アメリカは1776年の建国以来、239年のうち222年間を戦争に費やしてきたということです。それはなんと93%だといいます。
そして、"Freedom isn't free (自由はただではない)"という言葉が、アメリカ人に親しまれているというのです。”アメリカを守るためには犠牲はやむを得ない”という意味だそうです(THE BLOG・太平洋戦争・安保法案・平和、佐藤由美子)。
私は、そうした考え方に基づくアメリカの戦争の歴史をふまえて、ウクライナ戦争の経緯や台湾有事の可能性を考える必要があるだろうと思い、いろいろな学者や研究者の著作にあたっています。
アメリカは、いろいろな口実を語って、戦争を続けていますが、実態はきわめて野蛮だと思うからです。
下記は、「イラク戦争を検証するための20の論点」イラク戦争の検証をもとめるネットワーク編(合同出版)からの抜粋です。
アメリカは、1991年の湾岸戦争後も、国連の「UNSCOM」(国際連合大量破壊兵器廃棄特別委員会)などを通じて、イラクに関わり続けていましたが、国際連合安全保障理事会決議を根拠として、イラク北部に飛行禁止空域を設定したり、1992年にはフランスやイギリスとともに、一方的にイラク南部にも飛行禁止空域を設定したりして、イラクの主権を侵害し、反発をまねいていました。
そして、見逃せないのは、下記「08 イラク内戦はなぜ起きたのか?」にあるように、アメリカが、過激なシーア派グループと手を結ぶ占領政策を進めたことです。それが、スンニ派との深刻な宗派対立をもたらし、イラクを混乱に陥れることになったのです。アメリカの他国支配には、独裁政権と手を結ぶ方法のほかに、宗派や部族や民族の対立を利用する方法もあるのだと思いました。
また、イラク戦争は、”大量破壊兵器の廃棄”と同時に、”イラクの一般市民を、サダム・フセインの独裁による圧政から解放し、民主国家に変える”ことを目的に始められたと思います。
でも、大量破壊兵器がなかっただけでなく、イラク戦争が、”これでは、「民主化した」というより国家を破綻させたといえるでしょう”というような結果に終ったことを見のがしてはならないと思います。
もともと、湾岸戦争による破壊やその後の経済制裁などで、当時のイラクは、大量破壊兵器を製造し、所有する能力も、その必然性もなかったと言われています。
また、戦争後、イラクは宗派対立や汚職や暗殺が絶えない国となり、国民の多くが極度の貧困に苦しむことになったといいます。
だから、ブッシュ大統領が語った、”大量破壊兵器の廃棄”や”イラクの民主化”は口実であり、イラク戦争の真の目的は、アメリカの覇権と利益の維持・拡大だったのだろうと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
第1章 イラク戦争を検証するための20の論点
08 イラク内戦はなぜ起きたのか?
イラクでは、シーア派とスンニ派、2つのイスラム教の宗派が混在していますが、戦争前、少なくとも一般市民レベルでは、人びとは宗派の違いを気にせずに暮らしていました。シーア派とスンニ派の信徒のあいだでの結婚も、よくあったのです。しかし、米軍の占領政策がイラクに混乱を引き起こしました。
占領開始後、アメリカは、スンニ派を「フセイン支持層」として新たな政権から排除するいっぽう、フセイン政権と敵対してイランに亡命していた過激なシーア派グループ「SCIRI(イラク・イスラム革命最高評議会)」をイラクへと招き入れ、その配下の民兵組織「バルド団」を、イラク軍や警察に組み込みました。米軍は、これらのシーア派主体のイラク軍とともに、「スンニ派の住民の多い地域に攻め込んだのです。とくに西部のファルージャへの総攻撃の被害はすさまじく、スンニ派の政党はこれに抗議して2005年1月の国民議会選挙をボイコットしますが、その結果、同年4月末に発足した暫定政権ではシーア派政党が最大派閥となり、スンニ派の過激派がはびこる要因となり、シーア派関連施設や、行事での銃撃や爆破事件が相次ぎました。
暫定政権で、SCIRI幹部のバヤーン・ジャブル氏が警察や治安部隊などを管轄する内務省の大臣に就任してから、事態はますます悪化します。警察や治安部隊による「スンニ派狩り」が始まり、人びとはスンニ派というだけで拘束され、恐ろしい拷問の果てに殺されました。「殴る蹴るはあたりまえ、ケーブルで鞭打ちされたり、熱した金属を体に押し付けられたり、電気ショックにかけられたり。電気ドリルで体に穴を開け、硫酸を流し込むということも、よくおこなわれた」(現地人権団体「イラク人権モニタリングネット」)。
