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真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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日本人戦犯自筆供述書 満州国憲兵訓練処処長少将 斎藤美夫

2014年10月03日 | 国際・政治
 下記は、「侵略の証言 中国における日本人戦犯自筆供述書」新井利男・藤原彰編(岩波書店)から、満州国の治安維持工作や中国人弾圧に直接関わった中心的人物、斎藤美夫の自筆供述書の一部を抜粋したものである。斎藤美夫は、憲兵畑を歩み、新京憲兵隊長や関東憲兵隊司令部警務部長、憲兵訓練所長などを歴任した人物で、関東憲兵隊が行った治安維持工作や中国人弾圧関する記述は具体的かつ詳細である。「討伐検挙」をくり返し、多くの中国人を「厳重処分」とした事実は、「五族協和」「王道楽土」の満州国が、実は、憲兵と警察による統治国家であったということを物語っている。

 斎藤美夫の供述書に頻繁に出てくる「厳重処分」という言葉が、法的手続きに基づかない「処刑」を意味しているということにも驚かされる。そして、『共産党関係者は仮借なく「厳 重処分」を以って臨むこと』としていたのである。さらには、官吏公職員等の身分を有する者や学生知識分子等は「軍事行動による厳重処分」が憚られるため、一応裁判所の審理にかけ合法化を装う、としていたのである。

 また、彼は国際法規に違反し、「細菌化学試験に充つる中国人を憲兵隊が石井部隊に引渡したこと」を認めている。
 さらには、ノモンハン事件の俘虜交換交渉の成立により戻ってきた日本側の俘虜の処遇に関する記述も見逃せない。「俘虜の大部分は戦傷により人事不省に陥り、俘虜となったものが大 部分になることは日本帝国軍人の恥辱と考え、之れを理由なく卑む風潮がありました」ということで、処刑したり、自決を強要したりしたという事実も明らかにしているのである。

 注:文中の”ママ”とある漢字の「吉米」は「粁」に、「横打」は「殴打」に、「見致」は「見地」に、「通諜」は「通牒」に、「所刑」は「処刑」、「すこと」は「すること」に、「労動者」は「労働者」に、「人事不正」は「人事不省」に改めた。
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               第3章 憲兵に支配された国

 筆供自述                               
                         満州国憲兵訓練処処長少将 斎藤美夫
自己罪行

新京憲兵隊長当時

  [抗日聯軍・朝鮮遊撃隊への工作]
(二)1937年11月初旬、新京北・南憲兵分隊、又偽首都警察庁の「厳重処分」附すべき中国人約30名を隊附き西田憲兵少佐に指揮せしめ、偽首都警察庁押送用バス2台に分乗せしめ、憲兵偽警察官約40名を以て護衛し、偽新京東北方約20粁の刑場に押送途中、被護送遊撃隊員1名が手錠を装したるまゝ警察官拳銃を奪い、警察官を即座に射撃し、其場に斃し離脱を計りました西田少佐は後部車輌にありましたが、急遽全車を停止せしめ、憲兵警察官を指揮し、又最寄より自警団を集めて遂にこの勇敢なる遊撃隊員其他全員約30名を射殺し、引揚の上其顛末を報告しました。私は西田少佐が臨機応変の処置を講じたことに対し賞詞を与えました。本件被押送者が受刑の直前、必死の最終的反抗闘争を敢行し、成功すると否とに拘ず日帝に対する憎しみを以て死の直前迄完闘したその精神は、誠に尊きものでありました。而して指導官西田少佐は反抗を鎮圧することを理由として、無武装の被押送者を全部射撃(ママ)致しました。私は隊長として西田以下を指揮し、このを実行せしめたのであります。しかも当時西田に対し賞詞を与えて居ります。私の罪行は最も厳重であります。茲に衷心認罪致します。


[石井部隊・討伐検挙・「厳重処分」]
(四)1938年1月26日、関憲警第58号をもって石井細菌化学部隊と関係ある憲兵司令部命令を受領しました。私は、石井部隊が憲兵隊より引渡す人員を其細菌化学試験に充当するものなるを察知しました。私は右命令に基き処置を取りましたが、当時如何なる手続きを経て何名の人員を石井部隊に引渡したるや等、其具体的情況を記憶致しませんため、こゝに其供述をなし得ませぬことは誠に申訳なき次第であります。細菌化学試験に充つる中国人を憲兵隊が石井部隊に引渡したことについては、1938年新京憲兵隊附きとして在職した憲兵少佐橘武夫が、1948年ハバロフスク国際裁判所法廷に証人として証言したることにより、之れを確認する次第であります。細菌化学試験に関する前記命令に基いて、私は新京憲兵隊長として之に対する措置を実行したのに相違なく、従って私は石井細菌化学部隊の試験工作に封帛助協力して国際法規に違反し、非人道極まる罪行を犯したることにつき、茲に謹んで認罪する次第であります。


