真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

HPは hide20.web.fc2.com
ツイッターは HAYASHISYUNREI

関係を強化する日米韓の正体

2025年02月26日 | 国際・政治

 韓国の尹錫悦大統領を支える政党「国民の力」は、戦後結成された「韓国民主党(韓民党)」の流れを汲む保守政党だと思います。だから、その成立過程を知ることは、現在の韓国の政治状況を理解するために大事なことではないかと思います。

 でも、アメリカの影響下にある日本では、そういう歴史を踏まえた政治情勢の考察や分析は、ほとんど表にでてきません。

 もちろん、日本の敗戦直後に結成され、組織された韓国民主党(韓民党)と「国民の力」は一直線につながっているわけではないと思います。でも、保守政党としての基本的なスタンスは同じでだろうと思います。

 ブルース・カミングスの著書の下記抜粋文の中に、

910日、韓民党を代表する趙炳玉(チョピョオク)、尹潽善(ユンホソン)、そしてTY・ユン(尹致暎か)の三人が、軍政庁の役人と会い、人民共和国は「日本に協力した朝鮮人利敵分子」によって組織されたものであり、呂運亨(ヨウニョン)は「反民族的親日派の政治屋として朝鮮人の間で悪名の高い人物だ」と告げた。

 というような韓民党関係者のアメリカ軍政庁の役人に対する欺瞞的な進言がありますが、 尹大統領の「非常戒厳」宣布やその後の対応が、私に、韓民党の成立過程を思い出させるのです。

 また、下記の抜粋文の中には、

アメリカ人は最も保守的な朝鮮人とほとんど一夜にして深い関係を結んでしまった。「現地のいかなる個人も、またいかなる組織された政治集団も、…軍政の政策決定に関与させてはならない」というのが、占領軍の原則であったが、しかし数日もしないうちに第24軍団は韓国民主党と特別な関係を結び、それ以後アメリカ人は韓国民主党的な視点から他の政治グループを眺めるようになった。

 ともあります。さらに、

無知なアメリカ人たちは、呂運亨や許憲、安在鴻のような徹底した抗日運動の闘士を痛罵している韓民党指導者の多くがつい昨日まで日本の「聖戦」を讃え、「鬼畜米英」の打倒を呼びかける演説をぶっていた人たちであることを知りえなかった。

 とあります。

 私は、朝鮮の軍政に関わったアメリカの高官は、すべて承知で韓民党と手を結んだのではないかと疑っているのですが、それは、下記のような記述があり、また、降伏後の日本で、当初民主化を進めていたGHQが、180度方針を転換し、戦争指導層と手を結んだ事実があるからです。 

Gー2の責任者であったセシル・ニスト大佐は911日に徐相日や薛義植、金用茂ほか何人かの人々と面談したのち、この人々は「一般から尊敬されてされている著明な実業家や指導者達であり」、同時に韓民党は「朝鮮の一般大衆を最もよく代表しているばかりでなく、保守層の大部分と有能で且つ人気のある指導者、実業家を擁する」政党であると記録している。”

 歴史をふり返ると、アメリカが、他国の労働者を中心とする組織や団体、一般市民と手を結んだことはほとんどなく、いつも、実業家(資本家・企業家)、またそうした人たちと一体となった政治組織や軍事組織、またそうした組織と関係の深い政治家などと手を結んできたと思います。それは、極論すれば、アメリカは、いつも搾取・収奪する側の人や組織と手を結んできたということです。搾取・収奪する側の人は、お金持ちであり、高度な教育を受け知識が豊富であるだけでなく、人間関係も広く、行動力もあるため、アメリカにとっては、いろいろな面で、好都合なのだと思います。

 そうしたアメリカの対外戦略は、戦後の日本で、GHQが戦犯の公職追放を解除し一線に復帰させたため、「巣鴨プリズン」に拘束されていた東条内閣の商工大臣、岸信介が首相として政権を担い、1960年の日米安保条約改定を強行したことが、象徴していると思います。

