日本軍が占領するまで、東チモールはポルトガル領であった。ポルトガルによる様々な収奪はあったようであるが、ポルトガルは第2次世界大戦中、一貫して中立の立場を通した国である。まして、東チモールの人々は世界の物質文明から取り残さたような原始的な生活を送っていたのであり、日本軍に占領されなければならない理由はなかった。第48師団の師団長土橋勇逸中将は、チモール人について「全く未開そのままで、土人は黒ん坊。男も女も髪はボーボ、一寸見ても見分けがつかぬ程なり。男女ともに腰巻き一つで男はクルスという短い刃物を腰にブラ下げている。予は恐く神武天皇東征時代の大和の状態といえば、あたらずとも遠からず」と報告しているとのことである。そんなチモール人の住む島を日本軍の都合で占領し、陸軍は「富機関」、海軍は「鳳機関」などによる宣撫工作を利用しながら、連合軍との戦争の惨禍に巻き込んでいったのである。また、9.11以降状況は変化しているようであるが、戦後もチモールの独立を妨害するという問題があったことが、「チモール知られざる虐殺の島」田中淳夫(彩流社)や「ナクロマー東ティモール民族独立小史」古沢希代子 (日本評論社)などであきらかである。下記は「チモール知られざる虐殺の島」からの抜粋である。今後その詳細を追求しなければならないと思う。
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残された傷跡
ポルトガルは、第2次世界大戦中を通して中立の立場を貫き通したが、戦争被害がなかったわけではない。ポルトガルの歴史教科書には、次のごとく記述されている。
「チモールは最初オーストラリア軍(19411年)、次いで日本軍(1942年)と2度も侵略を受けた。日本軍は3年間チモールを占領し、手当たりしだいに何千人ものポルトガル人と原住民を殺戮したが、それでもポルトガルと日本の外交関係は断絶しなかった」
「日本軍の侵入は平和的とはほど遠く、それどころかあらゆる暴力と大量破壊をもたらした。各地でオーストラリア人、チモール人、さらには多くの入植者、白人政治犯まで加わったゲリラ戦が始まり、それは大戦終了まで続いた。1945年日本軍が同を撤退するまで、本国出身の多くの白人を含め何千、何百という人々が戦死し、あるいは日本軍の爆撃、あるいは刑務所で死んだ。ディリその他の集落は破壊され、領土全体は破壊的な戦争で荒廃した」(「世界の教科書ー歴史」ポルトガル3)
また国連の発行している「 DECOLONIZATION 」には 「日本の占領は特に野蛮で、苛酷な食料収集の政策は、国土を荒廃させ、推定4万人の死者を出した責任を負っていると思われる」
4万人という数字は、オーストラリアのジェームズ・ダンという人の書いた
『Timor,a people betrayed 』で詳しくふれている。
・・・
人間だけではない。これらの資料によると、ディリを始めとする町村はひどい破壊を受け経済的にも廃墟と化していたという。
「コーヒー、ココア、そしてゴムのプランテーション──植民地の最も繁栄した経済分野──は、ほとんど全ては棄てられ、大部分は叢林地に退化していた。一方チモールの家畜数は、戦前のレベルの三分の一以下に減少していた。首都は、侵略者の存在による爆撃によってほとんど廃墟と化し、道路は通行不能であった」
(以下略
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著者は、上記に事実誤認を認め、疑問を呈しつつも、「しかし、全く否定もできない」として、続けている。
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特に飢餓は確かに起こった。2万人以上の青年子が島に居すわり、補給もとだえたのだ。物理的に食料は不足する。しかし、東チモールだけで4万人から6万人の人口減があり得たであろうか。〔注・オランダ領チモールだけの人口統計はなく、チモール全島の数値は出せない〕
日本軍に飢餓が起きたのは1944年以降である。また45年は苦しかったものの自給策が実り好転しつつあった。その点はチモール人も準じていると考えていいだろう。
地域的には東ほどひどく、特に日本軍が密集していたラウテン付近で約80人が栄養失調と病気で死んだ。
さらにチモール人は、単に食べる物がないだけでなく、そこに強制労働が重なった。岩村中尉の証言のように、道路工事に際して毎日死者を出した地区もある。強制労働の延べ動員数は転進時も合わせて約8万人。岩村尉は6000人を動員して、仮に3ケタの死者を出したとすると、全強制労働における死者は単純計算で数千人と推測できる。
虐待・拷問死もあっただろう。その多くが通敵行為の疑いにより行われた。だがなかには誤解も多かった。焼畑の煙を、連合軍に連絡する狼煙と勘ちがいしたり、言葉・慣習のちがいから来るものも数多くあった。捕虜なども軍法会議にかけずに始末したケースはいくつもあったようだ。
貴島少尉は、ディリで特務機関員がチモール人を生きたままノコギリで挽いていた事実を同僚から聞いたという。
富機関の長である富木大尉は、終戦時にはアロール島にいたのだが、そこで部下の犯した残虐行為の責任をとって戦犯になっている。彼自身は大学で法律を専攻していただけあって、みすみす戦犯になような行為はしなかったというが、末端の兵に国際法の精神が伝わっていたとは思えない。
松機関でも、前田利貴少尉がサワ島に渡った時に敵スパイを殺したことが戦犯に問われて処刑されている。
また大規模な虐殺としては、東チモールのプアラカやスアイ、リキサ、ツツアラであったという話を、戦後チモールを訪れた京大調査隊の高橋徹氏が聞いてきた。……(以下略)
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1 植民地最前線
ラモス・ホルタは訴える
1985年2月、東チモールのホセ・ラモス・ホルタが来日した。沖縄で開かれたCCA(アジアキリスト教協議会)のアジア平和会議に出席するためである。その帰途、大阪、広島、呉、東京とまわり、市民団体などと交流集会を行った。各地でホルタは何を訴えたのか。
「東チモールは、現在インドネシアの侵略をを受けています。そして日本はインドネシアを支持し、東チモール人民の大虐殺に手を貸しているいるのです」