(五)1938年2月中旬春季「討伐検挙工作」につき、吉林分隊に於て憲・警機関の会議を施行し、私は会議に臨んで対策指示を致しました。其要旨は左の如くであります。
 「前冬季工作により相当の成果を揚げ、第一路軍楊司令直轄部隊に其五分の一の損耗を与えたるも該部隊を金川方面に逸したり。就ては来る春季工作に入る前に同軍と連絡ある人民の一斉検挙を実行し、一面吉林、及各農村に潜入せる隊員を索出検挙すること。

 春季工作に於て吉林地区は依然第一路軍に対する工作を実行す。之れがため通化独立憲兵分隊との連繋協定を遂げ、彼此相呼応して工作を実行すること。(之れがため吉林分隊長及吉林省警備課長を通化に派遣し協議せしめました。)
 第一路軍に対する情報蒐集を適確にし、同軍の移動方向を予め把握して、捕捉殲滅を期すること。」

 春季工作は1938年3月中旬より開始しました。之れに先行して聯軍に連絡ある人民を「一斉検挙」し、又都市農村潜入の遊撃隊員を「逮捕」し、「討伐検挙工作」により聯軍隊員に又人民に多大の犠牲を出しました。この春季工作を通じて憲・警の総「検挙」数は約700名に達しました。私は隊長として各工作を画策し、指揮し、且つ「被検挙者」の処理につき之れを指揮して、多数の「厳重処分者、法院送致者」を出しました。

(一五)1938年7月下旬、新京駅貨物倉庫に謀略放火と認むる火災事件が発生しました。私は隊下を指揮して厳重なる捜査を実行せしめました。火災現場検証により放火材料(マッチを加工したもの)を指定されたる位置に装置したる中国人労働者1名を「逮捕」し、続いて倉庫に働く労働者多数を新京北憲兵分隊、偽警察機関にて取調を行はしめ、工作中心人物を発見せんとしましたが目的を達成しませんでした。私の捜査命令により多数の人民に対し凡百ゆる拷問を行い、迫害を加えました。

(一六)私の新京憲兵隊長在任期間を通じて各憲兵分隊は所管地区内軍倉庫、官舎等より警察法令違反事件被害届を多数受理しました。憲兵は之等事件の中、重大事件を除く外は、微罪不検挙の方針の下に刑事訴追手続を省略し、被逮捕者に対し将来を戒むる理由によって殴打暴行等凡ゆる帝国主義的野蛮手段を加え、然る後釈放する処理法を採りました。私は部下が人民に与えた不法行為に対し、深く其責を負う次第であります。


関東憲兵隊司令部警務部長当時

[治安粛正工作]
3、人民鎮圧に関する具体的事項。
(二)1939年初頭頃より海拉爾(ハイラル)日本軍陣地構築に関し、労働作業、生活管理不良の為め、中国人労働者に多数の病死者を出しました。この陣地構築労働者は、防諜の見地より現地住民を避け、遠く熱河省方面より募集し来たりしものであります。地下構築作業が主であったため、温度湿度が身体に合はず、且つ給与管理が不適当であった為、爆発的に呼吸器疾患、或は伝染病が多発したのであります。海拉爾憲兵隊は防諜警備上現場に出動服務し、労働者に酷烈なる監視を加え、病者の外、健康者に対しては更に苛酷なる取扱を実施しました。私は警務部長として現地憲兵の陣地構築警戒監視に関する命令指示を致しました。其関係に於てこの事件に対する重大なる責任を負う次第であります。

[細菌部隊への引渡業務]
(六)1939年7月中旬、大連埠頭に於て日本軍戦闘機焼却事件が発生しました。之れは謀略放火と認めましたので、警務部長通牒を以て大連憲兵に対し捜査指示を致しました。其工作援助のため八六部隊より一部を大連憲兵隊に配属致しました。


 大連に於ては鋭意捜査に当りましたが、未だ検挙に至りません。其後も被害は頻々として続出し、遂に1940年2月、大連郊外関東軍防寒被服倉庫一棟を放火によりて焼却せられました。私は関東軍司令部第2課長磯村大佐と共に急遽大連に出張し、直接大連憲兵隊及大連警務機関の捜査工作を指揮しました。遂に大連警察署に於て謀略関係地下工作員約20名(天津方面より派遣せらる)を検挙しました。