 だから、日本やアメリカと同盟関係を強化している尹大統領を罰し、追放することは、簡単ではないだろうと思います。

 下記は、「朝鮮戦争の起源 1945年─1947年 解放と南北分断体制の出現」ブルース・カミングス 鄭敬謨/林 哲/山岡由美「訳」(明石書店)から第二部、第五章の一部を抜萃しましたが、無かったことにしてはいけない歴史が綴られていると思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

              第二部 中央におけるアメリカ占領軍の政策 1945年─1947

          第五章新しい秩序の創出─アメリカ軍の上陸と官僚機構 警察、軍に対する政策

 仁川とソウル── 新しい敵と味方

 ・・・

 アメリカ軍は午後一時上陸を開始したが、そのとき仁川の街頭には黒い外套を身に着け銃剣で武装した日本警察が整列しており、その直前、上陸するアメリカ軍を歓迎しようとしてデモに参加した2人の朝鮮人が射殺されるといった事態が生じたため、ひどく緊張した雰囲気であった。アメリカ軍の上陸がこのような殺戮の中で行われたのは皮肉なことであったが、このような不幸はホッジが言ったという無神経な発言で一層救い難いものになってしまった。仁川に上陸した後、ホッジは日本人に治安維持への協力に関して感謝の言葉を捧げた模様であり、また、アメリカ人記者に、次のように述べた。

 

 仁川港において、我々を歓迎しようとした朝鮮人グループに日本人が発砲した件を含めて、これまで数件の事件が朝鮮人と日本人の間に起こっているが、本官は民間人が上陸作戦の妨げになることを考えて、彼らを港に近づけてはならないとの命令を下しておいた。

 

 ホッジはまた、朝鮮人と日本人は「同じ穴のムジナア」(the same breed of cat)だと評したことはよく知られているが、彼自身が誤解であると主張し、何人かの人々もホッジは対日協力分子の朝鮮人をそのように称したにすぎないと弁護しているにもかかわらず、この発言は朝鮮人を激怒させると同時に、朝鮮人の熱望に対して驚くべき冷淡さをさらけだしたのもとされた。

 翌日の朝、アメリカ軍は静かにソウルへ入ったが、街頭には再び日本軍が整列しており、祝賀のパレードもなければ、歓迎の群衆もいなかった。高級将校たちは朝鮮ホテルを宿舎とし、半島ホテルには第24軍団の司令部が設けられた。その日午後、朝鮮総督府の庁舎においてホッジは正式に日本軍の降伏を受け入れたが、そのあと朝鮮人の大群衆は興奮して街頭をねり歩き、木銃を肩にした治安隊の各隊が町の治安維持に当っていた。その夜、アメリカ軍は夜間通行禁止令を公布した。

 99日、降伏の儀式が終了するやいなやホッジは、阿部信行総督を含めてすべての日本人、朝鮮人職員は現職に留まったまま、総督府は従来の通り機能を継続すると発表したのである。朝鮮人への演説の中で、彼は朝鮮人に忍耐を要求してから、次のように付け加えた。

 

 これからの数ヶ月の間、諸君は自らの行動を通じて、世界の民主主義的諸国民と、彼らの代表者である本官に対して、諸君ら朝鮮人の資質と能力を発揮し、諸君らが果たして世界諸国民の中に伍し、その一員として名誉ある地位を獲得しうる準備ができているかどうかを示すことになろう

 

 朝鮮の人々は、この陳腐極まりない尊大な言辞にがっかりしてしまった。ある新聞の社説は、朝鮮人は阿部総督よりは「どこかボルネオあたりの酋長」に支配された方がマシだと思うだろうと述べ、アメリカ軍の到着を歓迎しなければならないのはむしろ日本人ではないかと主張した 。アメリカ側の公式資料によっても、ホッジのこれらの行為が、「日本人をアメリカの味方の位置に立たせ、朝鮮人を敵に回す結果をもたらしたように思われる」と述べている。

