先月 東京都の石原知事が定例記者会見で、旧日本軍の従軍慰安婦問題について「強制したことはない。ああいう貧しい時代には日本人だろうと韓国人だろうと売春は非常に利益のある商売で、貧しい人は決して嫌々でなしに、あの商売を選んだ」と述べたり、橋下大阪市長が従軍慰安婦問題に関し「河野談話は見直すしかない」と発言したりしたので、再び議論が活発化した。今後の日韓関係などへの影響が懸念される。
しかし、こうした主張を繰り返す人たち同様、石原都知事も橋本市長も、河野談話がどういう経緯で、どのような調査に基づいて発表されたのか、には触れていない。また、河野談話と同時に発表された日本政府の慰安婦関係調査結果についての言及もない。さらに、自身の主張を裏付ける根拠の提示などもされていないようである。したがって、巷に存在する河野談話批判の単なる繰り返しのように思われる。「慰安婦関係調査結果発表に関する内閣官房長官談話」として発表された河野談話を批判するのであれば、当然その時発表された調査結果についても言及すべきではないか、と思う。20歳に満たない処女であった少女たちが、ほんとうに「嫌々でなしに、あの商売を選んだ」のかどうか…。数多くの性交渉強要の証言を、全て「嘘」と断じてよいのかどうか…。「従軍慰安婦」問題を、強制連行に関する日本側証拠の存否の問題にのみ限定してよいのどうか…。
参議院予算委員会で、本岡昭次議員(社会党)が、「慰安婦」問題の実態調査を政府に要求したのに対し、清水傳雄労働省職業安定局長は、「慰安婦」は「民間の業者が軍とともに連れ歩いた…」と、国の責任を回避をしつつ「調査はできかねる」と答弁したのは、1990年6月のことであった。以来、様々なやり取りの結果、政府が調査を約束することとなり、”まだ不充分だ”との指摘を受けつつも、関係者の「聞き取り」をはじめ、かなり広範囲で綿密な調査が実施された(関連資料-323「従軍慰安婦」問題 資料NO1 日本政府の発表)。その調査の結果、河野談話の発表に至ったのである。また、「従軍慰安婦」問題は、国際的には、すでに結論の出ている問題といっても過言ではない状況を知っておくべきだと思う。
国連人権委員会やILO(国際労働機関)条約勧告適用専門家委員会、国際法律家委員会(ICJ)などの国際組織が、それぞれの調査団の調査に基づいて、日本政府に対し、謝罪や補償、関係者の処罰、その他を勧告しているのである。
《313「従軍慰安婦」国際法律家委員会(ICJ)の結論・318「従軍慰安婦」とクマラスワミ報告書・319「従軍慰安婦」問題 マクドゥーガル報告書など参照》
さらに、アメリカ合衆国下院121号決議にとどまらず、オーストラリア上院慰安婦問題和解提言決議、オランダ下院慰安婦問題謝罪要求決議、カナダ下院慰安婦問題謝罪要求決議などがあり、フィリピン下院外交委や韓国国会なども謝罪と賠償、歴史教科書記載などを求める決議採択をしており、台湾の立法院(国会)も日本政府による公式謝罪と被害者への賠償を求める決議を全会一致で採択しているという。
こうした勧告や決議を全て無視し、「従軍慰安婦」の証言を否定し続けることは、日本の孤立化を招き、近隣諸国との関係改善に様々な悪影響を与えるのではないか、したがって、目先の利益にとらわれず、歴史的事実を直視すべきではないか、と思うのである。
そうした状況を踏まえつつ、「開港慰安婦と被差別ー戦後RAAへの軌跡」川元祥一(三一書房)を読むと、『外国人専用の遊郭が政策として造られたという事実から、それが「慰安所」であり、しかもそれが日本近代の象徴としての横浜開港のためであったことから私はそれを「開港慰安所」と考え、そこで働く女性を「開港慰安婦」であると考える』との指摘は、意味深い。戦時中の軍の「慰安所」や戦後のRAAによる「占領軍慰安所」など、国策として、軍や政府主導で造られた「慰安所」の初期的形態であるというのである。著者がそう考える根拠の一部を、下に抜粋した。
