「秘史 朝鮮戦争」I・F・ストーン著:内山敏訳(新評論社)には、原著者はしがきに「1952年3月15日」とある。休戦交渉が続いていた当時の出版のようである。この時すでに著者I・F・ストーンが鋭く朝鮮戦争の真実を暴いていたことに驚く。「朝鮮戦争は『挑発されざる侵略の明瞭な一事例である』どころか、極東における戦争に利益をもつ人たちによる故意の腹黒い計略の結果」であるというのである。出版業者は「危なくて手がでない」と、ストーンの原稿の出版を拒否したため、ストーンは「出版業者をみつける希望を放棄し、原稿を棚上げしていた」と「原著刊行者の言葉」にある。読み進めると「危ない」一冊であることがよく分かる。
I・F・ストーンは、アメリカ政府、国防省や国務省の発表(声明)、アメリカ議会の質疑、国連軍司令部の発表や命令、従軍記者や現地特派員からの報告、関係者の証言、報道機関の報道内容などを詳細に検討し、その根拠や背景の確認を進めながら、矛盾はどこまでも追求するという姿勢で朝鮮戦争の真実に迫っている。それは、アメリカ側の情報に基づく朝鮮戦争論といえるが、結果的にアメリカ側関係者を告発する内容となている。単なる憶測や想像ではなく、頷かざるを得ない事実をもって書かれているために、「危ない」のであろう。
この書は、「朝鮮戦争は、北朝鮮側の南進計画を知りながらワナにはめた、マッカーサーの陰謀であった」という説が、単なる流言蜚語でないことを公にしたといえるが、マッカーサー(アメリカ)の戦略に利用された朝鮮戦争で、多くの人が命を落としたことや、南北対立を今に残すことになった事実を忘れることはできない。
戦争のくだらなさや野蛮さを知るための学習に生かされるべき一冊であると思う。結論に当たる部分の一部を抜粋する。
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第1部 開戦の真相
第7章 お膳立はできた
それはちょうど上手な職人が、腕によりをかけて、お膳立をこしらえたようなものだった。戦争の直前には、朝鮮が米国の防衛環外にあるという米国政府の決定に対し、マッカーサーとマッカーサー派のひとびとが異議をとなえている様子はぜんぜんなかった。どんな点からみても、北鮮の南鮮に対する攻撃は不可避とされており、それはなげかわしいけれども、米国としては重大な関心をもってはいなかったかのようだった。ジョン・フォスター・ダレスの朝鮮訪問、それにつづく東京でのマッカーサー、ダレス、ジョンソン、ブラッドレーの四者会談は、南鮮攻撃について共産主義諸国の警告の言葉を発するようなこともなく、またそれまで過去数週間にわたる38度線以北の継続的な兵力集結を報じた諜報網の報告に、米本国の世論の注意を喚起する声明をだすようなこともしなかった。5月11日以降は、まるでしめしあわせたかのように、韓国政府もこのような危険と自己の装備の不足とについて、沈黙をまもった。韓国軍は防衛態勢の布陣をとっていた。国連朝鮮委員会は現地視察員を派遣したが、彼らはのちに、右のように攻撃的企図のないことについて証言した。戦争開始の前日に、これらの視察員が提出した報告によれば、韓国軍の司令官たちにあたえられていた指令は「攻撃されたばあい、あらかじめ準備された陣地に退却せよ」との範囲をでなかった。北鮮からみれば南鮮は、とくに5月30日の選挙で李承晩が敗北して以後は、さわれば落ちる熟柿のように見えたかもしれない。
6月25日に北鮮軍が挑発されないのに攻撃したのか、あるいはまた南鮮から攻撃があってから攻撃に転じたのか、そのいずれにしても、この熟柿をとろうとするこころみは、反共のがわにおける多くの政治的問題を解決した。この結果、2日をいでずして、蒋介石は中国大陸からの侵略に対する米国の保護を保障された。また対日全面講和の問題は棚あげとなり、占領軍の撤退および在日米軍基地の放棄 は延期となった。ひさしく国務省から厄介者あつかいされていた李承晩は、急に威厳をとりもどし、、6月19日の新議会招集によって、彼の韓国内の支配力が終わりを告げるかとおもわれたときに、米国と国連のあたらしい支持をえたのであった。
逆にまた、この攻撃は共産主義のがわにとっていくつかのあたらしい問題をつくりだした。中共は公約どおり台湾の占領に乗り出すには、米国との正式な紛争を覚悟しなければならなくなった。ウラジオストックに非常にちかい日本の爆撃機基地は、米国が無期限に保有することになった。はじめての自由選挙の圧力によって、南鮮の政権が崩壊するかもしれぬという希望、北鮮の統一要求、「解放」をめ ざしての38度線からの容易な南進の可能性──、これらすべてはことごとく消え失せてしまった。
