真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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自由民主党憲法改正草案第15、18、20条の問題点を考える NO2

2021年05月23日 | 国際・政治

 憲法改正の動きをめぐっては、現在、国民投票法改正案の論議が進められていますが、先だって、自由民主党の憲法改正推進本部の最高顧問に安倍晋三前首相が就任したとの報道がありました。私は、安倍前首相は、就任以来憲法改正の運動を主導し、今なお、憲法改正に強い思いをもっているのだと思いました。だから、”自民党総裁の任期中に憲法改正を成し遂げていきたい”とくり返していた安倍氏は、また首相に返り咲くのではないかと、私は思います。

 それは、”現行の憲法が占領下による「押し付け憲法」であり、民族的自信と独立の気魄を取り戻すためには、これを変えて、われわれ日本人の手で作った憲法を持たねばならい”というようなことを言っていた祖父、岸信介元総理(戦時、東条内閣の商工大臣)の意志を受け継いでいるのだろうと思います。

 そして、安倍前首相の周辺には、同じようにかつての戦争指導層の意志を受け継いでいる人たちが集結し、憲法改正の運動を主導しているように思います。

 例えば、安倍氏は首相当時、NHKの経営方針、事業計画、番組編集計画などを決める経営委員会メンバーに、哲学者の長谷川三千子埼玉大学名誉教授を任命しました。その長谷川教授は、安倍応援団を自認する学者ですが、すでに触れたように、「民主主義とは何なのか」(文藝春秋)に、民主主義を正面から否定し、日本国憲法の精神に反する、下記のようなことを書いています。

人間の不和と傲慢の心を煽りたて、人間の理性に目隠しをかけて、ただその欲望と憎しみを原動力とするシステムが民主主義なのである。まさに本来の意味での「人間の尊厳」を人間自らにそこねさせるのが民主主義のイデオロギーであると言える。

 また、人権については”インチキとごまかしの産物──人権”とか、”人権──この悪しき原理”などというテーマで文章を書いているのです。

 自由民主党の憲法改正推進本部の最高顧問に就任した安倍前首相も、少なからずそうした考え方を共有しているのではないかと思います。

 自由民主党の憲法改正草案を日本国憲法と比較し、その違いや問題点を明らかにした文章は、いろいろな著書や新聞紙上で目にしたことがあります。また、ネット上でも見ることが出来ますが、前記のようなことを踏まえて改正草案を読むと、単なる、法的問題を超えた、人間の存在に関わる考え方の問題が潜んでいるように思います。随所に見逃すことの出来ない日本国憲法の精神に根本的に反する考え方が潜んでいるように思うのです。だから、追加されたリ、削除されたりした条文や、あえて変更された言葉について、しっかり考える必要があると思います。それらを、前回に続いて、さらに幾つか拾い出していきたいと思います。

 

 現行日本国憲法第15の”3 公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。”が、

改正草案では、”3 公務員の選定を選挙により行う場合は、日本国籍を有する成年者による普通選挙の方法による。”と変えられています。成年者に、”日本国籍を有する”がつけ加えられているのです。

 

 私は、この外国人を排除するような”日本国籍を有する”の付け加えに関連して、下記のような事実を想起せざるを得ません。自民党政権に、外国人、特にアジアの人々の人権を軽視する戦前・戦中の体質が受け継がれ、敗戦直後からくり返されてきているように思うのです。

 

 例えば、「写真記録 樺太棄民 残された韓国・朝鮮人の証言」伊藤孝司著 高木健一解説(ほるぷ出版)には、敗戦後まもなく、樺太(現サハリン)に、”あなた方は日本人ではないので、引き揚げの対象ではない”と帰国の機会を与えられなかった4万をこえる朝鮮人が残されたことが明らかにされています。戦時中、皇国臣民として有無を言わせず動員し、樺太の炭砿や軍事施設・道路建設などで過酷な労働を強いた朝鮮の人たちです。大部分の日本人は引き揚げさせたのに、朝鮮人は引き揚げの対象とされず、引き揚げ船乗船を拒否されて、サハリンに置き去りにされたということです。だから、ソ連国籍を得なかった人たちは、敗戦後、無国籍となりました。韓国で夫の帰りを待ち続ける妻や家族、また、家族を樺太に呼び寄せたが、敗戦直前、石炭船の回航が困難になったため「樺太転換坑夫」として配転を命ぜられ、再び離散を強いられた家族が、それぞれ地で苦難の日々を送ることになったのです。