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第二部 開港慰安婦
3 新港町横浜の最初の外国人遊郭──駒形屋
それでは、新港町横浜の外国人遊郭がどのように出来てゆくか見てみよう。1854年(安政元)の日米和親条約によって下田を仮の開港地とした時、神奈川港開港はもう時間の問題だった。しかし幕府は神奈川港を開港するのを避けて横浜の入江を突貫工事し、そこを神奈川の港といつわり(実際幕末の地図に、今の横浜港を神奈川港と書いたものがある。幕府はここまでして神奈川港開港を避けた)開港したのである。それが1859年(安政6)5月28日である(『日本史年表』歴史学研究会・岩波書店)。が、この時は調印式が行われただけだ。横浜は、新港町として突貫工事がまだつづいており、新港町の形態はほとんどととのっていなかった。
先に、横浜の駒形屋という仮設遊郭があったことを書いた。これができたのが同年6月10日なのである。だから横浜を本格的に開港するするための日米修好通商条約締結の話し合いがハリスのいる下田領事館などで話し合われているあいだ横浜の突貫工事がつづき、町の形態がととのはないうちに駒形屋を造った。同年8月、神奈川宿の旅籠屋の「飯盛女」を禁止したのも、先に駒形屋という仮設遊郭が出来たためであり、そこに──つまり新港町横浜に──外国人を集中させようとする幕府の意図があったわけである。
そのあたりの幕府の意図について『横浜市史稿・風俗編』(前掲書)は次のように書いている。少し長い引用であるが注意深くみてみよう。もちろん幕府が指令した遊郭であることはすぐわかる。一見、関係業者の出願であるかのような形をとりながら幕府はこれをすすめた。
開港条約の締結に因り都市建設に伴ふ必須条件であり、社会的施設の一要素であつた遊里の設置は、当然起こるべき事であったと同時に、其設置が条約面にあつた訳では無いが、幕府の当事者と某領事の間の非公式折衝に成つたものと伝へられてゐるのである。安政5年11月中、幕府は遊郭の設置を発表して、希望者の出願を促したところ、当時神奈川宿の旅籠屋41軒(飯盛宿屋と称した女郎屋兼業のものが多かった。)が協議の上当宿鈴木屋善二郎の名義を以て出願した。之と前後して品川宿の旅籠屋(飯盛宿屋)岩槻屋佐吉(岩亀楼佐七の通称・筆者註・以下同)は、同業五兵衛と共同出願した。又江戸橋本石町3丁目の金三郎、下香取郡下総国小川村の名主愛二郎の両人も、別箇に之を出願した。時の代官小林藤之助の役所では、何れに許可すべきやを決し難かつたので、願の趣を外国奉行永井玄蕃頭の手許に廻附して、其指図を仰いだ。外国奉行は2回出願人を召喚して取調べの末、翌6年3月5日、一同を戸部村の仮外国奉行役所へ招致し、調役成瀬善四郎をして、太田屋新田の内1万5千坪(現在横浜公園の地点)を遊郭地として下渡の命令を与えた。
この遊郭は、日米修好通商条約など開港のための諸条約とともに、文章にはならなかったが、幕府と某領事(ハリスである)との約束であったことがわかる。幕府が関係業者に遊郭設置を発表し、関係業者が出願するという形をとっている。今日でいう公共事業の入札制度に似ている。
何人かの関係業者が出願し、代官、外国奉行が取調べ、審査している。そして太田屋新田の内1万5千坪が遊郭地として指定される。これが今の横浜スタジアムの場所であり、スタジアムが出来る前は横浜公園だった。
この土地が後に、本格的な遊郭・港崎(みよさき)遊郭になるのであるが、もともと海の浅瀬であり、軟弱な土質であるため埋立工事、施設建設が難行し、開設が遅れることがわかったので幕府は急遽、仮設遊郭をつくる。これが駒形町の駒形屋である。場所は今の神奈川県庁のあたりである。