さらにいっそうひろい国際的視野からいっても、反響はモスクワにとって不利であった。一方では、平和を「全面外交」の名でもみけそうとする敵意あるワシントンと、他方では、あまり不安なようすをみせたがらない猜疑心のつよいモスクワのあいだを、なんとかとりもとうとするリー国連事務総長のひとりぼっちの巡礼に、とつぜん終止符がうたれた。米ソ両国直接の平和交渉をもとめるリーの要請は、朝鮮戦争のかなしいしらせをのせた同じ日の新聞紙中に埋没してしまった。モスクワがいちばんおそれていた、日独両国の再軍備をねらう運動が、ワシントンで急に力をえてきた。さいごに、米国の巨大な工業力の戦争のための動員が開始され、従来よりもいっそうきびしい「封じ込め政策」が大西洋から太平洋にも延長された。それが蒋介石とマッカーサーがずっとまえから要求していたことであった。
・・・(以下略)
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第12章 国連の総崩れ
・・・
最後の仕上げは「国際連合軍」部隊をマッカーサー元帥の指揮下におき、しかもマッカーサー元帥を国際連合の指揮下におかないようにすることであった。これは7月7日、英仏の共同決議案において実現した。これは普通、国連軍司令部を設置した決議とみられている。しかし、決してそのようなものではなかった。それは国際連合旗を使用する権限をあたえられていたが、決して国際連合の命令には拘束されぬ「統一司令部」を設置したのだ。このことは、決議の正文について見れば明らかであろう。決議は、朝鮮にかんする安全保障理事会の諸決議にしたがって、「軍隊その他の援助を提供するすべての加盟国は」「かかる軍隊その他の援助を米国の指揮下にある統一司令部に提供」すべしと勧告した。決議は「このような軍隊の司令官を任命する」ことを米国に要請し、これらの軍隊に国際連合旗を使用する権限をあたえた。これらの軍隊にたいし国際連合がいくらかでも監督権を保持していることを示した唯一の条項は、国際連合が「米国にたいし統一司令部のもとでとられた行動の経過につき、適宜に報告を安全保障理事会に提出するように」要請したことを漠然とのべた最終条項だけであった。
「統一司令部」は、定期的にあるいはその他の形で、国際連合と協議したり、国際連合に報告したりする義務はなかった。決議は「安全保障理事会内に、マッカーサー元帥にたいする援助申し入れを受理・伝達する委員会を設けることについて言及するのを削除」さえした。サー・グラドウィン・ジェブ英国連代表は、「少なくとも現在のところ、このような機関の必要は実際上ない」と信ずる旨を述べた。国際連合はマッカーサー元帥に白紙委任状を手渡したのだ。
その後の事態はまもなく、「国際連合」の軍事行動が、突発事件計画的事件によって、「国際連合」と中国あるいはソ連またはその双方との間に戦争をひきおこしかねない情勢のもとで、マッカーサー元帥に白紙委任状を手渡したことが、いかに危険だったかを証明することになった。英仏両国は、じきにどちらも後悔することになる行動を、どうして決定することにしたのだろうか?……(以下略)
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第5部 枯尾花戦争
第32章 再び京城を放棄
・・・
マッカーサー司令部からでる「情報」の性質については、英国新聞から一せいに非難の声があがった。『デーリー・ミラー』は「朝鮮からのおとぎばなし」と書いた。
『サンデー・ビクトリアル』は大きな赤活字を使って、「これは個人の戦争か?」と疑問を提出した。ビーヴァブルック卿の『サンデー・エクスプレス』は、いったいマッカーサーの諜報部長であるチャールズ・ウィロービー中将は、12月26日のとんでもないコミュニケで発表したように、どうして敵軍部隊を何十何人と最後の1人まで数えることができたのか知りたいものだ、と書いた。1月9日、東京の司令部はこれに対する回答として、突然第二次大戦中にもみられなかったほどの、厳重な検閲をしいた。ロンドンの『デリー・エクスプレス』の東京特派員のセルカーク・パントンは、この厳重な検閲の理由を推論することさえも禁止されていると報じた。 「しかし」とかれは、真相を伝えるため最後の必死の努力をするかのようにつけ加えた「これだけは確実にいえる……前線の戦闘に中共の『大軍』が加わっている徴候は全然ない」。