 

 また、先日亡くなった日本在住の韓国人元BC級戦犯、李鶴来さんを思い出します。李さんは、17歳のときに日本軍の軍属になり、タイの捕虜収容所に派遣されて、連合軍の捕虜たちを過酷な泰緬鉄道建設労働現場に送り出す任務を命ぜられたのです。だから敗戦後、捕虜虐待の罪に問われ、BC級戦犯として死刑判決を受け、しばらく後、減刑されたといいます。でも、サンフランシスコ平和条約が調印されると、朝鮮半島の出身者は、本人の意志と関係なく日本国籍を失いました。そして、日本政府によって遺族年金その他の援護対象から外されたのです。だから、ずっと韓国人の元BC級戦犯らとともに「救済」と「名誉回復」を求める活動を続けていましたが、先日、日本政府に受け入れられることなく亡くなりました。戦時中、皇国臣民として働かせたのに、敗戦後は、”あなた方は日本人ではないので、…”と援護の対象から外したままにしたのです。私は、理不尽だと思います。それは、韓国人原爆被害者などにも通じます。日本人として日本で働き被爆したのに、韓国在住の被爆者は戦後長い間、日本政府からも韓国政府からも支援を受けられず、苦しんできたのです。”あなた方は日本人ではないので、…”ということで。

 私は、自由民主党憲法改正草案第15条に、”日本国籍を有する”がつけ加えられたのは、そうした日本人中心主義的な政策に見られる考え方と同じなのではないかと思います。そしてそれは、自然権思想に基づく国際社会の考え方とは異なる、明治維新以来の皇国日本の考え方なのだと思うのです。 

 

 国際的には、在住外国人の参政権を認める国が増えていると言いますし、日本国憲法は、在住外国人の地方選挙権を禁じていないといわれています。それをあえて”日本国籍を有する成年者”に限定することは、在住外国人の選挙権を認める傾向にある国際社会の流れに逆行するものだと思います。時代と共に、国境を超えて生活する人々は増えているのであり、在住外国人の人権も、日本人同様に尊重されなければならないのではないかと、私は思います。

 

 また、今なお深刻な外国人差別のなくならない日本の現状を考えると、”日本国籍を有する”というつけ加えは、きわめて重大な問題だと思います。GHQ草案では、参政権は人民の権利とされ、永住者であるか否かを問わず、全ての外国人参政権を認める内容だったといわれているのです。

 

 下記のような問題も、かつての皇国日本と同じような日本人中心主義的な考え方によるのではないかと思います。

 先日、外国人の収容や送還のルールを見直す「出入国管理法改正案」について、政府・与党は、今国会での成立を断念したことが報道されました。入管施設でスリランカ人女性が、訴えを受け入れてもらえず、適切な治療が受けられないまま死亡したので、法案に対する反対の声が強くなったからだと思います。

 この出入国管理法改正案に関しては、国連人権委員会の特別報告者が「国際的な人権基準を満たしていない」と再検討を求める書簡を日本政府に送ったといいます。また、国連難民高等弁務官事務所も「重大な懸念」を表明しているといいます。だから、難民支援団体や野党が、出入国管理法改正案を「国際人権基準に基づいて改めるべきだ」と問題視したのは、当然のことだと思います。

 さらに、国連人権委員会の特別報告者が1990年代に、戦時中の日本軍「慰安婦」の尊厳を回復する取り組みを促す勧告をくり返したにもかかわらず応じないことも、外国人の人権軽視として、切り離して考えることができないと思います。

 また、日本の「外国人技能実習制度」が、海外では”最悪なインターンシップ”と批判されたり、”現代の奴隷制度”などと言われていることも、外国人の人権に関する深刻な問題のひとつだと思います。