この駒形屋の建設、設営と神奈川宿の「飯盛女」禁止のいきさつなどについて『洋娼史談』(戸伏太兵・鱒書房)は次のように書いている。
こうして当局は、いったん神奈川宿の飯盛女郎を全面的に禁止したが、その代替として横浜の新市街に外国人向け新遊郭を開設することは、かねてより外国使臣たちとの約束であったから、神奈川宿駅娼禁止の少し前、同年4月から、新門辰五郎の出願によって、太田屋敷の埋立案に着手させるとともに(但し、辰五郎は途中で手を引いた)、はやくもその6月、旧神奈川宿の駅娼50名を強制的に駒形町の仮設遊郭へ送らししめ、また品川、小田原間の宿駅遊女屋を誘引している。しかし、呼びかけられた遊女屋たちも、何分にも経験のない外人相手の営業を危惧して、あまり快く引き受ける亡人(くつわ・女郎屋)もいなかった。
ここでも『外国使臣』(ハリス)との約束であったことがわかる。しかも神奈川宿の「駅娼」(「飯盛女」といわれていた人・筆者註)を、強制的に送っていることがわかる。また強制的でない誘引の場合は、こころよく引きうける女性はいなかった。
ここには、外国人相手の娼妓になりたがらない日本の女性の姿があらわれている。このことは、本格的な遊郭・港崎遊郭を外国人専用として開設した時、大きな問題となって展開する。
私はここにあらわれているような幕府の政策、ことに外国政策として造られた外国人遊郭を「開港慰安婦」と呼んでいる。その理由は先に言ったが詳細はこれから順次述べてゆく。
しばらくのあいだ駒形遊郭の設営を通して外国人遊郭=「開港慰安婦」の初期の状態をみておきたい。同じ『洋娼史談』(前掲書)に次のような記述がある。当時ハリスや幕府要人の名も出ており、彼らが意図する政策の一端が具体的に見える。
ハリス等外国の使臣たちは、長崎の《出島》のような隔離的取りあつかいを受けることをおそれて、極力反対するのみならず、あくまでも神奈川を主張して、英国は浄滝寺、米国は本覚寺、仏蘭西は慶雲寺と、いずれも神奈川の寺院に領事館を開設した。オランダのボルスブルック──この人は、後にいうように、ラシャメン史の上でも、なかなか活躍するのだが──この人だけが、ひどく幕府にたいして好意的で、はじめ神奈川の長延寺を仮領事館としていたのを、まっさきに横浜へ領事館をうつした。
こうした反対があったにかかわらず、これを強引に押し切って、大いに土木の業を起し、道路をきずき、波止場をかため、運上書(税関)や町会所、役宅、お貸長屋(遊郭のこと・筆者註)等の設備をどんどん進行して、移住商人を招致し、土地を無償で貸しつけるなど、極力新市の建設につとめたのは、当時の外国奉行兼神奈川奉行、水野筑後守忠徳である。
こんなわけで、横浜が新市として生まれ出るまでの1年間に、神奈川へ出入りする外人の数が、どんどんふえていった。幕府はまだ外国人の江戸居住を認めず、外人遊歩距離を神奈川を中心に5里四方と定め、東北は六郷川を限りとしたが、五里四方といえば甚しく狭隘。それでも当局は、《仮令(たと)へば5里に定め候にも、往返致し候へば10里に相成候間、10里無之とて遊歩差支へ候筋は之あるまじく候》と、屁理屈をこねている。
ここに書いている「お貸長屋」は仮設遊郭としての駒形屋のことである。幕府が率先して建設していることがわかるとともに、運上所(今の税関にあたるところ)、町会所、役人宅と共に遊郭が建設されていることがわかる。
実際は、横浜をつくる突貫工事が終わらないうちに、突貫工事一般をやっている建設労働者をすべて遊郭(ここでいう貸長屋)建設にあてて、急いでこれを造らせる。それだけでも幕府の指令で建設されていることがわかる。『洋娼史談』(戸伏太兵・鱒書房)は駒形屋建設後のことを、さらに次のように書いている。あまりパッとしない姿が見えてくる。
