真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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原発事故 許容被曝線量 晩発的影響

2013年05月25日 | 国際・政治
 福島第1原発の事故直後、テレビやラジオのニュースなどで「ただちに人体、健康に影響はない」というような言葉を何度も聞いた。
 ソ連でも、チェルノブイリ原発の事故後、「汚染地域で生活する人の全生涯に、事故によって上乗せされる被曝量が、350ミリシーベルト程度かそれ以下であれば、住民への医学的な影響は問題にならない」といわれた。

 しかしながら、放射線障害は急性放射線障害だけではない。晩発的影響があることを無視することはできないのである。そして、その晩発的影響が進行するリスクは、どんなに小さな被曝の下でも現れうるという。いわゆる「しきい値」はないというのである。この「直線しきい値なしモデル(LNTモデル)」が、国際放射線防護委員会(ICRP)において、人間の健康を護るために最も合理的なモデルとして採用さ
れ、国際的な安全基準となっていることを忘れてはならないと思う。現在では、WHOも旧ソ連3カ国で多発している小児甲状腺ガンがチェルノブイリ事故による放射能の影響であることを認めているという。

 チェルノブイリ原発事故後の1988年、ソ連放射線防護委員会(NCRP) が引き上げた許容被曝線量「生涯70年350ミリシーベルト概念=70年35レム説」によって、汚染地域からの移住を含めた様々な措置や汚染地でのほとんどの規制が解除されることになったという。その結果、ベラルーシでは、ソ連放射線防護委員会(NCRP)を主導したイリイン教授などの予測の、10倍を超える小児甲状腺ガンが、事故後35年間ではなく、たった10年間に確認されることになったという。対応が困難であったために引き上げられた許容被曝線量によって、予想をはるかに超える晩発的放射線障害が発生したのである。そして、その晩発的放射線障害が小児甲状腺ガンのみではないことはもちろんである。

 このソ連の「生涯70年350ミリシーベルト概念=70年35レム説」の許容被曝線量は、1年間では5ミリシーベルトになる。ところが、福島第1原発の事故後、文科省が設定しようとした子どもの許容被曝線量は、年間20ミリシーベルトであった。文科省は「子供の被ばくを年間20ミリシーベルト以下に抑えるため、国の調査結果で毎時3.8マイクロシーベルト以上を検出した福島、郡山、伊達各市の計13校・園に対し、体育などの屋外活動を1日当たり1時間に制限するよう通知した」のである。年間20ミリシーベルトという、ソ連の設定した4倍の被曝を子どもに許容しようとしたのである。国際的な医師団体を含め、日本国内はもちろん、世界各地から批判の声が上がったようである。晩発的影響を無視するかのような線量であり、当然であると思う。

 「チェルノブイリ 極秘」アラ・ヤロシンスカヤ著・和田あき子訳(平凡社)には、こうした問題を取り上げている部分がある。それが、下記である。

 註:単位と国際放射線防護委員会許容被曝線量について
  ○ 1 Sv = 100 rem[1] = 100,000 mrem (ミリレム)
  ○ 1 Sv = 1,000 mSv(ミリシーベルト) = 1,000,000 μSv(マイクロシーベルト)
  ○ 許容被曝線量 - 国際放射線防護委員会(ICRP)では、
             一般人については、年間1mSv。
             放射線作業従事者は、任意の5年間の年平均で20mSv

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            第1部 わが内なるチェルノブイリ

「子ども達の健康は心配ない」


 ・・・

 …自分たちの「70年35レム」説がほぼ1990年まではいろいろな政府決定の基礎になってきたのであり、まさにこの「政府系」学者グループは、今日、4年間汚染地区で暮らし続けていた人びとに対して、2年間にほぼ20レム以上を「一気に」取り込んだ子どもたちに対して、責任の重みを感ずるべきである。つまり彼らは連邦および共和国の政府、政治指導者とともに、あらゆる集会、ミーティング、集いで悲嘆にくれた母親達の「なぜなのか」という質問に答えるべきである

 ナロヂチでのそのような会合の一つで、ソ連邦医学アカデミー生物物理学研究所実験室長のV・A・クニジニコフ教授は、大真面目にこう語った。
「世界中の被曝研究のいずれにおいても(ヒロシマでもナガサキでも、平均線量が52レムであった1957年のウラルでの事故後のわが国でも、鉱山の運転手、レントゲン医師等々のその他のデータによっても)100から50レムの線量を受けても遺伝子の破壊やガンの頻発は記録されなかった」と。


 これに対して会場から我慢しきれずに、「ここでヒロシマは関係ないでしょう、われわれのところには、他の放射性核種が落ちてきたのですから」という声があがった。教授は、間髪を入れずにこうかわした。「そうですね、あなたがおとぎ話の方に興味を持っておられるのでしたら……」と。しかし、長年嘘に苦しめられてきた人びとは、「おとぎ話」などに一度だって興味を引かれたことはなかったのだ。だから会場はクニジニコフ教授に対して一斉に「拍手をして話をやめさせようとした」。実際にこのような比較は、正当な根拠のあるものなのか。
 ヒロシマに落とされた原子爆弾は、全部で4.5トンであった。チェルノブイリ原発4号炉は、大気中に微粒子の形で50トン(!)の二酸化ウラン、高放射性核種のヨウ素131、プルトニウム239、ネプツニウム239、セシウム137、ストロンチウム90など、いろいろな半減期を持ったその他の放射性同位元素を放出したのである。さらに約70トンの燃料が炉心周辺部分から放出された。これに加えて事故を起こした原子炉のまわりでは、原子炉の放射性黒鉛およそ700トンがまき散らされた。一般的にチェルノブイリは、寿命の長いセシウムだけをとってみても、ヒロシマの300倍であり、そのセシウムは炉外に飛んでいったのである。
 
