返すという筋でもないのである。こちらからは構えて申し入れる以前のことで、当
方より間違ってもいわないことである。……
(『公文録』所収、「日本海内竹島外一島地籍ニ編纂方伺」附属文書第1号、元禄9年正月28日)

・・・(以下略)
  -------------------------------
 5 竹島一件と竹島渡海禁止令

 ・・・
 その年10月には、前述のように対馬藩主が江戸に来て、老中阿部豊後守に対して朝鮮国との交渉の経過を報告して、「いますでに3年になろうとする。朝鮮側は竹島は鬱陵島であり、自分の領地だと主張して、自分たちのいうことを聞かない状況である。どうしたらよいか」と幕府の指示を仰いできたのである。決断を迫られた幕府としては、竹島に関係を持つ鳥取藩の意向も、聞いてみる必要があるとして、12月24日付で「御尋の御書付」という質問状を鳥取藩に発した。

      
一 因州伯州へ付けている竹島は、いつから両国に附属することになったのか、 
  先祖が両国を領地とする以前からのことか、その後のことなのか。
一 竹島はおおよそどれほどの島なのか、人は住んでいないのか。
一 竹島に漁業に行くようになったのはいつ頃であるか、毎年行っているのか、あ 
   るいは時々なのか、どのような漁業をしているのか、多数の船でいっているの
   か。
一 3~4年以前に朝鮮人が来て漁ををしていた時、人質として両人を捕らえてき 
   た。それ以前からも来ていたのか、そうではなく、その節両年続けてきていた
   のか。
一 ここ1~2年は来ていなかったのか。
一 先年来ていた時の船数、人数はどうであったか。
一 竹島の外に因伯両国に附属する島はあるか。また両国の者が魚を取りに行っ
   ていたのか。
 右の様子を知りたいので書付を送ってほしい。以上
     12月24日


 これに対する鳥取藩の回答は、翌日の25日に江戸藩邸~直ちに幕府に提出された。翌日に回答しているところをみると、国元にも連絡してある程度の調査をして準備していたものと思われる鳥取藩の回答書は次の通りである。

一 竹島は因幡伯耆の附属ではありません。伯耆国米子町人の大屋九右衛門、
   村川市兵衛と申す者が渡海していたのは、松平新太郎が因伯両国に封ぜら
   れた時、御奉書をもって許可されたと承っている。それ以前にも渡海していた
   こともあったように聞いているが、そのことはよくわからない。
一 竹島は周囲が8~9里ほどある由、人は住んでいない。
一 竹島に漁に出かける時節は2月3月の頃、米子を出船して毎年出かけていま
   した。島では鮑、みちの漁をしており、船数は大小2艘でいっていた。
一 4年以前の申年に朝鮮人が島に来ていた時、船頭たちが出会ったことについ
   ては、その時にお届した。翌酉年も朝鮮人が来ており、船頭たちがそのうち2
   人を連れて米子に帰ってきた。そのこともお届申し上げ長崎へ送った。戌年
   は風のために島に着岸できなかったことをお届した。当年も渡海したところ、
   異国人が多数見られましたので着岸せず、帰途松島で鮑を少々取ったと申し
   ている。右のこともお届申し上げた。
一 申年に朝鮮人が来た時は、11艘のうち6艘が強風にあい、残り5艘が島に来
   て、人数53人がいた。酉年は船3艘、人数42人が来ていたと申していた。当
   年は船数余多で人も見えたが、着岸していないのでその詳細はわからない。
一 竹島松島其外両国の附属の島はない。  以上


 見られるように、幕府の「御尋」では「因州伯州へ付けている竹島」といって、幕府としては竹島が因伯両国の鳥取藩に属する島とばかり思っていたことがわかる。しかし鳥取藩はこれに対して「竹島は因幡伯耆両国に附属する島ではない」と回答した。そして第7項目目の質問として、竹島の外に両国に附属している島はないかというのに対しては、竹島松島その外に両国に附属の島はないと明言した。鳥取藩が竹島だけでなく幕府の質問にはなかった松島についても、因伯附属の島ではないといったのである。松島というのは現竹島のことである。両島ともに因伯に附属する島ではないということは、日本の領土ではないということになる。
 ただここで、竹島に加えて幕府が承知していない松島についても記してあったため、幕府は鳥取藩に対してあらためて松島についても照会した。鳥取藩は25日にすぐ回答し、松島について伯耆国からの距離、鳥取藩領でないこと、竹島渡海の途中に立ち寄って漁をすること、因伯以外の国の者が漁に出かけることはないと付け加えた。幕府は併せて松江藩にも竹島渡海のことを問いただし、出雲隠岐の者は竹島渡海に関係ないことを26日付の回答書で確認した。