この駒形屋のお貸長屋というのは、当局が建築して2棟に移住商人を招致し、他の24棟を下級外人の宿舎に提供したものだが、(その位置は、後の山下町50、及び70番地の両側)、相当地位のある上流外人はそこに泊らないで、神奈川宿の寺院(仮領事館)のほうに泊る。また軍艦乗組兵などは、上陸すると、元町山手商館へんの畑地や、山林に、野営するほうが多く、しまいにはお貸長屋へは、さっぱり外人が泊まらなぬようになってしまったので、新遊郭設立完成までの暫定期間を、その明長屋のうち表通り3棟を仮設遊郭に指定し、そこへ前期神奈川宿からの50名の飯盛女郎を送りこませたのである。前に誘引されて、決心をグズつかせていた各宿場の遊女屋たちも、やっと腰を上げ、品川、川崎、戸塚、藤沢、神奈川から各一軒、前記鈴木屋にならって、駒形町に出張店を張ることになった。この仮宅での揚げ代は、横浜市史引用の「錦園随筆」に、《一昼夜ドルラル1ツ。日本金3分也》とある。
ともあれこのようにして、下田を窓口にし、後では横浜を通って上陸する外国人のために──といってもこれは政治全般との強い関連をもつ外交政策なのだ。一つは攘夷論者への牽制。二つは鎖国政策の一環として江戸に外国人を入れないためなど──、横浜に、性的欲求をみたすための施設を集中する。何回もいうがこれは関連業者が勝手にそうしたのではないし、業者と契約した女性がその道を選んだのでもない。
私はここに、政治的目的によって、為政者(幕府や政府)が自ら造りだしてゆく性的「慰安所」の初期的形態があると思う。しかも外国人専用の遊郭が政策として造られたという事実から、それが「慰安所」であり、しかもそれが日本近代の象徴としての横浜開港のためであったことから私はそれを「開港慰安所」と考え、そこで働く女性を「開港慰安婦」であると考える。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。
しかし、こうした主張を繰り返す人たち同様、石原都知事も橋本市長も、河野談話がどういう経緯で、どのような調査に基づいて発表されたのか、には触れていない。また、河野談話と同時に発表された日本政府の慰安婦関係調査結果についての言及もない。さらに、自身の主張を裏付ける根拠の提示などもされていないようである。したがって、巷に存在する河野談話批判の単なる繰り返しのように思われる。「慰安婦関係調査結果発表に関する内閣官房長官談話」として発表された河野談話を批判するのであれば、当然その時発表された調査結果についても言及すべきではないか、と思う。20歳に満たない処女であった少女たちが、ほんとうに「嫌々でなしに、あの商売を選んだ」のかどうか…。数多くの性交渉強要の証言を、全て「嘘」と断じてよいのかどうか…。「従軍慰安婦」問題を、強制連行に関する日本側証拠の存否の問題にのみ限定してよいのどうか…。
参議院予算委員会で、本岡昭次議員(社会党)が、「慰安婦」問題の実態調査を政府に要求したのに対し、清水傳雄労働省職業安定局長は、「慰安婦」は「民間の業者が軍とともに連れ歩いた…」と、国の責任を回避をしつつ「調査はできかねる」と答弁したのは、1990年6月のことであった。以来、様々なやり取りの結果、政府が調査を約束することとなり、”まだ不充分だ”との指摘を受けつつも、関係者の「聞き取り」をはじめ、かなり広範囲で綿密な調査が実施された(関連資料-323「従軍慰安婦」問題 資料NO1 日本政府の発表)。その調査の結果、河野談話の発表に至ったのである。また、「従軍慰安婦」問題は、国際的には、すでに結論の出ている問題といっても過言ではない状況を知っておくべきだと思う。
