先日、安倍自民党政権は臨時閣議を開き、従来の政府解釈を180度変えて、日本国憲法9条の下で集団的自衛権の行使を認 める決定した。また、2014年8 月1日の朝日新聞は、憲法改正の早期実現を求める意見書や請願が今年に入り19県議会で可決、採択されていたことを報じている。そうした動きの根底には、 安倍首相の「侵略の定義は学界的にも国際的にも定まっていない。国と国との関係でどちらから見るかで違う」というような考え方や、さらには、先の大戦おける日本の戦争責任を回避したり過小評価したりする考え方、また、日本の戦争犯罪をなかったことにしようとする考え方などがあるのだろうと思う。
しかしながら、日本の侵略や戦争責任、戦争犯罪は、日本人がどのように考えるか、という「日本人」の考え方の問題ではない。「被害」と「加害」の問題も存在するのであり、歴史の事実は、世界で共有されなければならないものであろう。
日本軍政下におけるベトナム200万人餓死の問題でも、日本軍の責任をしっかりと認識する必要があると思う。
日中戦争の行き詰まりを打開するために、中国の海岸を封鎖し、南シナ海の東沙島や海南島を占領した日本は、「仏印」経由の「援蒋ルート」を遮断するため、 北部仏印に進駐した。この進駐は戦闘を伴うものではなく、フランスに圧力をかけて、強引に同意させたものであった。このとき、インドシナの住民や組織は交 渉相手ではなかった。そして、日本軍の進駐直後から、「反仏・反日帝国主義」をスローガンした武装蜂起の動きがあったことを忘れてはならないと思う。
また、北部仏印進駐が、単に「援蒋ルート」の遮断にとどまらず、「南進」の拠点として、さらには広大な戦線を賄う補給基地として重視されていた事実も忘れてはならないと思う。
日本軍政下におけるベトナム200万人餓死の問題では「当時ベトナムにいた1万人の日本兵が、200万人分の米を食べらるわけがない、ベトミンンの政治的な宣伝である」とか「…日本軍が配置したのは一個師団、約2万5千人です。2万5千人増加した為、200万人の人々が餓死するということはありません。200万人の餓死者は台風や洪水、米軍の交通手段の破壊によるものです」というような責任回避ともいえるような主張を 再三見聞きする。しかしながら、そうした主張は、5年間にわたる日本軍の駐留とその間の軍事政策、また「仏印処理」以降の日本の軍政をほとんど考慮していないと思われる。
天候不順や南部からの米の移送遮断も、もちろん無視はできない。しかしながら、多数の餓死者を出したのは、日本軍の米、その他の物資調達、黄麻の強制栽培 (稲作面積などの減少)などに主な原因があったことは否定できないと思うのである。軍用米の調達も、仏印「駐留部隊用」だけではないのである。他の戦線へ の「補給用」、さらには決戦に備えての「備蓄用」、日本への輸出用などがあったというのである。
下記は、「ベトナム”200万人”餓死の記録 1945年日本軍政下で」早乙女勝元(大月書店)の抜粋であるが、表4や表6、表7は、日本の北部仏印進駐のもう一つの理由(食糧確保)を示し、表5は、日本軍の動静を示すものといえるであろう。
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第6章 誰に責任が?