 学者たちに、このことがわかっていなかったなどということがあるだろうか。
 ところが、それにもかかわらず、公的医学界は自分の立場に固執しつづけ、自分たちの立場を保持するために、次々に新しいあらゆる拠り所を探し出した。クニジニコフ教授が、その集会で押し出した「論拠」の一つはこういうものであった。「アルゼンチンでは20年間に100レムという線量が政府によって採用されている」。欺かれ、病んでいる人たちにはそれはたいした慰めにはならなかった。アルゼンチンでは、われわれと違って、「ヨーロッパの核戦争」の影響のただ中に暮らしているというわけではない。本質的に、チェルノブイリはその規模からして核戦争に匹敵するものである。それと比べるべきものは存在しない。アルゼンチンも、ヒロシマも、ウラルも。クニジニコフ教授もイリイン教授もグシコーワ教授もチャーゾフ教授もそれを理解していないというのか。


 ・・・

 私は、国内で最も権威のある情報源の一つである『ソビエト大百科事典』を開いて、読んでみた。「線量。年間5レムの被曝線量が職業被曝の場合許容線量とされる」と書いてある。たった一つの州の、ナロヂチ地区の12の村の住人たちだけでも、自分はそれとは知らずに、原発で働く職業人たちと同じ条件の中で3年間暮らしていたということになる。それも休暇、年金、医学管理といった特典もなしに。

 V・A・クニジニコフ教授は言った。
「何度かの被曝で線量が25レムか、あるいはそれ以下でも、最も感じやすい人には、血液に一過性の変化が観察されるが、それは3-4週間の間に消える。いかなる健康障害も起こらない」
 『ソビエト大百科事典』ではさらにこうなっている。
「1回の被曝で一部の細胞の増殖能力の抑制を呼び起こすガンマ線最低線量は、5レムとされる。長期にわたって、毎日0.02-0.05レムの線量を浴びれば、血液に原初的変化が観察され、0.11レムの線量では腫瘍の形成が観察される。被曝の晩発的影響については、子孫の突然変異の頻度の増加によって判断する」。ああ、今日これらの晩発的影響そのものが現れはじめているというのに。ナロヂチ地区ではこの数年「モンスター」の数が顕著に増えている。事故から3年してコルホーズの畜産場では、突然変異の豚が19頭と子牛37頭が生まれている。手足がなかったり、目、肋骨、耳がなかったり、頭蓋骨が変形していたりする。あるコルホーズでは8本足の子馬が生まれた。


 ここに興味深い学者の文書が2つある。
「電離性放射線の作用には、『しきい値』がないという仮説によって、晩発的影響が進行するリスクは、どんなに小さな被曝の下でも現れうることを覚えておく方がよい……」
 2つ目は次のようなものである。
「地球規模での放射性降下物の晩発的影響を測るために、線量値として2.16レムを取り上げてみよう。地球のすべての住人にとって、核災害でこの世の平均的な人間が2.16レムの線量を被曝した結果起こる致死性腫瘍の数は、20年間で120万件となり、これに対応する遺伝的影響の総数は、38万人となる」


 これらの筆者は誰か。きわめて興味深いことに、これらは尊敬するE・I・チャーゾフ、L・A・イリイン、A・K・グシコーワ教授が書いた著書『核戦争の危険性』と『核戦争──医学的=生物学的研究』から取ってきたものである。そうなのだ、これはチェルノブイリ原発での爆発前、つまり1982年と1984年に書かれている。学者たちは、私が推測するところ、まさに学問的に裏付けられたデータを引きながら、世界に警告していたのである。
 それがチェルノブイリ原発事故後、彼らに何が起こったのか。
 ここに書かれている学問的結論を、なぜ数年のうちにあれほど急激に変えたのか。なぜ今日アカデミー会員、L・A・イリインは既成の理論を擁護して、「数百の村の移住の問題とは、人びとが慣れ親しんだ快適さを奪われるところの、習慣になった生活形態の破壊という深刻な行為である」といった、学問とはほど遠い論拠を押し出しているのか。1989年11月18日の『ソビエト文化』紙に掲載された論文「ザブレヂュール」で、有名な映画監督であり、国家賞受賞者のヂェムマ・フィールソワはこのことに関連して理にかなった質問をしている。「アカデミー会員はいかなる快適さを考えているのか。一体、いかなるものを。30ル-ブリの『棺桶代』をか。液体放射性廃棄物や子どもたちの際限のない発病を思わせる『汚染された』牛乳をか」と。


 よく知られているように、まさにメーデーの時期に放射能は市を直撃していたのに、キエフの子どもたちが5月7日になってはじめて疎開させられたのは、アカデミー会員イリインの説によってではなかったのか。

 ・・・(以下略)

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