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表 6は、雑穀の輸入高である。インドシナからの場合それはほとんどトウモロコシで、40年度から全輸入量の50%以上を占め、42年に減るものの、43年は 80%以上、44年も70%とある。船舶もほとのど沈められ海上輸送路が危険だらけとなった時点で、いささか信じがたいすうじだが、農林省の統計とあれば まちがいあるまい。台湾、朝鮮、中国と比べれば、大変な物量である。
なお蘭領東印度とあるのは、こんにちのインドネシアをさす。
表6 雑穀および雑粉輸入 1940~45年 (単位 トン、下段は%)
1940 | 1941 | 1942 | 1943 | 1944 | 1945 | |
1 仏領インドシナ | 148600 55.2 |
135200 50.5 |
124900 15.2 |
634100 84.5 |
355000 70.0 |
─ |
2 蘭領インド | 76900 28.5 |
79200 29.5 |
22300 2.7 |
5000 0.7 |
─ | ─ |
3 台湾 | 500 0.2 |
1000 0.4 |
1000 0.1 |
300 0.1 |
100 0.1 |
─ |
4 朝鮮 | 3300 1.2 |
1000 0.4 |
600000 72.9 |
25200 3.3 |
25200 4.1 |
15000 6.5 |
5 中国 | ─ | 1000 0.4 |
2300 0.3 |
5000 0.7 |
4500 0.9 |
3000 1.3 |
6 満州 | 40000 14.9 |
50000 18.8 |
72800 8.8 |
80500 10.7 |
122000 24.0 |
213400 93.2 |
総計 | 269300 | 267400 | 823300 | 750100 | 506800 | 231400 |
(出所)農林省 船舶運営会
表7は、いよいよインドシナからのコメとモミの輸入量だが、ビルマの下にシャムと出ているのは、タイのことである。
インドシナからのコメ(モミ)は40年度に約44万トンで、全輸入量の26%近かったものが、41年~42年とトン数が増え続ける一方で、43年にはなんと66万2000トンにもなり、全輸入量の58%以上となった。
表6のトウモロコシもまた43年度が80%以上を占めたのを見れば、昭和18年度の「外米」ならびにトウモロコシの大半が、ベトナムからきたものだった、 といってよいだろう。コメはモミで運ばれてきた分もあるから、その分は保存されて、昭和19年までは一般の主食配給分に混入されてくる。「配給の米に今度 も小さな豆が入っている。白い米、黄色い米、青い豆、紅い粒、褐色の虫、五色の米である」と、徳川無声が日記にしるしたのは、同年夏のことだったのを思い 出す。
私(たち)は、まちがいなく、ベトナム人民の血の出るようなとぼしい米や、汗の結晶ともいうべきトウモロコシを多量に食べて、な んとか飢えをしのぎ、戦時下のきびしい食糧難時代を生きのびたのだ。このことは、何びとも否定できない事実である。かわりにベトナム北中部で、どのような 大惨事が起きたかなどは、夢にも知らされずに。……。
インドシナから日本へのコメについて、次にフランス側が残した統計を、『資料・ベトナム解放史』からみていきたい。
インドシナにいけるコメとトウモロコシは、日本政府の特命で三井物産と三菱商事が輸送権を独占していたが、コメは主として三井物産に委託されていた。しか し「日本ファシストの需要はきわめて高く、輸出額は日本とフランス両国間の貿易協定に定められた要求額にはとても及ばなかった」と、同書にある。1941 年2月のフランス総督令によって、これまでコメの輸出機構を独占していた華僑にかわりフランス人企業11社が、精米業社からなかば強制的にコメを入手し、 日本企業経由で日本本土へ輸出するというシステムとなった。それでも華僑の比重は大きかったが、フランス企業の”黒幕”が、三井物産だった。
表7 コメおよび籾輸入高 1940~45年 (単位 トン、下段は%)
1940 | 1941 | 1942 | 1943 | 1944 | 1945 | |
1 仏領インドシナ | 439300 25.9 |
562600 25.2 |
973100 37.0 |
662100 58.3 |
38400 4.9 |
|
2 台湾 | 385000 22.5 |
271800 12.2 |
261500 9.9 |
207200 18.3 |
149800 19.1 |
9000 6.0 |
3 朝鮮 | 60000 3.6 |
520000 23.3 |
840000 32.0 |
72000 6.3 |
559500 71.5 |
142000 93.9 |
4 ビルマ | 420000 24.8 |
437500 19.6 |
46600 1.8 |
18000 1.6 |
─ | |
5 シャム(タイ) | 284000 16.8 |
435400 19.5 |
508000 19.3 |
176500 15.5 |
35500 4.5 |
200 0.1 |
計 | 1694000 | 232700 | 2629200 | 1135800 | 783200 | 151200 |
(出所)農林省 船舶運営会