 さらに、朝鮮学校高等学校授業料無償化の対象から除外したことや、極めて悪質なヘイトスピーチと指摘されている民族差別的表現や憎悪の表現の取締りが充分なされない現実を、見逃すことが出来ません。こうしたヘイトスピーチやヘイトクライムは、人種差別撤廃条第4(下記資料)で、国際的に禁じられていることですが、日本政府は、表現の自由を根拠に、その(a)(b)を留保し、憎悪や暴力を助長する言動を法律で厳しく禁止しようとしません。人種差別撤廃委員会は、この留保の撤回を求め続けているといいますが、それに応じない日本政府は、外国人の人権を軽視していると言わざるを得ないように思います。

 また、人種差別撤廃委員会が求め続けている「国内人権機関の設置」も、いまだに実現していません。日本政府は、外国人の人権も、日本人同様に尊重すべだと思いますが、こうした人権軽視の現状を踏まえると、憲法改正を意図する自由民主党政権の姿勢が、”日本国籍を有する”に象徴的にあらわれていると思うのです。

 

 次に、私は第18条が、気になります。

 日本国憲法の第18条には、

(奴隷的拘束及び苦役からの自由)

何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

とありますが、改正草案第18条は、

身体の拘束及び苦役からの自由)

1 何人も、その意に反すると否とにかかわらず、社会的又は経済的関係において身体を拘束されない。

2 何人も、犯罪による処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。

 となっています。

 なぜ、”いかなる”を”社会的又は経済的関係”に限定するのでしょうか。政治的関係なら許されるということでしょうか。法的関係なら許されるということでしょうか。家庭内なら許されるということでしょうか。

 また、なぜ、”奴隷的拘束”を”身体の拘束”に限定するのでしょうか。

 私は、安倍政権が、強引に「特定秘密の保護に関する法律」を成立させたのみならず、従来の憲法解釈を変更し、「集団的自衛権行使容認」を閣議決定をしたこと考えると、将来、アメリカと共に戦闘に参加し、苦しい戦いを強いられて自衛隊員の増員が必要となったり志願者が減った場合に、徴兵制を導入する考えがあるのではないかと考えてしまいます。日本国憲法第18条があれば、徴兵制の導入は難しいでしょうが、改正草案第18条の条文なら、可能になるのではないかと思うのです。

 

 次に、私は第20条が気になります。

 日本国憲法の第20条には

信教の自由、国の宗教活動の禁止)

1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 とありますが、改正草案第20条は、

信教の自由)

1 信教の自由は、保障する。国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない。

2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。

 と変えられています。問題は、”ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。”という付け加えです。こうした内容をはっきり限定しない例外規定を設けると、信教の自由や国の宗教活動の禁止が、骨抜きにされる恐れがあるばかりでなく、議論の続く、閣僚の靖国神社公式参拝も、憲法に反しないことになってしまい、歯止めがなくなってしまうと思います。

 明治維新の王政復古によって生まれた皇国日本は、天照大神を皇祖神とする天皇が統治する国でした。だから、社会的儀礼や習俗的行為の多くは、神道に関わるものになっていたと思います。それを憲法で例外として認めれば、「政教分離」はあまり意味がなくなり、神道は再び特別な宗教として、大きな力をもつものになるのではないかと思います。

 関連して見逃すことができないのは、「神道政治連盟」が、”神道の精神を以て、日本国国政の基礎を確立せんことを期す。”とか、”神意を奉じて経済繁栄、社会公共福祉の発展をはかり、安国の建設を期す。”とか、”日本国固有の文化伝統を護持し、海外文化との交流を盛んにし、雄渾なる日本文化の創造発展につとめ、もつて健全なる国民教育の確立を期す。”という戦前と変わらないような「綱領」をもって、現に日々活動していることです。また、”2012年(平成24年)12月に発足した第2次安倍内閣以降、入閣した議員のほとんどが「神道政治連盟国会議員懇談会」もしくは「日本会議国会議員懇談会」のどちらかに所属していることが判明している。”とウィキペディア(Wikipedia)で明らかにされている事実も見逃すことができません。だから、憲法で改正草案のような例外規定を認めると、次第に例外規定でなくなっていくのは間違いないと思います。そして、神道は再びいろいろな場面で、前面にでてくるのではないかと思います。

 

 

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