 こうして、前述の老中阿部豊後守がいっているように、「因幡、伯耆に所属する島ではない」「渡海し、漁をしたまでのことであって、朝鮮の島を取ろうというわけではない」「島には日本人は住んでもいない」「元々取っていた島ではないので、返すという筋でもない」などという認識を持たないわけにゆかず、幕府としても、日本人の竹島への渡海を禁止することを決定するのであった。
 ・・・(以下略)

資料2 ------------------------------                 第2部 独島の歴史──金柄烈
 3 安龍福のための解明
   2 元禄九年の調査記録で確認された内容

 2005年5月16日、島根県隠岐郡海士町の村上助九郎氏の邸宅で、1696年の安龍福関連古文書が309年ぶりに発見された。安龍福の第2回目の渡日の際の取り調べ記録で、渡日の目的などが書かれている。

 この文書の表題は「元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書」で、表紙を含む8枚つづりになっている。1696年5月23日付の記録である。安龍福が隠岐島に到着した5月20日に、安龍福らの渡来の報告を受けた石州御用所の代官・後藤角右衛門は部下の中瀬弾右衛門と山本清右衛門を隠岐島に派遣して安龍福一行の取調べを行った。そのとき作成された報告書の写しが村上家に保管されていたものと思われる。ところで、誤字が多数ふくまれているが、文書の作成過程で発生した誤字なのか、あるいは村上家で書き写す過程で生じた誤字なのかは確かでない。
 この記録によると、安龍福は当時1654年(甲年)生まれの43歳で、水精貫子付の冠のような黒い笠をかぶり、薄い木綿の上着を着て、通政太夫として東萊に居住していると書かれた札を身に付けていた。
 鬱陵島及び竹島の領有権にかかわって重要なのは、安龍福一行の人的事項の取り調べ記録に続く、安龍福一行が朝鮮八道図をもっていたという次のような記録である。


 右安龍福 雷憲 金可果三人江在番人立会之時 朝鮮八道之図ヲ8枚ニシテ所持仕候ヲ出申候則八道ノ各ヲ書写 朝鮮ノ詞ヲ書付申候

 当時の朝鮮は、外国の侵略に利用されるかもしれないという心配から地図を国家機密として管理していた。安龍福一行のような一介の漁師たちが所持できるようなものではなかった。それにもかかわらず、安龍福一行は朝鮮の八道のそれぞれが詳細に描かれている地図をもっていえt、取調べにあたっていた人に提出したのである。これは、安龍福一行が鬱陵島と竹島の領有権を主張しようと、わざわざ朝鮮八道地図を持参して日本に渡ったことを意味する。
 しかも安龍福は次のように、竹島は(現在の鬱陵島)は間違いなく朝鮮の鬱陵島だと言い切った。


 安龍福申シ候ハ竹嶋ヲ竹ノ嶋ト申 朝鮮国江原道東萊府ノ内ニ鬱陵嶋ト申嶋御座候 是ヲ竹ノ嶋ト申由申候則八道ノ図ニ記之所持仕候

 なおこの地図には、竹島(独島)についての正確な記述があると、調査者は次のように記録している。


 松嶋ハ右同道ノ内子山ト申嶋御座候 是ヲ松嶋ト申由 是モ八道之図ニ記申候

 すなわち安龍福は八道地図の中の子山島を指差して、日本で松島と呼ばれるこの島が朝鮮の江原道に属する子山島だといったのである。それによって、当時においても竹島(独島)に対する明確な領土意識があったことを立証している。
 また安龍福は鬱陵島と竹島(独島、当時は松島)を経由して渡来したと陳述している。

 ・・・(以下略)
資料3-------------------------------
                 第1部 竹島の歴史──内藤正中

5 竹島外一島の領有権
 1 天保8年の竹島渡海禁止令

   ・・・
 こうして幕府は、1837年(天保8年)2月21日付で、改めて「異国渡海の儀は重き御制禁に候」といい、特に竹島渡海については、「元禄の度朝鮮国え御渡しに相成り候 以来渡海停止仰せ出され候場所にこれ有り」と述べて、竹島渡海はもちろん、「遠い沖乗り致さざる様」と遠い沖合での航海についても注意を喚起して、浦方村町ともに洩れなく周知徹底を図るように厳命したのである。元禄度に続く2回目の竹島渡海禁止令であった。竹島はいけないが松島は許されると解釈できるようなものではなかったはずである。全国浦方村町あまねくかかげられた「高札」は次の通りである。