06年2月、シーア派にとって重要なイスラム寺院・アスカリ聖廟が何者かに爆破され、以後、イラクは最悪時には月4000人近くが犠牲になるという内戦状態に陥りました。このころから、シーア派ではあるけれど、スンニ派と共闘し「反米」を掲げていたサドル派の民兵組織「マハディ軍」も、スンニ派への攻撃に加わり、状況はさらに混乱していきます。
米軍は、表向きは民兵組織を摘発しましたが、現地ジャーナリストらは「米軍は市民を守らない。民兵を拘束しても、つぎの日には解放している」と批判。イラク治安機関に拘束された経験のある匿名の男性も、「私がイラク人の取調官から拷問をうけていると、アメリカ兵たちは『もっとやれ』とはやし立て、写真を撮ったりしていた」と証言しました。10年10月に内部告発サイト「ウィキリークス」によって流出した米機密文書にも、米政府がイラク治安組織による拷問・虐殺の実態を知りながら放置していたとの記述があるなど、やはり米国の責任は重いといえます。
日本がイラク内戦に加担した疑いもあります。日本の外務省は、「警察車両」「防弾車輛」の供与などで、イラク内務省へ7800万ドルもの支援をしていました。当時、外務省がどのような認識でイラク内務省を支援していたのか、日本の税金が現地での人権侵害に使われていなかったか、調査や情報開示が必要でしょう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
04 イラクは民主化されたか
2005年1月30日、イラク開戦後初の国民議会選挙がおこなわれました。テレビには人差し指に投票した証の特殊インクをつけた笑顔の女性たちが映し出され、投票率はおよそ60%と報じられました。
「民主化のステップ」という言葉がくりかえされ、イラク戦争に疑問をもっていた人びとのあいだにも、一定の安堵感が広がったようでした。しかし、西部アンバル州では、米軍の軍事攻勢が勢いを増し、選挙どころではありませんでした。
04年3月ファルージャ市内で、”アメリカ民間人”(アメリカ民間警備会社の社員)4名が殺害され、遺体が橋に吊るされるというショッキングなニュースが世界を震撼させました。ファルージャは一気に”テロの巣窟”と位置づけられ、アメリカ国内ではファルージャへの報復を支持する世論が盛り上がりました。のちに、軍人だけでなく民間警備会社のイラク人殺害や拷問をおこなう「戦争の民営化」の実態が取り上げられていきますが、このときは”民間人を殺す残虐なファルージャ住民”というイメージが先行していました。
そして、4月5日に米軍の大規模なファルージャ総攻撃が開始され、700名を超える民間人が犠牲となりました。11月、2度目のファルージャ総攻撃がしかけられました。このおtき、米軍は町を完全封鎖し、メディアや人道支援・医療関係者までもが町に入ることを許されず、救急車や緊急支援物資搬送中の船もアパッチヘリの攻撃をうけました。死者6000名、行方不明者3000名を出したこの総攻撃は、”大量虐殺”といわれました。
国民議会選挙は、この総攻撃の2ヶ月後でした。こうした地域では、有権者登録や投票所の設置などがほとんど整っておらず、選挙の当日も米軍の攻撃にさらされました。では、投票に行けたのはどんなひとたちだったのでしょう。
それは、米軍が軍事展開していなかったバグダッド以南の人びとでした。南部には、多くのイスラム教シーア派の住民がいました。いっぽう、米軍の激しい攻撃によって投票を阻まれた西部は、スンニ派が多い地域でした。選挙結果は、予想通りシーア派政党が圧勝します。それでも、イラクは異なる宗派間でも結婚するのがふつうの世俗国家です。シーア派が圧勝しても、イラクのために働く政治家が当選すれば、とくに問題はないはずでした。しかし、発足した暫定政権を握ったのは、イランの影響を受けている人たちだったのです。これが、深刻な”宗派対立”を深めていくことになります。
05年10月には、新憲法草案国民投票がおこなわれました。草案は、イスラム法にもとづいてつくられ、世俗主義に慣れたイラク人には受け入れがたいものでした。とくに、女性の権利や地位は後退したといわざるをえませんでした。
西部アンバル州では、「投票に行こうと自宅を出たら米軍に狙撃された、投票所まで行ったが名簿に名前がなかったので投票できなかった」などの報告もあります。投票日の3日前に足を狙撃され、道路を這っていた市民が米軍戦車に轢き潰されるのを目撃した人もいます。
10年3月に行われた国民議会選挙には、多くのイラク国民が期待していました。結果は、宗派色の強い政権からの脱却を計りたい世俗派連合が、わずかな差ではありますが最大勢力となりました。ところが、その後9ヶ月以上も政治空白が続きました。
選挙のたびに政治家や候補者が暗殺され、政府はかつてないほど汚職にまみれ、国民は極度の貧困に陥っています。これでは、”民主化した”というより、”国家を破綻させた”といえるでしょう。