国連人権委員会やILO(国際労働機関)条約勧告適用専門家委員会、国際法律家委員会(ICJ)などの国際組織が、それぞれの調査団の調査に基づいて、日本政府に対し、謝罪や補償、関係者の処罰、その他を勧告しているのである。
《313「従軍慰安婦」国際法律家委員会(ICJ)の結論・318「従軍慰安婦」とクマラスワミ報告書・319「従軍慰安婦」問題 マクドゥーガル報告書など参照》
さらに、アメリカ合衆国下院121号決議にとどまらず、オーストラリア上院慰安婦問題和解提言決議、オランダ下院慰安婦問題謝罪要求決議、カナダ下院慰安婦問題謝罪要求決議などがあり、フィリピン下院外交委や韓国国会なども謝罪と賠償、歴史教科書記載などを求める決議採択をしており、台湾の立法院(国会)も日本政府による公式謝罪と被害者への賠償を求める決議を全会一致で採択しているという。
こうした勧告や決議を全て無視し、「従軍慰安婦」の証言を否定し続けることは、日本の孤立化を招き、近隣諸国との関係改善に様々な悪影響を与えるのではないか、したがって、目先の利益にとらわれず、歴史的事実を直視すべきではないか、と思うのである。
そうした状況を踏まえつつ、「開港慰安婦と被差別ー戦後RAAへの軌跡」川元祥一(三一書房)を読むと、『外国人専用の遊郭が政策として造られたという事実から、それが「慰安所」であり、しかもそれが日本近代の象徴としての横浜開港のためであったことから私はそれを「開港慰安所」と考え、そこで働く女性を「開港慰安婦」であると考える』との指摘は、意味深い。戦時中の軍の「慰安所」や戦後のRAAによる「占領軍慰安所」など、国策として、軍や政府主導で造られた「慰安所」の初期的形態であるというのである。著者がそう考える根拠の一部を、下に抜粋した。
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第二部 開港慰安婦
3 新港町横浜の最初の外国人遊郭──駒形屋
それでは、新港町横浜の外国人遊郭がどのように出来てゆくか見てみよう。1854年(安政元)の日米和親条約によって下田を仮の開港地とした時、神奈川港開港はもう時間の問題だった。しかし幕府は神奈川港を開港するのを避けて横浜の入江を突貫工事し、そこを神奈川の港といつわり(実際幕末の地図に、今の横浜港を神奈川港と書いたものがある。幕府はここまでして神奈川港開港を避けた)開港したのである。それが1859年(安政6)5月28日である(『日本史年表』歴史学研究会・岩波書店)。が、この時は調印式が行われただけだ。横浜は、新港町として突貫工事がまだつづいており、新港町の形態はほとんどととのっていなかった。
先に、横浜の駒形屋という仮設遊郭があったことを書いた。これができたのが同年6月10日なのである。だから横浜を本格的に開港するするための日米修好通商条約締結の話し合いがハリスのいる下田領事館などで話し合われているあいだ横浜の突貫工事がつづき、町の形態がととのはないうちに駒形屋を造った。同年8月、神奈川宿の旅籠屋の「飯盛女」を禁止したのも、先に駒形屋という仮設遊郭が出来たためであり、そこに──つまり新港町横浜に──外国人を集中させようとする幕府の意図があったわけである。
そのあたりの幕府の意図について『横浜市史稿・風俗編』(前掲書)は次のように書いている。少し長い引用であるが注意深くみてみよう。もちろん幕府が指令した遊郭であることはすぐわかる。一見、関係業者の出願であるかのような形をとりながら幕府はこれをすすめた。