 本捜査のため事件発生の都度埠頭其他の現場から中国人労働者を憲兵隊偽警察に拉致し、厳密なる取調を行い、自供を強いる等人民に対し甚しき脅迫迫害を加えました。

(七)1939年8月8日、関憲作命第224号を以て河北より石井細菌化学部隊に引渡すべき中国人90名を哈爾浜、及孫呉に押送すべき関東憲兵隊司令官命令を下達しました。この命令は関東軍作戦命令によるものでありまして、私は警務部長として第3課に命じて命令案を起案せしめ、司令官命令として下達したものであります。命令内容の要旨は左の如くであります。

「憲兵教習隊平野中佐は、附属人員憲兵約30名、及看護下士官1を指揮し、河北より押送し来る中国人90名を山海関に於て河北押送者より受領し、之れを孫呉に押送し中、哈爾浜にて30名を残余を孫呉に於て夫々石井部隊受領員に引渡すべし。」


 私は、当時被押送中国人は石井細菌化学部隊に於て実験用に供すべき事を承知の上、押送引渡業務を事実上指揮して、石井細菌部隊の化学実験の下に中国人民を虐殺する工作に協力致
しました。

 又、1940年4、5月の候、日本陸軍技術本部並習志野瓦斯(ガス)学校合同試験班が毒瓦斯砲弾効力試験を北黒線地区に於て実施しました。此際関東軍作戦命令に基き、私は警務部長として右試験場特別警戒の為、憲兵将校以下60名を差出し、又憲兵隊留置中の厳重処分に該当する中国人約30名を該試験団に引渡すべき工作を司令官命令を以て示達しました。 

 右2件は何れも生人を化学実験に供したものでありまして、私は警務部長として其目的を承知しつゝ、人員引渡を為さしめたのであります。誠に非人道非人間性の惨虐を絶する行為であり、且つ又細菌毒瓦斯兵器は国際法に於て厳に禁止する事項でありまして、右行為は国際法違反行為たることを確認致します。今当時之等悪虐非道の日本軍事ファシストの毒牙に斃れた人びとの身の上に想到致しますると、自責の念に堪へぬ次第であります。私は言語に尽ぬ滔天の罪行を犯しました。唯々謹んで認罪致します。


[ノモンハン事件俘虜の処刑]
(二)1939年9月上旬、ノモンハン事件につき哈爾浜市に於て其善後処置につき、日・偽満・蘇間の談判会議が開かれました。軍司令部の意図により哈爾浜憲兵隊をして会議の警戒及ソ側談判員の身辺警護を名として談判員の言動を内査せしめました。

 又同時頃、綏芬河──哈爾浜──満州里間列車に於けるソ聯伝書使に対し、軍の指示に基き伝書盗取の目的を以て催眠性瓦斯を列車寝室に放射し、睡眠に陥れんとする工作を憲兵をして実施せしめました。結果は獲る所がありませんでしたが、この2件は軍事ファシストの手先として陋劣陰険極まる性質の罪行でありまして、私は警務部長として之れを憲兵に命じ、強制的に敢行せしめた指揮官として責を負い認罪いたします。

(三)1939年10月下旬、ノモンハン事件日・ソ俘虜交換問題の交渉成立し、日本側俘虜受領委員により日本側俘虜は受領せられました。其人員は約300名であったと記憶します。この人員は軍に於て俘虜管理委員を組織し、管理することゝなりました。私は其委員に任命せられました。俘虜は吉林の軍病院に収容せられました。憲兵を看護兵に偽装せしめ、監視と看護とを兼ねて勤務せしめました。軍特設軍法会議により俘虜を取調べ処刑しました。死刑処分に附せられた者は約30名と記憶致します。尚中隊長として戦場に於て俘虜となった大尉1名は、癩病に罹り居り、且つ戦場にあって尽くすべきを尽くさずして俘虜となった故を以て、本人に対し死刑を判決されましたが、管理委員に於て、本人に自決を勧告し、秘かに憲兵(看護兼務)をして拳銃を渡さしめ、遂に自殺せしめた由、後に委員、憲兵隊司令部西田中佐より之れを聞知しました。又俘虜の大部分は戦傷により人事不省に陥り、俘虜となったものが大部分になることは日本帝国軍人の恥辱と考え、之れを理由なく卑む風潮がありました。因って判決処理が過当であったことは勿論、非人道的なる方法(例えば自決を強要するが如き)が秘密に行はれたることも想像に難くありません。(前記中隊長の事例もその一例であります。)私は管理委員として俘虜に対する非法取扱の責任を負う次第であります。


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コメント (2)
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