第二次世界大戦末期におけるソ連軍の急速な南下に焦ったアメリカは、朝鮮半島を38度線で分断し、北をソ連が、南をアメリカが戦後処理するという名目で軍を進出させました。そして、すでに建国されていた朝鮮民族悲願の「朝鮮人民共和国」を解体し、軍政を敷いて、南朝鮮に李承晩・反共政権を樹立させました。
アメリカは、南朝鮮を、対ソ連の戦略的前線として位置付け、李承晩政権の下、朝鮮人民にとって怨嗟の的であった日本人官吏や旧朝鮮総督府関係者、既存組織、既存社会体制の継続活用を進め、「朝鮮人民共和国」関係者や共産主義者的な組織、団体、指導者の排除に乗り出したのです。そして、李承晩政権を利用して、アメリカの軍政に強く抵抗する人たちを大勢殺しました。その数10万ともいわれるようですが、朝鮮戦争前のことです。
また、アメリカは、南北朝鮮の戦後処理を名目に、軍を進出させたにもかかわらず、ソ連の同時撤兵提案を拒否しています。それは、アメリカが永続的に南朝鮮を影響下に置くことを意図していたからだと思います。
ソ連がワルシャワ条約機構を解散した時も、アメリカは、ヨーロッパ諸国を影響下に置き続けるために、北大西洋条約機構(NATO)を解散しませんでした。同じだろうと思います。
戦後、ヨーロッパ諸国を中心とする権力的な植民地支配体制は、急速に姿を消しましたが、それは、搾取・収奪体制が姿を消したということではなく、新しいかたちに姿を変えたということだと思います。搾取・収奪はより巧妙になり、見えにくくなっていると言ってもよいと思います。米軍の南朝鮮駐留も、そうした側面があることを見逃してはならないと思います。
その搾取・収奪体制は、富裕層と一般労働者の格差の拡大や、国家間の不平等の拡大にあらわれていると思います。
先日、朝日新聞のオピニオン&フォーラムの欄に、政治哲学者・マイケル・サンデル教授に対するインタビュー記事が「新自由主義の欠陥 尊敬や承認の欠如 暗黙の侮蔑へ憤り」と題して掲載されていました。そこに下記のような一節がありました。
”── トランプ氏は総得票数でも勝ちました。「トランプ現象」は一時的・局所的な逸脱ではありませんでした。
「それどころか、トランプは米国政治を根本から再編するのに成功しました。(1930年代の)ニューディール政策にさかのぼる民主党の伝統は、労働者の代表であり、権力者に対抗する人民の代表であり、経済権力の集中に対する牽制の代表であることでした。これが2016年以降は逆転しました。共和党は富裕層を支える政策を手掛けてきたにもかかわらず、大学を教育を受けていない人々や労働者がトランプに投票しました」
「中道左派が労働者の支持を失い、権威主義的なポピュリストがそうした層へのアピールに成功しているのは、英独仏など多くの民主主義国家で見られる現象です。金融主導で市場寄りのグローバル化を、中道左派が受け入れたからです」”
この主張は、”民主党は変ってしまった”と言って、大統領の選挙戦から撤退し、民主党と対立する共和党の大統領候補トランプ支持を表明したケネディ候補の演説内容が、でたらめではないことを示していると思います。極論すれば、民主党バイデン政権が、トランプ氏の指摘する、いわゆる「ディープステート(DS)」と一体化し、巧みに搾取・収奪をする側についてしまったというこだと思います。
”ケネディ家は、民主党が年来奉じてきた伝説的な偶像だ”と言われています。でも、その跡継ぎであるケネディ氏は、”私は、この大統領選において、勝利への道は現実としてもうないと信じるに至った。民主党からの絶え間のない妨害がその主要な理由なのだ”と語って、選挙戦から撤退し、トランプ支持に回ったことは、民主主義を掲げる政党にとって、重大な問題だと思います。
でも、主要メディアは、そうしたケネディ氏の主張をきちんと取り上げることなく、くり返し、彼を「陰謀論者」として排除する報道を続けたように思います。そして、大統領選挙にはほとんど影響がないかのように装いました。
さらに言えば、トランプ氏が、「MAHA(Make America Healthy Again)」を掲げるケネディ氏を厚生長官に指名した際の声明で、
”アメリカはあまりに長い間、公衆衛生について、ごまかしや誤った情報、偽の情報を流してきた食品業界と製薬会社に苦しめられてきた。ケネディ氏は慢性疾患がはびこる状況を終わらせて、アメリカを再び偉大で健康な国にするだろう”
と語ったことも見逃すことができません。
新型コロナに対応する「mRNAワクチン」については、世界中にその危険性を指摘する声があります。日本でも、「mRNAワクチン」接種後に亡くなった被害者が声をあげ、「副反応などのマイナス情報を広報せずに被害を広げた」として、国に賠償を求める訴えを起こしましたが、ほとんど報道されることはありませんでした。
”これだけ人が死んでもなおこのワクチンを勧めるのはなぜか”と厚生省職員に抗議する福島雅典・京都大学名誉教授の主張も、主要メディアで目にすることはありませんでした。人命に関わる訴えなのに、取り上げられない理由は何なのか、と思います。
また、デンマークが、接種後の血栓症を懸念し、英オックスフォード大学・アストラゼネカ製の新型コロナウイルスワクチンの使用を完全に中止すると発表しましたが、それも報道されることはなかったように思います。
それが、”医療制度の乱用を終わらせ過剰な企業権力を抑制する”というケネディ氏の主張の正当性を示しているように思います。
だから、ケネディ氏の主張を、「陰謀論」で排除しようとする姿勢にこそ、問題があると思います。そして、それが、アメリカの隠然たる力の支配の結果に思われるのです。