開港条約の締結に因り都市建設に伴ふ必須条件であり、社会的施設の一要素であつた遊里の設置は、当然起こるべき事であったと同時に、其設置が条約面にあつた訳では無いが、幕府の当事者と某領事の間の非公式折衝に成つたものと伝へられてゐるのである。安政5年11月中、幕府は遊郭の設置を発表して、希望者の出願を促したところ、当時神奈川宿の旅籠屋41軒(飯盛宿屋と称した女郎屋兼業のものが多かった。)が協議の上当宿鈴木屋善二郎の名義を以て出願した。之と前後して品川宿の旅籠屋(飯盛宿屋)岩槻屋佐吉(岩亀楼佐七の通称・筆者註・以下同)は、同業五兵衛と共同出願した。又江戸橋本石町3丁目の金三郎、下香取郡下総国小川村の名主愛二郎の両人も、別箇に之を出願した。時の代官小林藤之助の役所では、何れに許可すべきやを決し難かつたので、願の趣を外国奉行永井玄蕃頭の手許に廻附して、其指図を仰いだ。外国奉行は2回出願人を召喚して取調べの末、翌6年3月5日、一同を戸部村の仮外国奉行役所へ招致し、調役成瀬善四郎をして、太田屋新田の内1万5千坪(現在横浜公園の地点)を遊郭地として下渡の命令を与えた。
この遊郭は、日米修好通商条約など開港のための諸条約とともに、文章にはならなかったが、幕府と某領事(ハリスである)との約束であったことがわかる。幕府が関係業者に遊郭設置を発表し、関係業者が出願するという形をとっている。今日でいう公共事業の入札制度に似ている。
何人かの関係業者が出願し、代官、外国奉行が取調べ、審査している。そして太田屋新田の内1万5千坪が遊郭地として指定される。これが今の横浜スタジアムの場所であり、スタジアムが出来る前は横浜公園だった。
この土地が後に、本格的な遊郭・港崎(みよさき)遊郭になるのであるが、もともと海の浅瀬であり、軟弱な土質であるため埋立工事、施設建設が難行し、開設が遅れることがわかったので幕府は急遽、仮設遊郭をつくる。これが駒形町の駒形屋である。場所は今の神奈川県庁のあたりである。
この駒形屋の建設、設営と神奈川宿の「飯盛女」禁止のいきさつなどについて『洋娼史談』(戸伏太兵・鱒書房)は次のように書いている。
こうして当局は、いったん神奈川宿の飯盛女郎を全面的に禁止したが、その代替として横浜の新市街に外国人向け新遊郭を開設することは、かねてより外国使臣たちとの約束であったから、神奈川宿駅娼禁止の少し前、同年4月から、新門辰五郎の出願によって、太田屋敷の埋立案に着手させるとともに(但し、辰五郎は途中で手を引いた)、はやくもその6月、旧神奈川宿の駅娼50名を強制的に駒形町の仮設遊郭へ送らししめ、また品川、小田原間の宿駅遊女屋を誘引している。しかし、呼びかけられた遊女屋たちも、何分にも経験のない外人相手の営業を危惧して、あまり快く引き受ける亡人(くつわ・女郎屋)もいなかった。
ここでも『外国使臣』(ハリス)との約束であったことがわかる。しかも神奈川宿の「駅娼」(「飯盛女」といわれていた人・筆者註)を、強制的に送っていることがわかる。また強制的でない誘引の場合は、こころよく引きうける女性はいなかった。
ここには、外国人相手の娼妓になりたがらない日本の女性の姿があらわれている。このことは、本格的な遊郭・港崎遊郭を外国人専用として開設した時、大きな問題となって展開する。
私はここにあらわれているような幕府の政策、ことに外国政策として造られた外国人遊郭を「開港慰安婦」と呼んでいる。その理由は先に言ったが詳細はこれから順次述べてゆく。
しばらくのあいだ駒形遊郭の設営を通して外国人遊郭=「開港慰安婦」の初期の状態をみておきたい。同じ『洋娼史談』(前掲書)に次のような記述がある。当時ハリスや幕府要人の名も出ており、彼らが意図する政策の一端が具体的に見える。