 今度、松平周防守元領分 石州浜田松原浦に罷り在り候無宿八右衛門 竹嶋え渡海致し候一件 吟味の上右衛門其外夫々厳科行われ候 
 右嶋住古は伯州米子のもの共渡海魚漁等致し候といえども、元禄の度 朝鮮国え御渡しに相成り候 以来渡海停止仰せ出され候場所にこれ有り 都(すべ)て異国渡海の儀は重き御制禁に候条 向後右嶋の儀も同様相心得渡海致すまじく候
 勿論国々の廻船等海上において異国船に出会わざる様、乗り筋等心がけ申すべき旨先年も相触れ候通り弥々(いよいよ)相守り 以来は可成たけ遠い沖乗り致さざる様乗廻り申すべく候 右の趣御料は御代官私領は領主地頭より浦方村町とも洩れざる様触れ知らすべく候尤も触書きの趣板札に認める高札場等に掛置き申すべきもの也

 2月
 右の通り公儀従り仰せ出され候間 御領分の者共堅く相守るべきもの也
                         浦奉行   (浜田市郷土資料館)


 そのためもあってか、江戸時代後期に作成された地図のほとんどが、竹嶋(鬱陵島)とともに松島(現竹島)を記入しており、両島の存在が日本でも広く知られていることを示している。なかでも林子平による「三国接壌地図」(1785年)では、日本領を緑色、朝鮮領を黄色に塗り分けているが、竹島と松島について黄色に着色した上で、「朝鮮ノ持也」と記されていることが注目される。
 ・・・(以下略) 

資料4-------------------------------
              2 19世紀アジアの情勢と朝鮮開国
  日本との開国交渉

 1869年(明治2年)の9月になって政府は、朝鮮との交際のことは外務省が直接あたることにして、宗氏が勝手に使臣を派遣することを禁じ、同時に外務省出仕佐田白茅、同斎藤栄、同外務少録森山茂に朝鮮視察を命じたのであるが、この3人は翌1870年釜山の草梁館に着いてここでいろいろ朝鮮の国情を調査し、政府に報告している。彼らも大院君治下の鎖国が厳重なことは知ったと見えて、武力を背景に下大使の派遣を政府に建議したのだが、この報告には、いま問題となっている竹島のことにもふれている。明治の初年に外務省が派遣した役人の調査がどうなっていあるかを知るのは、すこぶる興味ふかいので、以下その箇所を引用しよう。


  朝鮮国交際始末内探書

 (前文竹島以外のことは省略)
1、竹島松島朝鮮附属ニ相成候始末
 此儀ハ松島ハ竹島ノ隣島ニテ松島ノ儀ニ付是迄掲載セシ書留モ無之竹島ノ儀ニ付テハ元禄度後ハ暫クノ間朝鮮ヨリ居留ノ為差遣シ置候処当時ハ以前ノ如ク無人ト相成竹木又ハ竹ヨリ太キ葭ヲ産シ人参等自然ニ生シ其余漁産モ相応ニ有之趣相聞ヘ候事
  右ハ朝鮮事情実地偵索イタシ候処大略書面ノ通リニ御座候間一ト先帰府仕候依之件々取調書類絵図面トモ相添此段申上候以上
            午四月
                                  外務省出仕 佐田白茅
                                           森山 茂  
                                           斎藤 栄


 この文書については2,3の説明がいると思うのだが、それは松島、竹島のことである。ここにいう竹島は鬱陵島のことで、松島というのが今の竹島をさしていた。当時はこの両島の名前がしばしば混同され、鬱陵島のことを竹島といったので、いまの竹島を松島といったのであって、このことはいま公知の事実といっていいだろう。
 いうまでもなく、佐田白茅らのこの報告は、公文書として、戦前から日本の外務省の編集した『日本外交文書』にでている。


資料5 ------------------------------
              第2部 独島の歴史──金柄烈
4 日本の軍事的要請による独島編入
 6 無主地の合法的編入として装う