 見苦しいほどこれみよがしのアメリカ人将校と日本人将校らの交歓がますますこのような感情を煽り立てた。一面では、これらの行為は単に戦争が終わったという安堵感と、日本人が従順で協力的であったということから生じたものであろう。しかしこの初期の段階におけるアメリカ人将校と日本人の交流が、アメリカ軍の占領の全期間を通じて示されたさまざまな偏見の始発点となったのである。勿論、こういった問題に対する判断は具体性を欠きがちであり、用心が必要であるが、しかし上陸の当初から多くのアメリカ人が朝鮮人よりも日本人に好意をよせていたらしいことは拒み難い事実である。日本人は協力的であり、規律正しく、かつ従順であるとみられたに対し、朝鮮人は強情で狂暴であり、かつ手に負えない連中と見られたからであった。このような見方は、その後様々な文献にくり返し現れるようになるが、恐らく1945年秋の朝鮮に対するアメリカ人の最初の反応にその起源があったと思われる。

 ワシントンの国務省は、日本人官吏を現職に留めておくホッジの政策に強く反対しており、『ニューヨーク・タイムズ』は、「国務省は軍部の一時的な日本人官吏留任政策に責任がないと厳命しいること……そしてこの方針は明らかに現地司令官の命令によるものであること」などを報道した。914日、国務省はこのことについて反対意見をマッカーサーに通告した。

 

 政治的な理由に基づき、貴官は阿部総督、総督府の全局長、道知事、並びに道警察部長らを直ちに解任されたし。更に、他の日本人官吏及び対日協力者である朝鮮人官吏の解任もできうる限り速やかに行うことを要望する。

 

 マッカーサーはすでに911日、日本人官吏を直ちに解任すべきことをホッジに電報で通知してあった。

 912日にホッジは自分も同じ結論に至っているが、この方針の「変更」は混乱を招くかもしれないと返事送った。ホッジが当初考えた総督府幹部の現状維持策については、公式の記録には何の説明も見当らない。しかし、それについてはおそらく二つの理由が考えられる。すなわち、(1)マッカーサーが日本では既存の統治機構を利用すると決めたために、朝鮮の第24軍の将校たちも同じように考えたかもしれなかったということ(このことは911日のマッカーサーのメッセージがなぜ政策の「変更」を意味していたのかを説明しうるだろう)、(2)人民共和国が(人共)がアメリカの上陸2日前にその成立を宣言していたので、もし日本人官吏を解任しないなら、人民共和国が権力を掌握するかもしれないと考えたことである。ホッジが混乱を恐れ、日本人と緊密に協力することにしたのは、恐らくこの革命的状況のためであった。いずれにせよ、こうした中で朝鮮人が解放者であると感じていたアメリカに対する絶大な好意は徐々にさめ始めていたのである。

 911日、アーノルド少将が阿部総督に代わった。2日後、遠藤柳作政務総監と総督府の各局長たちが解任され、「植民地統治機構」を意味していた「総督府」という名称も軍政庁に変わり、英語が軍政下の公用語となった。

・・・

 軍政の 最初の数週間のうちにアメリカ人と朝鮮人の間に進展した結びつきの在り方は、よくわからない状況の中で遭遇した朝鮮内の政治的対立にアメリカ人がどのように反応し、外国勢力の存在に対しては朝鮮人がどのように反応したかを観察するのに格好なケース・スタディーの対象である。両者の願望は同一のものでなかったにもかかわらず、アメリカ人は最も保守的な朝鮮人とほとんど一夜にして深い関係を結んでしまった。「現地のいかなる個人も、またいかなる組織された政治集団も、…軍政の政策決定に関与させてはならない」というのが、占領軍の原則であったが、しかし数日もしないうちに第24軍団は韓国民主党と特別な関係を結び、それ以後アメリカ人は韓国民主党的な視点から他の政治グループを眺めるようになった。