下記は、「朝鮮戦争 38度線の誕生と米ソ冷戦」孫栄健(総和社)から、「第3章 冷戦激化と分断国家への道」の「(八)ソ連の同時撤兵提案と国連審議帰結」を抜萃しましたが、アメリカの反共戦略がどういうものであるかを知ることができると思います。
尹大統領の「非常戒厳」宣布後、すぐに抗議する市民が国会前に集まったのは、「光州事件」で勝ち取った民主主義を、市民が共有していたからだとする論評がありましたが、間違ってはいないと思います。また、韓国は日本のような官僚支配の社会とは異なり、「王の間違った判断を正すことができるのは自分たちしかいない」と考える士大夫=「市民」のように、市民が現実的に権力をもつ国であるという論評も理解できるような気がします。でも、一番大事なのは、朝鮮民族の自主独立を妨げたアメリカ軍政庁の支配に対する怒りではないかと思います。
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第3章 冷戦激化と分断国家への道
第二節 国連を舞台の東西衝突
(八)ソ連の同時撤兵提案と国連審議帰結
一方、1947年9月26日、すなわち、国連総会において朝鮮問題付託採決がなされた9月23日の3日後、ソウルにおける共同委員会の席上でソ連代表シュチコフ中将は、突如、米ソ両軍が3カ月以内に同時に朝鮮から撤退しようとの提案を行った。
この衝撃的な提案は、直ちに内外に大きな波紋を巻き起こした。
同代表は、まず①モスクワ協定が連合国の朝鮮に対する好意ある政策を表明した基礎的文書であること、②北朝鮮においては民主的改革が進捗していること、③これに反して南朝鮮にあっては、米軍当局が人民委員会の合法性を認めておらず何ら民主的改革が行われていないこと、④ソ連は朝鮮の併合を希望しているとの噂は事実でないこと、および、⑤朝鮮に10年間の信託統治を主張したのはソ連ではなくアメリカであったこと、等をあげた。そののち、ソ連側の意見として、連合国の援助並びに参加なしに朝鮮人民に自主的に独立政府を樹立する機会を賦与するため、1948年初頭において、米ソ両軍が同時撤兵することを提案したのである。
だが、現地米軍当局は、このソ連提案は、アメリカが国連に提訴した朝鮮問題の国連審議の回避を意図したものか、あるいは、北朝鮮労働党が全朝鮮に共産主義政府を樹立できる国力的準備を完了するに至った自信を物語るものだと見なしたようである。
しかし、これは表面的には朝鮮からの外国軍隊撤退に直ちにつながる提案でもあり、南北朝鮮の各政党団体は直ちに反応を示した。まず北朝鮮においては労働党をはじめ各政党団体はこの同時撤兵提案に、全面的支持を表明した。また、アメリカがこれを拒絶べき理由がないとの談話も発表された。
これ反して、南朝鮮においては、軍政庁、警察、テロ青年団などの苛酷な弾圧下で地下に潜行している左翼系を除き、多数の右翼系政党団体がソ連の出した米ソ同時撤兵案に反対の態度をとった。すなわち、それまでの右翼の主張の一つでもあった全外国軍隊撤退のスローガンを撤去し、アメリカ軍の駐留継続を主張するようになった。もしアメリカ軍が撤退すれば、これら右翼勢力は直ちにその後ろだてを喪失し、また、アメリカ軍政庁政策と軍政庁警察の左翼弾圧の結果封殺されていた1945年以来の南朝鮮の左派の社会改革運動が再開され、その場合、朝鮮は第二のソ連占領下の満州のようになり、赤化の累を招くというのが理由であったようだ。
さらに10月9日、モロトフ外相はマーシャル国務長官に対して、この米ソ同時撤兵案を繰り返して、即答を求めてきた。だが、マーシャル長官を首席とする国連アメリカ代表部は10月12日の声明で、アメリカは近く朝鮮に関する提案を国連総会に提出してその態度を明らかにすると述べた。そして、ロベット国務次官は10月18日、モロトフ外相に書簡を送り、撤兵問題もまた朝鮮問題全体との関連において国連総会の討議に取り上げられるべきだとして、ソ連側の米ソ両軍同時朝鮮撤兵案を正式に拒否した。他方、同18日ソウルでの米ソ共同委員会において、アメリカ代表ブラウン少将は、国連総会での朝鮮問題の審議中はソウルでの共同委員会を休会することを提案した。
これに対して、ソ連代表・シュチコフ中将は翌々日の10月20日の委員会本会議おいて、ソ連代表部は本国政府の命令によりソウルを引き揚げる旨を声明した。そして10月22日、平壌に帰還して行った。
こうして、1945年12月のモスクワ協定に基づき、2年にもわたる長い日時を費やしたソウルでの米ソ共同委員会による朝鮮問題処理討議は、結局、わずかの進捗も見ることはなかった。
そして、東西対立の軋轢を南北朝鮮対立に転化させて残したまま、完全な失敗に帰したのである。マーシャル・プランあるいはコミンフォルム設立に象徴される米ソ冷戦の全面化の1947年の情勢下で、米ソ両軍当局間による交渉が、たとえどのような問題にせよ結実する可能性はすでに無かったのである。その結果、この朝鮮問題を政治的草刈場とする米ソの東西対立は、そのまま国連総会の場に移されることになった。だが、この国連自体がその加盟国の構成など自体が、アメリカ外交の主導する組織機構であったというのが当時の実態でもあった。すなわち、ソ連からみれば、アメリカは米ソの交渉を拒否してアメリカの縄張りである国連において、自己に有利な情況で朝鮮問題を処分しようとしたという解釈となり、朝鮮問題の国連移管も、その本質的解決の手段としては疑問になると当時みられていたようである。