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年々増えてきているようであるが、東チモールの情報は少ない。しかし「大虐殺に手を貸している」と言われたら、そのわけを追求しないわけにはいかない。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換 えたり、読点を省略または追加したりています。また旧字体は新字体に変えています。青字および赤字が書名や抜粋部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。
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残された傷跡
ポルトガルは、第2次世界大戦中を通して中立の立場を貫き通したが、戦争被害がなかったわけではない。ポルトガルの歴史教科書には、次のごとく記述されている。
「チモールは最初オーストラリア軍(19411年)、次いで日本軍(1942年)と2度も侵略を受けた。日本軍は3年間チモールを占領し、手当たりしだいに何千人ものポルトガル人と原住民を殺戮したが、それでもポルトガルと日本の外交関係は断絶しなかった」
「日本軍の侵入は平和的とはほど遠く、それどころかあらゆる暴力と大量破壊をもたらした。各地でオーストラリア人、チモール人、さらには多くの入植者、白人政治犯まで加わったゲリラ戦が始まり、それは大戦終了まで続いた。1945年日本軍が同を撤退するまで、本国出身の多くの白人を含め何千、何百という人々が戦死し、あるいは日本軍の爆撃、あるいは刑務所で死んだ。ディリその他の集落は破壊され、領土全体は破壊的な戦争で荒廃した」(「世界の教科書ー歴史」ポルトガル3)
また国連の発行している「 DECOLONIZATION 」には 「日本の占領は特に野蛮で、苛酷な食料収集の政策は、国土を荒廃させ、推定4万人の死者を出した責任を負っていると思われる」
4万人という数字は、オーストラリアのジェームズ・ダンという人の書いた
『Timor,a people betrayed 』で詳しくふれている。
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人間だけではない。これらの資料によると、ディリを始めとする町村はひどい破壊を受け経済的にも廃墟と化していたという。
「コーヒー、ココア、そしてゴムのプランテーション──植民地の最も繁栄した経済分野──は、ほとんど全ては棄てられ、大部分は叢林地に退化していた。一方チモールの家畜数は、戦前のレベルの三分の一以下に減少していた。首都は、侵略者の存在による爆撃によってほとんど廃墟と化し、道路は通行不能であった」
(以下略
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著者は、上記に事実誤認を認め、疑問を呈しつつも、「しかし、全く否定もできない」として、続けている。
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特に飢餓は確かに起こった。2万人以上の青年子が島に居すわり、補給もとだえたのだ。物理的に食料は不足する。しかし、東チモールだけで4万人から6万人の人口減があり得たであろうか。〔注・オランダ領チモールだけの人口統計はなく、チモール全島の数値は出せない〕
日本軍に飢餓が起きたのは1944年以降である。また45年は苦しかったものの自給策が実り好転しつつあった。その点はチモール人も準じていると考えていいだろう。
地域的には東ほどひどく、特に日本軍が密集していたラウテン付近で約80人が栄養失調と病気で死んだ。
さらにチモール人は、単に食べる物がないだけでなく、そこに強制労働が重なった。岩村中尉の証言のように、道路工事に際して毎日死者を出した地区もある。強制労働の延べ動員数は転進時も合わせて約8万人。岩村尉は6000人を動員して、仮に3ケタの死者を出したとすると、全強制労働における死者は単純計算で数千人と推測できる。
虐待・拷問死もあっただろう。その多くが通敵行為の疑いにより行われた。だがなかには誤解も多かった。焼畑の煙を、連合軍に連絡する狼煙と勘ちがいしたり、言葉・慣習のちがいから来るものも数多くあった。捕虜なども軍法会議にかけずに始末したケースはいくつもあったようだ。
貴島少尉は、ディリで特務機関員がチモール人を生きたままノコギリで挽いていた事実を同僚から聞いたという。
富機関の長である富木大尉は、終戦時にはアロール島にいたのだが、そこで部下の犯した残虐行為の責任をとって戦犯になっている。彼自身は大学で法律を専攻していただけあって、みすみす戦犯になような行為はしなかったというが、末端の兵に国際法の精神が伝わっていたとは思えない。
松機関でも、前田利貴少尉がサワ島に渡った時に敵スパイを殺したことが戦犯に問われて処刑されている。
また大規模な虐殺としては、東チモールのプアラカやスアイ、リキサ、ツツアラであったという話を、戦後チモールを訪れた京大調査隊の高橋徹氏が聞いてきた。……(以下略)
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1 植民地最前線
ラモス・ホルタは訴える
1985年2月、東チモールのホセ・ラモス・ホルタが来日した。沖縄で開かれたCCA(アジアキリスト教協議会)のアジア平和会議に出席するためである。その帰途、大阪、広島、呉、東京とまわり、市民団体などと交流集会を行った。各地でホルタは何を訴えたのか。
「東チモールは、現在インドネシアの侵略をを受けています。そして日本はインドネシアを支持し、東チモール人民の大虐殺に手を貸しているいるのです」
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年々増えてきているようであるが、東チモールの情報は少ない。しかし「大虐殺に手を貸している」と言われたら、そのわけを追求しないわけにはいかない。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換 えたり、読点を省略または追加したりています。また旧字体は新字体に変えています。青字および赤字が書名や抜粋部分です。「・・・」や「……」は、文の省略を示します。