表8上段右の対日輸出総量は、インドシナより三井物産に売られたコメの年度ごとの統計だが、そのすべてが日本国内に運ばれたわけではない。丸山静雄氏の、 『ベトナム解放』によれば、日本とフランス政庁との協定で、インドシナから日本へ供給するコメの量は、1941年が70万トン、42年が105万トン、 43年不明で、44年が90万トンだったとしるされている。この協定トン数を、表8の対日輸出総量ならびに表7の日本国内へ輸出量とを参照しながらわかり やすくまとめてみると、次のようになる。
1941年度は、日本が70万トンのコメを要求したのに対して58万5000トンが三井物産の 手に渡り、そのうちの56万2600トンが、日本本土へ輸送された。42年度は105万トンの要求に対して、97万3908トンが確保できて、97万 3100トンが日本国土へきた。44年度は90万トンの要求に対して49万8525トンが確保できて、3万8400トンが日本国土へきたことになる。
とくに注目しなければならないのは1944(昭和19)年度だが、この年に三井物産が確保したコメは、もうほとんど日本国内への搬入はできず、その大半と もいうべき45万トンあまりが、現地に残されていたのだ。北中部のベトナム人民は空前絶後の飢餓に苦しんでいても、決してコメがなかったわけではないので ある。しかも、駐屯日本軍の軍用米は、先の協定分による引き渡し分には含まれなかったというから、日本軍ならびにその企業特別倉庫には、どれだけ多量のコ メおよびモミが山積みさあれていたか、はかり知れないものがある。
表8 コメの対日輸出量
年度 | 要求総額 | 実績 |
1940 | 不明 | 468000 |
41 | 700000 | 585000 |
42 | 1074000 | 973908 |
43 | 1125904 | 1023471 |
44 | 900000 | 498525 |
45 | 不明 | 44817 |
J.Gauthier,L'Indochine au travail dans la paix Francaise,Paris,1947 p.283
その同じ戦時下に、日本国民に主食として配給されてきたコメは、第1章にしるしたように、最初のうち基本は大人一人あたり1日2合3勺(330グラム)だった。1か月分でなら約10キロ、1年分だと約120キロの消費量となる。
それで決して十分ではないが、もし、規定量のコメが主食として「代用食」を含まず、しかも遅配欠配なしに配給さあれたならば、最低限の生活は維持できたの だと、少年期をふりかえって私は思う。なぜなら、それでも餓死者は出なかったからである。現在の日本人はコメだけに関していえば、1年に70キロの消費量 でしかなく、アメリカは6キロにしか過ぎない。
戦時下の例にならって、人 間の最低限のコメ消費量をもし仮に1ヶ月10キロとした場合、餓死したというベトナム北部の人たち「200万人」は、単純計算で2万トンのコメがあればあ 1ヶ月を生きのびることができたはずである。1944年の秋作米収穫のあと11月から、45年の春作米収穫時までの7ヶ月間は、14万トンのコメがありさ えすれば、生き抜くことが可能だった。
いや、不作の秋作米も多少は残されていたはずだから、厳密には5ヶ月間あまりが、大飢饉のピークではなかったか。最低ぎりぎりの計算だが、10万トンのコメがあって、それが平等に分けられていれば、どうにかこうにか餓死せずにすんだということになる。
もしも、44年の秋作米から、フランスが強制的に買い付けたとされる北部のモミ12万5000トンのうち、10万トンが一般に等分に放出されていたら、ま た、ジュートの転作強要がなかったとして、4万ヘクタールから9万トンのさつま芋かトウモロコシが収穫されていたら……などと、私はまたしても考えてしま う。もしもという仮定は、歴史には成り立たないのを、あえて知りながらも。
45年の3月9日夜に、フランス軍を一掃したあとの日本軍は、インド シナの植民地支配管理者となり、第38軍土橋勇逸司令官が「仏印総督職務執行」となって、総督府を引き継いだ。塚本毅公使は総督府総務長官に、蓑田不二夫 総領事はコ-チシナ(南部)総督に、西村熊雄総領事はトンキン(北部)州理事長官にそれぞれ昇格し、フランス時代の継続統治の主力となった。
その日本軍にしてみれば、インドシナの「敵性勢力」は放逐したものの、1000キロにまで迫った連合軍との決戦近しで、軍用米を少しでも多く貯めこまなけ ればならなかっただろうし、食用の牛や乗用の馬の餌としても、また機関車や発電所の石炭がわりにも必要だったろう。3月9日の「仏印処理」に際しての日本 政府は、「印度支那の住民に対しては有らゆる援助を辞せざるべく」と声明したが、それはまったくの口先ばかりで、巷に溢れる飢えた人びとを同じ人間として 遇する方針はなく、見ても見ぬふり知らぬふりの傍観者だったといわれても、返す言葉はない。救援活動はもちろんのこと、 餓死者がどこでどのくらい出たか という調査もせず、最小限の資料さえ把握しようとしなかった。
これは、南 京大虐殺のように、日本軍が血まみれの日本刀を振りかざしての虐殺行為とは異なる。しかし南京大虐殺の数倍にも及ぶ間接的な恐怖地獄であり、そもそもの元 をたどれば、タアイルオン村で家族9人を餓死させたファン・スンさんが憤怒の声でまくしたてたように、「こっちが来てくれといったわけじゃないのに、向こ うから勝手に押しかけてきた」侵略に非があるのは、誰の目にもあきらかである。
ベトナムの声放送は、現在にいたるも毎日、朝夕と当時流民となって離散してしまった家族たちの消息を求める”尋ね人”の時間がつづいている。
日本人にとっては、忘れてはならない歴史の暗い1ページであり、いつまでも心に刻まなければならないはずの重い負債である。
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