飢餓四つの原因
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未曾有の飢餓に至った1944年~1945年の背景を大ざっぱに整理してみたが、理由④には、いうまでもなくそれまでの時間的な経過も含まれよう。(注 ④ 日本とフランスによるモミの強制買い付けが、最後に挙げられるが、これはどうか。)フランス軍がベトナム侵略をはじめたのは1858年までさかのぼる から、実に80年余にわたる長期の植民地支配と搾取とに、目を向けなければならない。これで、ベトナム人民の生活は逆さに振っても血も出ないほど極度に疲 弊しきっていた。ところが汗も血もみな吸いとっていった「太った鬼」のほかに、突然大東亜共栄圏のスローガンを掲げて「背丈の低い盗賊」(日本ファシスト の意=ベトミン紙による)が登場した。
「1940年秋、日本ファシストが連合国攻撃のための基地を拡大しようとインドシナに侵略する と、フランス植民地主義者は膝を屈して降伏し、わが国の門戸を開いて日本を引き入れた。このときから、わが人民はフランスと日本の二重のくびきのもとに置 かれた。このときから、わが人民はますます苦しくなり、貧窮化した……。」
ベトナム人民共和国独立宣言はその文章のあとに、問題の 「200万人以上の同胞が餓死した」とつづくのだが、インドシナを貧窮のドン底に追いやった日本が、それまでは一体どのような役割をはたしたのか。軍事管 理期間の5年間にどれだけの戦略資源を調達あるいは収奪して、日本国内へ運んでいたかを、次にみていくことにする。
まず基本的な資料として、正木千冬氏訳の『日本戦争経済の崩壊──戦略爆撃の日本戦争経済に及ぼせる諸効果』を取り上げたい。これは、アメリカ戦略爆撃調査団報告書総合報告ともいえる部分の邦訳である。
同書はトルーマン大統領の指示によって、戦後すぐに来日した850人のアメリカ軍人のもとに300人の日本人が動員され、戦略爆撃がもたらしたであろう被 害実態と、その爆撃効果を知るために作成された膨大量のレポートである。正木千冬氏訳の総合報告は全ページの半分近くを、日本側の統計で埋めつくしている ところに特徴がある。戦時下の日本経済の実態を、アメリカが入手した資料で確かめねばならないのは不本意だが、その統計は貴重な第一次資料とみることがで きる。以下の表4から7までは、同書から引用した。
表4は、日本国内の食糧在庫量で、1931年からはじまって、45年までの農林省の統計である。
問題のコメを見ていくと、39年度がそれまでの半分以下に落ちこんで、わずか67万6900トンになっている。これは朝鮮米、台湾米の凶作にもよるものだ が、翌40年も在庫はわずかに増えたくらいで、大きな変化はない。戦争指導者たちは、この数に頭を痛めかなりの危機感を覚えたであろう。ところが、41年 はにわかに100万トン台を確保した。日本軍の「仏印進駐」は40年9月のことだが、そのねらいが今にして手に取るようによくわかる。
表4 食糧在庫調べ 1931~45年 (単位 トン) 注:コンマ略
コメ | その他の雑穀 | 缶詰 | 砂糖 | |
1931 | 1523374 | ─ | 25612 | 177437 |
32 | 1484571 | ─ | 31236 | 299250 |
33 | 1501266 | ─ | 38224 | 180750 |
34 | 2738481 | ─ | 46955 | 49200 |
35 | 1656023 | ─ | 52033 | 73620 |
36 | 1344416 | ─ | 61155 | 57270 |
37 | 1251955 | ─ | 78953 | 69603 |
38 | 1451550 | ─ | 91147 | 63631 |
39 | 676900 | ─ | 102642 | 55381 |
40 | 726124 | 2642431 | 64721 | 66693 |
41 | 1178377 | 2264042 | 73721 | 89744 |
42 | 392000 | 1855614 | 47224 | 167159 |
43 | 435333 | 1543092 | 61014 | 105956 |
44 | 384167 | ─ | 50128 | 11273 |
45 | 133000 | ─ | 4583 |
(注)コメの在庫は毎年10月30日現在 その他の雑穀は大麦、小麦、裸麦の合計で6月30日現在、缶詰、砂糖は12月31日現在
(出所)農林省
表5は、日本軍用食糧の推移だが、先の表で39年度からコメの在庫が減る一方なのに対し、42年からの軍隊用食糧のうちとくにコメはうなぎ上りに増えて、4年間のあいだに3倍にも跳ね上がっている。
これは、戦力が急速に増強されたからにほかならないが、かわりに農村は留守家族だけとなり、食糧生産が減少するのは避けようもない。表4の42年度からの コメの在庫分減少は、このこととも決して無関係ではなかったのだ。コメ絶対量の不足は、そのまま一般庶民にしわ寄せされていく。戦争で犠牲になるのはつね に一般庶民であり、わけても女性、子ども、年寄りたち弱いものである。日本は軍事面のみならず、食糧面からいっても、戦争をすれば自滅せざるをえなかった のだ。
表5 軍隊用食糧 1942~45年 (単位 トン)
1942 | 1943 | 1944 | 1945 | |
コメ | 230600 | 374300 | 502500 | 666600 |
大麦 | 41800 | 23000 | 25+900 | 63800 |
裸麦 | 139000 | 75100 | 90100 | 130200 |
小麦 | 3100 | 3700 | 6900 | 68100 |
小麦粉 | 不詳 | 不詳 | 100000 | 122900 |
味噌 | 28300 | 38750 | 67650 | 66370 |
醤油 | 23050 | 30750 | 56500 | 55650 |
計 | 465850 | 545600 | 849550 | 123020 |
(注)42年、43年の合計には小麦粉を含まない。
(出所)農林省