 ・・・
 第一に、独島の領土編入に反対した日本政府官僚もいる、ということである。1876年に日本内務省は各県に県の地図と地籍図を作成して報告するように指示した。近代的な日本地図と地積図を作成するためであった。その時島根県は東海の真中にある鬱陵島と独島はどうすればよいかと内務省に尋ねる。これに対し約5ヶ月間わたって徳川幕府時代の文書等を調べ、鬱陵島と独島は日本領ではないという結論を出した。しかし領土問題は重大事項であるといい、国家最高機関である太政官の最終決定が必要だとして、1877年に太政官署理である右大臣岩倉具視の決済を仰ぐ。(「竹島外一島のことは本邦に関係をもたないものと心得べき事」との案は3月29日の太政官で原案通り決定し、内務省から4月9日に島根県に伝達された)。このような事情があったからこそ、大槻修二が1886年に発刊した『改正日本地誌要略』に「其(隠岐)西北海上ニ松島竹島ノ両島アリ。相隔ル殆1百里ニシテ朝鮮ニテ鬱陵島ト称ス。近来定メテ其国ノ属島トナスト云フ」と記されようになったのであった。また植民史観を反映し1900年に編纂された恒屋盛服の『朝鮮開化史』にも鬱陵島について「大小6島アリ。其中著名ナルヲ于山島(日本人ハ松島ト名ク)、竹島ト云フ」と松島が朝鮮領の独島であることが明示されている。したがって、内務省内での一連の領土確認過程と『改正日本地誌要略』または『朝鮮開化史』等の内容を知っていた内務省の井上書記官は独島日本領土編入にうんといわなかったのである。
 ・・・(以下略)

資料6 ------------------------------
              第2部 独島の歴史──金柄烈

4 日本の軍事的要請による独島編入
 4 独島の侵奪

 ・・・
 明治38年1月28日 秘乙第337号の内
   無人島所属ニ関スル件
北緯37度9分30秒、東経131度55分、隠岐島ヲ距ル西北85浬ニ在ル無人島ハ他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ム形跡ナク、1昨年36年本邦人中井養三郎ナル者ニ於テ漁舎ヲ構ヘ、人夫ヲ移シ、猟具ヲ備ヘテ海驢猟ニ着手シ、今回領土編入並ニ貸下ヲ出願セシ所、此際所属及島名ヲ確定スルノ必要アルヲ以テ該島ヲ竹島ト名ケ、自今島根県所属隠岐島司ノ所管ト為サントス。
右閣議ヲ請フ。


明治38年1月10日
         内務大臣子爵 芳川顕正

内閣総理大臣伯爵 桂太郎 殿


 ・・・(以下略)
---------------------------------
 上記内務大臣の提案について、1905年(明治38年)1月28日に海軍大臣など11名参加の閣議で、下記の通り決定された。ところが内務大臣は、中央政府での編入告示や官報掲載をせず、島根県知事に管内告示をするように指示したのである。この指示を受けた島根県知事は下記の告示第40号を発布しこれを庁内に回覧したというのである。
---------------------------------
          第1部 竹島の歴史──内藤正中
6 日本領土編入をめぐる問題点
 3 領土編入の手続きをめぐって
 
 ・・・
 別紙(上記)内務大臣請議無人島所属ニ関スル件ヲ審査スルニ、……無人島ハ他国ニ於テ之ヲ占領シタリト認ムヘキ形跡ナク、1昨年36年本邦人中井養三郎ナル者ニ於テ、漁舎ヲ構ヘ人夫ヲ移シ猟具ヲ備ヘ海驢猟ニ着手シ、今回領土編入並ニ貸下ヲ請願セシ所、此際所属及島名ヲ確定スルノ必要アルヲ以テ、該島ヲ竹島ト名ケ、自今島根県所属隠岐島司ノ所管ト為サント謂フニ在リ、依テ審査スルニ明治36年以来中井養三郎ナル者該島ニ移住シ漁業ニ従事セルコトハ関係書類ニ依リ明ナル所ナレバ、国際法上占領ノ事実アルモノト認メ、之ヲ本邦所属トシ、島根県所属隠岐島司所管ト為シ、差支無之儀ト思考ス、依テ請議ノ通閣議決定相成可然ト認ム。
 ・・・(以下略)
----------------------------------
                  第2部 独島の歴史──金柄烈
5 外交権の剥奪後終結と望楼撤去
 2 日本への編入告示と通報

 ・・・
   島根県告示第40号
   北緯37度9分30秒東経131度5分隠岐島ヲ距ル西北85浬ニ在ル島嶼ヲ竹島ト称シ自今本県所属隠岐島司ノ所管トス。

                                     明治38年2月22日
                                   島根県知事 松永武吉

 ・・・(以下略)
  
 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする