真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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原発事故 チェルノブイリと福島 ”よく似たにおい”

2013年05月07日 | 国際・政治
 「原発事故を問うーチェルノブイリからもんじゅへー」七沢潔(岩波新書)は、福島第1原発の事故が、様々な点でチェルノブイリ原発事故と共通する部分があることを教えてくれる。

 チェルノブイリで大惨事が起こった時、日本の原子力関係者は異口同音に「日本では起こり得ない事故だ」と言ったという。確かに原子炉の型は違うようだが、正確な情報が公開されていなかった当時、なぜあの大惨事に至ったのかを、何も検証することなく発せられた言葉であったといえる。そして、結果的に、あの事故からほとんど何も学ばなかったのであろう。

 チェルノブイリでも、通報の遅れ、避難先延ばしによる住民の深刻な被曝、被曝許容線量の引き上げ、風向きを考慮しない30キロ圏住民の避難、汚染地帯への避難、汚染地帯での諸行事の黙認、事故後5日目のヨード剤の配布、情報隠し、事実の捏造などなどがあった。

 チェルノブイリ原発の構造的欠陥を指摘する声を封じ、事故後もその事実を隠蔽し、責任を運転員の操作ミスで処理したソ連の巨大組織と真相を隠すことを黙認した国際組織。

 同書の著者七沢潔は、ペレストロイカにあわせて進められたグラスノスチ(情報公開)や、その後のソビエト連邦崩壊によって入手可能となった極秘文書、膨大な内部資料などに当たり、また、事故当時の原発作業員や関係する組織の学者、ゴルバチョフなど行政の関係者多数の証言を得て、『私にはもんじゅの事故の周辺に、チェルノブイリ事故が発しているものとよく似た「におい」が感じられてならない』と記していた。2013年3月11日、過酷事故は福島で起きた。

 チェルノブイリでも事故は「想定外」であった。原子炉の構造的欠陥を指摘する声は封じられ、「原子炉が暴走によって破壊されることはあり得ない」とされていたのである。したがって、原発の運転員や管理職は、原子炉の破壊を把握できず、適切な対応ができなかったのである。

 下記は、原子炉の構造的欠陥についてアレクサンドロフ原子力研究所所長に手紙を出したが、返事がないので、当時のゴルバチョフ書記長やルイシコフソ連首相に同主旨の手紙を送り、内部告発したというクルチャトフ原子力研究所安全部長ボルコフの証言の部分と、ソ連政府が世界に公表した報告書とは全く異なるソ連共産党中央委員会政治局に提出された事故報告書に関する部分である。チェルノブイリ原発事故の真相を知る上で重要な証言であり、報告書であると思う。
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              第2章 隠された事故原因

<原子炉の欠陥>は、こうして隠された

内部告発

 史上最悪のチェルノブイリ原発事故は、それまで表向き一枚岩の固い結束を守ってきたかに見えたソビエトの原子力界に、目に見える形の亀裂を生んでゆく。
 事故から5日後の86年5月1日、クルチャトフ原子力研究所長のアレクサンドロフの机の上に、一通の手紙が置かれていた。そこには「事故の原因は運転員の操作ミスではなく、原子炉の欠陥にある」とはっきりと記されていた。しかも原子炉内部で起こった詳細な計算も添えられたうえで「制御棒の一斉投入による反応の急上昇、正のボイド効果による暴走」まで克明に書き込まれ、原子炉の改良策も示されていた。差出人の名は同じクルチャトフ研究所の原子炉安全部長、ウラジミール・ボルコフと書かれていた。


 私はこのボルコフという人物を探し、モスクワ市内のアパートにたずねた。ボルコフは3年前、ゆえあって脳卒中にたおれ、その後第2級の身体障害者となって在宅療養中だった。後遺症で言葉の発音が聞き取りにくいが、通訳を介して伝わるその内容は、かつてクルチャトフ研究所屈指の核物理学の論客言われたその人にふさわしいものだった。ボルコフは10年以上にわたる原子炉安全部長の在任中に、数々の事故を体験し、それを解析して安全性の向上に必要な提言を行うたびになめた辛酸をもとに、次のように話した。

 「事故のあとアレクサンドロフ所長に手紙を出したのは、実際の責任者ではなく運転員責任が転嫁されることがありうると思ったからです。私のそれまでの経験からして、今回も「炉はすばらしいが運転員の質が悪いために事故が起こってしまった」で済まされてしまうと思ったのです。それではいけないと思いました。もう10年もそんなことが続いてきたんですから。
 私が安全部長に就任した直後の1975年に、レニングラード原発で事故が起こりました。これは明らかに暴走事故だったのですが、真相は隠され、原子力界内部でも、原因は「圧力管が製造時のミスで欠陥品であったために破損した」ことにされてしまいました。私はこの時、本当の原因は原子炉の高すぎるボイド反応度係数にあることを報告書に書きました。
 冷却水のなかに蒸気が発生すると暴走しやすくなるこの性質は、原子炉の急速な巨大化に、炉のなかの反応の解析が追いつかなく成ったことから生じてしまいました。ソ連では当時、大型コンピューターの普及が遅れていたからです。
 75年に私がそれを指摘したら、研究所の指導部から「こんな問題の検討を続けるのならクビにするぞ」と、注意を受けたのです」


 実際クルチャトフ原子力研究所では、前任者の原子炉安全部長が、制御棒の本数を増やすことなど安全性向上策を提案していたが疎んじられ、別件の失敗を理由に解任されていた。

 「制御棒の欠陥についても、75年には運転員からの報告で知っていました。緊急停止スイッチAZー5を使ってテストをした時、千回のうち30~40回は出力が急上昇することがあったのです。こうしたことは研究者もみな知っていたんですが、しゃべれば身が危険だと思って黙っていたのです。現場の人々にたいしては、「われわれのほうが炉のことはよく知っていいる」という態度で押し通し、「君たちが運転の仕方を間違えたのだ」と言ってきたのです」

 ボルコフはチェルノブイリ事故の1年前にも、アレクサンドロフ所長に手紙を出し、「炉心の設計をすべて変更すべきだ」と進言したが、所長の側近が手紙を破棄してしまったという。
 「設計に携わった人々は、原子炉の欠陥を認めたら全部改善しなければならず、そんな面倒で金もかかることをやりたくないと思っていたんです。だから2000年までに200基の原子炉を稼働させるという党のプロパガンダを楯に「偉大なソ連の党と政治局が承認した化学が過ちを犯すことなどありえない。間違えるとしたら労働者しかいない」などと言って、政治の問題にすり替えてしまう。アレクサンドロフ自身も「RBME1000はワインを手作りする機械のように安全だ。赤の広場に置いてもよいくらいだ」と、一度ならず言っていたのです」


 チェルノブイリ事故5日後に出したボルコフの手紙をアレクサンドロフが知ったのは、5月14日だったという。なかなか返事が来ないので、ボルコフは思い切って、ゴルバチョフ書記長とルイシコフ・ソ連首相にも同様の趣旨の手紙を書き送った。この手紙は2人の手許に届き、ルイシコフ首相は、政治局会議の席上でそれを読み上げ、面前にすわるアレクサンドロフに感想を尋ねたという。それが5月14日だったのだ。
 ちなみに、ボルコフはその後、研究所内で「いじめ」を受け続けたという。そして、3年前のある日、職場で気分が悪くなり連れて行かれた病院で受けた注射がきっかけで、脳卒中を起こし、働けない体になってしまったという。ボルコフは、KGBが関与したことを疑い、その後、検察に調査を要請している。


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政府事故調査委員会の報告書

 86年6月末、シチェルビナ副首相が首班のソ連政府事故調査委員会は、チェルノブイリ原発事故の原因調査に関する最終報告書を作成し、ソ連共産党事故中央委員会政治局に提出した。
 1993年、私はそれまで機密扱いとなっていたこのオリジナルの報告書を初めて入手した。シチェルビナはじめ、科学アカデミー会員のレガソフ、ソ連電力電化省大臣マイオレーツ、中規模機械製作省次官メシコフら11名の政府事故調査委員会の公式メンバーが署名したこの報告書は、その後にソ連政府が世界に公表した報告書とはまるで違った率直さに満ちていた。
 まず、事故プロセスの説明において暴走・爆発に至る瞬間は、次のように記されている。

 午前1時23分40秒、運転員は緊急停止装置(AZ)を動かした。その時に、圧力管での蒸気量が増加していたことと、事故防護制御棒が下へ動き始めた時に制御防御システムのチャンネルから水が排除されたことによって、原子炉のなかの正の反応性が急に上がったため、原子炉の暴走を呼び起こした。

 ここだけ見るかぎり、1991年に出されるシュテインベルク報告書とまったく同じである。事故原因については、許可を受けていない実験を行ったこと、低い反応度操作余裕で操業したことなど、3点の運転員の規則違反が第1に指摘されたが、同時に正のボイド効果を持つ原子炉の欠陥、制御棒の構造上の欠陥も挙げられ、さらに設計上、反応度操作余裕の低下とその危険を運転員に即座に知らせる予告システムが欠けていたことまで指摘されている。


 そして事故の責任者としては、運転側から原発所長ブリュハーノフ、技師長フォミーン、ソ連電力電化省大臣マイオレーツらの名が挙げられ、設計側からは中規模機械製作省スラフスキー主任設計者ドレジャーリ、補佐をしたエミリヤノフ、学術指導者アレクサンドロフの名前が記されていた。さらに驚くべきことに報告書は、安全性に問題のあるRBMK型原子炉をこれ以上建設すべきでない、と勧告している。
 圧倒的な政治力を背景とした中規模機械製作省と、アレクサンドロスのペースで進んでいたはずの事故調査原因究明作業の結論がケンカ両成敗の形とはいえ、どうしてここまで公平に近いレベルに達したのか、その舞台裏を語る情報を、私は持たない。アレクサンドロフらの圧力に抵抗した電力電化省次官シャシャーリンの踏んばりや、クルチャトフ研究所原子炉安全部長のボルコフの内部告発が影響したのだろうか。いずれにしてもこの報告書をたたき台にした以上、原因究明の最終決着の場、ソ連共産党政治局会議が波乱に富んだ展開となったことは容易に想像できる。事故原因をめぐる戦いはここからがヤマ場だった。



 http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。

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