・・・(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。
I・F・ストーンは、アメリカ政府、国防省や国務省の発表(声明)、アメリカ議会の質疑、国連軍司令部の発表や命令、従軍記者や現地特派員からの報告、関係者の証言、報道機関の報道内容などを詳細に検討し、その根拠や背景の確認を進めながら、矛盾はどこまでも追求するという姿勢で朝鮮戦争の真実に迫っている。それは、アメリカ側の情報に基づく朝鮮戦争論といえるが、結果的にアメリカ側関係者を告発する内容となている。単なる憶測や想像ではなく、頷かざるを得ない事実をもって書かれているために、「危ない」のであろう。
この書は、「朝鮮戦争は、北朝鮮側の南進計画を知りながらワナにはめた、マッカーサーの陰謀であった」という説が、単なる流言蜚語でないことを公にしたといえるが、マッカーサー(アメリカ)の戦略に利用された朝鮮戦争で、多くの人が命を落としたことや、南北対立を今に残すことになった事実を忘れることはできない。
戦争のくだらなさや野蛮さを知るための学習に生かされるべき一冊であると思う。結論に当たる部分の一部を抜粋する。
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第1部 開戦の真相
第7章 お膳立はできた
それはちょうど上手な職人が、腕によりをかけて、お膳立をこしらえたようなものだった。戦争の直前には、朝鮮が米国の防衛環外にあるという米国政府の決定に対し、マッカーサーとマッカーサー派のひとびとが異議をとなえている様子はぜんぜんなかった。どんな点からみても、北鮮の南鮮に対する攻撃は不可避とされており、それはなげかわしいけれども、米国としては重大な関心をもってはいなかったかのようだった。ジョン・フォスター・ダレスの朝鮮訪問、それにつづく東京でのマッカーサー、ダレス、ジョンソン、ブラッドレーの四者会談は、南鮮攻撃について共産主義諸国の警告の言葉を発するようなこともなく、またそれまで過去数週間にわたる38度線以北の継続的な兵力集結を報じた諜報網の報告に、米本国の世論の注意を喚起する声明をだすようなこともしなかった。5月11日以降は、まるでしめしあわせたかのように、韓国政府もこのような危険と自己の装備の不足とについて、沈黙をまもった。韓国軍は防衛態勢の布陣をとっていた。国連朝鮮委員会は現地視察員を派遣したが、彼らはのちに、右のように攻撃的企図のないことについて証言した。戦争開始の前日に、これらの視察員が提出した報告によれば、韓国軍の司令官たちにあたえられていた指令は「攻撃されたばあい、あらかじめ準備された陣地に退却せよ」との範囲をでなかった。北鮮からみれば南鮮は、とくに5月30日の選挙で李承晩が敗北して以後は、さわれば落ちる熟柿のように見えたかもしれない。
6月25日に北鮮軍が挑発されないのに攻撃したのか、あるいはまた南鮮から攻撃があってから攻撃に転じたのか、そのいずれにしても、この熟柿をとろうとするこころみは、反共のがわにおける多くの政治的問題を解決した。この結果、2日をいでずして、蒋介石は中国大陸からの侵略に対する米国の保護を保障された。また対日全面講和の問題は棚あげとなり、占領軍の撤退および在日米軍基地の放棄 は延期となった。ひさしく国務省から厄介者あつかいされていた李承晩は、急に威厳をとりもどし、、6月19日の新議会招集によって、彼の韓国内の支配力が終わりを告げるかとおもわれたときに、米国と国連のあたらしい支持をえたのであった。
逆にまた、この攻撃は共産主義のがわにとっていくつかのあたらしい問題をつくりだした。中共は公約どおり台湾の占領に乗り出すには、米国との正式な紛争を覚悟しなければならなくなった。ウラジオストックに非常にちかい日本の爆撃機基地は、米国が無期限に保有することになった。はじめての自由選挙の圧力によって、南鮮の政権が崩壊するかもしれぬという希望、北鮮の統一要求、「解放」をめ ざしての38度線からの容易な南進の可能性──、これらすべてはことごとく消え失せてしまった。