 910日、韓民党を代表する趙炳玉(チョピョオク)、尹潽善(ユンホソン)、そしてTY・ユン(尹致暎か)の三人が、軍政庁の役人と会い、人民共和国は「日本に協力した朝鮮人利敵分子」によって組織されたものであり、呂運亨(ヨウニョン)は「反民族的親日派の政治屋として朝鮮人の間で悪名の高い人物だ」と告げた。以後10日間に亘って、Gー2の日報に名前があげられるほどの朝鮮人情報提供者は、ほとんど凡て韓民党の指導者たちで、その中には宋鎮禹(ソンジム)、金性洙、張徳秀、徐相日(ソサンイル)、薛義植(ソルウィシク)、金用茂(キムヨンム)、金度演(キムドヨン)、その他が含まれていた。 また、ルイーズ・イム(任永信:イムヨンシン)と朴任徳(パクインドク)のような(女性の)韓民党支持者たちも同じ時期に、アメリカ軍宿舎内で話をする機会を得た。韓民党の支持者で間もなくホッジの個人通訳となった李卯黙(イミョムク)は910日、有名な料亭明月館に招致された軍政庁の役人たちに重要な演説を行った。李は呂運亨と安在鴻(アンジュホン)は著明な「親日派」であり、人民共和国は「共産主義」に傾いていると発言した〔当の李卯黙は南次郎総督が総裁であった国民総力朝鮮連盟で参事を務めた人物)後になって韓民党の公式の記録は、この時期の韓民党の活動の狙いはアメリカ軍政関係者に人民共和国は親日派、共産主義者、そして「民族反逆者」たちの集団であると確信させることであったと述べている。

 8月末頃から、日本人はアメリカ人に建準と人民共和国は共産主義者で集まりであるとくり返し中傷しつづけていた。しかし、人民共和国は親日的であり同時に共産主義的であるとすると、そこに何か矛盾が感じられたはずであるが、第24軍団の将校たちは何も感じる所はなかったらしい。むしろ彼らは、ソウルの政治状況の中で渦巻いている悪意的な宣伝を真実と思い込んだ。こうして、大衆の支持もなければ、人民共和国のような組織能力もなく、ただ必死になって生き延びる道を模索していた韓民党は、李朝時代の党争のような古くさい手法に訴える以外に手がなかった。無知なアメリカ人たちは、呂運亨や許憲、安在鴻のような徹底した抗日運動の闘士を痛罵している韓民党指導者の多くがつい昨日まで日本の「聖戦」を讃え、「鬼畜米英」の打倒を呼びかける演説をぶっていた人たちであることを知りえなかった。しかし、本質的な問題は、アメリカ人の無知ではなかった。韓民党の指導者たちは、アメリカ人の政治認識を支えている要素を正確に計測し、彼らが聞きたがっていること、信じたがっていることを彼らに話してやったまでであった。

 こうしてアメリカ人は上陸したその日から、はっきりと人民共和国に反対の態度をとった。実際ホッジは105日に至るまで呂運亨とは会おうともしなかったし、呂運亨に会った時のホッジの質問は、「あなたは日本人とどういう関係であるのか」とか、「日本人からいくら金をもらったのか」といった類のものであった。これはホッジがいかに韓民党の宣伝に乗せられていたかを物語るものであるが、呂運亨に対するこの質問が、ホッジが「親日」のことについて反感を示した唯一のケースであったことは附言しておかなくてはならないだろう。呂はその後、「アメリカ軍政は最初から自分に対して好感のようなものを持っていなかった」と述懐している。