ハリス等外国の使臣たちは、長崎の《出島》のような隔離的取りあつかいを受けることをおそれて、極力反対するのみならず、あくまでも神奈川を主張して、英国は浄滝寺、米国は本覚寺、仏蘭西は慶雲寺と、いずれも神奈川の寺院に領事館を開設した。オランダのボルスブルック──この人は、後にいうように、ラシャメン史の上でも、なかなか活躍するのだが──この人だけが、ひどく幕府にたいして好意的で、はじめ神奈川の長延寺を仮領事館としていたのを、まっさきに横浜へ領事館をうつした。
こうした反対があったにかかわらず、これを強引に押し切って、大いに土木の業を起し、道路をきずき、波止場をかため、運上書(税関)や町会所、役宅、お貸長屋(遊郭のこと・筆者註)等の設備をどんどん進行して、移住商人を招致し、土地を無償で貸しつけるなど、極力新市の建設につとめたのは、当時の外国奉行兼神奈川奉行、水野筑後守忠徳である。
こんなわけで、横浜が新市として生まれ出るまでの1年間に、神奈川へ出入りする外人の数が、どんどんふえていった。幕府はまだ外国人の江戸居住を認めず、外人遊歩距離を神奈川を中心に5里四方と定め、東北は六郷川を限りとしたが、五里四方といえば甚しく狭隘。それでも当局は、《仮令(たと)へば5里に定め候にも、往返致し候へば10里に相成候間、10里無之とて遊歩差支へ候筋は之あるまじく候》と、屁理屈をこねている。
ここに書いている「お貸長屋」は仮設遊郭としての駒形屋のことである。幕府が率先して建設していることがわかるとともに、運上所(今の税関にあたるところ)、町会所、役人宅と共に遊郭が建設されていることがわかる。
実際は、横浜をつくる突貫工事が終わらないうちに、突貫工事一般をやっている建設労働者をすべて遊郭(ここでいう貸長屋)建設にあてて、急いでこれを造らせる。それだけでも幕府の指令で建設されていることがわかる。『洋娼史談』(戸伏太兵・鱒書房)は駒形屋建設後のことを、さらに次のように書いている。あまりパッとしない姿が見えてくる。
この駒形屋のお貸長屋というのは、当局が建築して2棟に移住商人を招致し、他の24棟を下級外人の宿舎に提供したものだが、(その位置は、後の山下町50、及び70番地の両側)、相当地位のある上流外人はそこに泊らないで、神奈川宿の寺院(仮領事館)のほうに泊る。また軍艦乗組兵などは、上陸すると、元町山手商館へんの畑地や、山林に、野営するほうが多く、しまいにはお貸長屋へは、さっぱり外人が泊まらなぬようになってしまったので、新遊郭設立完成までの暫定期間を、その明長屋のうち表通り3棟を仮設遊郭に指定し、そこへ前期神奈川宿からの50名の飯盛女郎を送りこませたのである。前に誘引されて、決心をグズつかせていた各宿場の遊女屋たちも、やっと腰を上げ、品川、川崎、戸塚、藤沢、神奈川から各一軒、前記鈴木屋にならって、駒形町に出張店を張ることになった。この仮宅での揚げ代は、横浜市史引用の「錦園随筆」に、《一昼夜ドルラル1ツ。日本金3分也》とある。
ともあれこのようにして、下田を窓口にし、後では横浜を通って上陸する外国人のために──といってもこれは政治全般との強い関連をもつ外交政策なのだ。一つは攘夷論者への牽制。二つは鎖国政策の一環として江戸に外国人を入れないためなど──、横浜に、性的欲求をみたすための施設を集中する。何回もいうがこれは関連業者が勝手にそうしたのではないし、業者と契約した女性がその道を選んだのでもない。
私はここに、政治的目的によって、為政者(幕府や政府)が自ら造りだしてゆく性的「慰安所」の初期的形態があると思う。しかも外国人専用の遊郭が政策として造られたという事実から、それが「慰安所」であり、しかもそれが日本近代の象徴としての横浜開港のためであったことから私はそれを「開港慰安所」と考え、そこで働く女性を「開港慰安婦」であると考える。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。青字が書名や抜粋部分です。