さらにいっそうひろい国際的視野からいっても、反響はモスクワにとって不利であった。一方では、平和を「全面外交」の名でもみけそうとする敵意あるワシントンと、他方では、あまり不安なようすをみせたがらない猜疑心のつよいモスクワのあいだを、なんとかとりもとうとするリー国連事務総長のひとりぼっちの巡礼に、とつぜん終止符がうたれた。米ソ両国直接の平和交渉をもとめるリーの要請は、朝鮮戦争のかなしいしらせをのせた同じ日の新聞紙中に埋没してしまった。モスクワがいちばんおそれていた、日独両国の再軍備をねらう運動が、ワシントンで急に力をえてきた。さいごに、米国の巨大な工業力の戦争のための動員が開始され、従来よりもいっそうきびしい「封じ込め政策」が大西洋から太平洋にも延長された。それが蒋介石とマッカーサーがずっとまえから要求していたことであった。
・・・(以下略)
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第12章 国連の総崩れ
・・・
最後の仕上げは「国際連合軍」部隊をマッカーサー元帥の指揮下におき、しかもマッカーサー元帥を国際連合の指揮下におかないようにすることであった。これは7月7日、英仏の共同決議案において実現した。これは普通、国連軍司令部を設置した決議とみられている。しかし、決してそのようなものではなかった。それは国際連合旗を使用する権限をあたえられていたが、決して国際連合の命令には拘束されぬ「統一司令部」を設置したのだ。このことは、決議の正文について見れば明らかであろう。決議は、朝鮮にかんする安全保障理事会の諸決議にしたがって、「軍隊その他の援助を提供するすべての加盟国は」「かかる軍隊その他の援助を米国の指揮下にある統一司令部に提供」すべしと勧告した。決議は「このような軍隊の司令官を任命する」ことを米国に要請し、これらの軍隊に国際連合旗を使用する権限をあたえた。これらの軍隊にたいし国際連合がいくらかでも監督権を保持していることを示した唯一の条項は、国際連合が「米国にたいし統一司令部のもとでとられた行動の経過につき、適宜に報告を安全保障理事会に提出するように」要請したことを漠然とのべた最終条項だけであった。
「統一司令部」は、定期的にあるいはその他の形で、国際連合と協議したり、国際連合に報告したりする義務はなかった。決議は「安全保障理事会内に、マッカーサー元帥にたいする援助申し入れを受理・伝達する委員会を設けることについて言及するのを削除」さえした。サー・グラドウィン・ジェブ英国連代表は、「少なくとも現在のところ、このような機関の必要は実際上ない」と信ずる旨を述べた。国際連合はマッカーサー元帥に白紙委任状を手渡したのだ。
その後の事態はまもなく、「国際連合」の軍事行動が、突発事件計画的事件によって、「国際連合」と中国あるいはソ連またはその双方との間に戦争をひきおこしかねない情勢のもとで、マッカーサー元帥に白紙委任状を手渡したことが、いかに危険だったかを証明することになった。英仏両国は、じきにどちらも後悔することになる行動を、どうして決定することにしたのだろうか?……(以下略)
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第5部 枯尾花戦争
第32章 再び京城を放棄
・・・
マッカーサー司令部からでる「情報」の性質については、英国新聞から一せいに非難の声があがった。『デーリー・ミラー』は「朝鮮からのおとぎばなし」と書いた。
『サンデー・ビクトリアル』は大きな赤活字を使って、「これは個人の戦争か?」と疑問を提出した。ビーヴァブルック卿の『サンデー・エクスプレス』は、いったいマッカーサーの諜報部長であるチャールズ・ウィロービー中将は、12月26日のとんでもないコミュニケで発表したように、どうして敵軍部隊を何十何人と最後の1人まで数えることができたのか知りたいものだ、と書いた。1月9日、東京の司令部はこれに対する回答として、突然第二次大戦中にもみられなかったほどの、厳重な検閲をしいた。ロンドンの『デリー・エクスプレス』の東京特派員のセルカーク・パントンは、この厳重な検閲の理由を推論することさえも禁止されていると報じた。 「しかし」とかれは、真相を伝えるため最後の必死の努力をするかのようにつけ加えた「これだけは確実にいえる……前線の戦闘に中共の『大軍』が加わっている徴候は全然ない」。
・・・(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。
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