 韓民党の情報提供者たちは、アメリカ軍政に対して、人民共和国は共産主義者と民族反逆者の集団であると(必要な水準まで)信じ込ませただけでなく、韓民党こそが南朝鮮における民主主義勢力の主力であるとも吹き込んだであった。Gー2の責任者であったセシル・ニスト大佐は911日に徐相日や薛義植、金用茂ほか何人かの人々と面談したのち、この人々は「一般から尊敬されてされている著明な実業家や指導者達であり」、同時に韓民党は「朝鮮の一般大衆を最もよく代表しているばかりでなく、保守層の大部分と有能で且つ人気のある指導者、実業家を擁する」政党であると記録している。一週間後ニスト大佐は、韓民党は「朝鮮の大多数を代表する唯一の民主政党」であると結論を出している。このような判断はすぐホッジ将軍やベニンホフ、その他とアメリカ軍政の主要な政策立案者の考え方に反映され、実際においてその後数週間のアメリカの政策決定に甚大な影響を及ぼした。

 かくて韓民党は自らの生き残りに必要な命綱をもってアメリカ軍政当局と結びつき、自国にやって来た外国権力の助力と支持を獲得することに成功した。そこでその指導者たちは、自分たちの究極的な目標を達成すべく、アメリカ人の好意を勝ち取ることに全力をつくすことになるが、その究極的な目標とはつまり、日本人が残して行った高度な中央集権的統治機構をおのがものものにすることである。この目的のために、韓民党の指導層は、少なくとも一時的には、自分達のような好運にめぐまれていない他の朝鮮人の怒りや誹謗を耐え忍ぶことにやぶさかではなかった。韓民党は予想もしなかったような大成功を手に入れたわけである。なぜなら、韓民党はアメリカ軍政に対し、自分らが信頼できる味方であるばかりか、民主主義的な仲間であると思い込ませることに成功したからである。この点については、或いは韓民党の一部の指導者でさえ。面映ゆい思いをしたのかも知れない。一方アメリカ軍政としても、朝鮮国内における革命の潮流を防ぎ止めるために頼りがいのある忠実な味方が必要だったといえる。占領の初期の数ヶ月間、韓民党は軍政のこのような目的に一番ピッタリしているように思われたし、自らを抑圧者ではなく解放者と考えていたアメリカ人がおのれの良心を慰めるためにも、実際はどうであろうと、いやおうなく韓民党は民主的であるというふうな評価を下さなければならなかったのである。

 アメリカ軍政と韓民党の関係は、国務省から派遣されたホッジの政治顧問ベニングホフによって作成された最初の重要なワシントン宛ての政治報告にはっきりと示されていた。ベニングホフメは915日付の最初の報告の中で、朝鮮の政治情勢について次のように述べている。

 

 朝鮮は点火すれば直ちに爆発する火薬樽のようなものであると言える。

 

 即時独立と日本人の一掃が実現しなかったために大変な失望がわあき上がっている。朝鮮人の日本人に対する憎悪は信じられないほど激しいものであるが、しかしアメリカ軍の監視がある限り、彼らが暴力に訴えるだろうとは考えられない。日本人官僚の排除は世論の見地からは好ましものであるが、当分その実現は難しい。名目的には彼らを職位から解除することができるが、実際には仕事を続けさせなければならない。なぜなら、政府機関、公共施設、公衆通信機関も問わず下級職員を除くと資格をもつ朝鮮人職員が存在していないからである。それに日本人の下で高級職についていた朝鮮人がいても、彼らは親日派とみなされ、ほとんど彼らの主人と同じように憎まれている。……総督と警務局長の2人の日本人の追放と、ソウル地域の警察官全員の配置転換は、たとえこれが政府機関を強化することにならなくても、激怒した朝鮮人をなだめる効果はあるだろうと思われる。

 

 あらゆる[政治]団体が共通してもっている考え方は、日本人の財産を没収し、朝鮮から日本人を追放し、そして即時独立を達成するということのように思われる。それ以外のことについては考えはほとんどない。朝鮮はアジテーターにとって機の熟した絶好の場なのある。

 

 ベニングホフはさらにアメリカ軍政と韓民党の結びつきの始まりを次のように示唆している。

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 一国独占主義 と国際協調主義... | トップ |   
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

国際・政治」カテゴリの最新記事