「陰謀・暗殺・軍刀 外交官の回想」(岩波新書)の著者(森島守人)は、通州事件当時北京において、日本側関係者や中国側関係者と、様々な交渉を重ねた外交官です。したがって、日本の主張だけではなく、中国側の立場や考え方も理解し、通州事件に至る事の成り行きを冷静に、そして客観的に見ていたように思います。
「陰謀・暗殺・軍刀 外交官の回想」を読むと、「通州事件を忘れるな!」などと言って、通州事件における中国人の残虐性ばかりを問題にする日本人の主張が、歴史の一面しか見ていないことに気づかされます。
大事なことは、なぜ「通州事件」のような残虐な事件が起きたのかということではないでしょうか。そのことを論ずることなく、「通州事件」における中国人の残虐性ばかりを並べ立てることは、「歴史から学ぶ」という姿勢を放棄することに等しく、非生産的であり、誤りであると思います。
通州事件を正しくとらえるためには、1928年(昭和3年)6月、中華民国・奉天(現瀋陽市)近郊で、奉天軍閥の指導者張作霖が暗殺された「張作霖爆殺事件」や、1931年(昭和6年)9月、奉天近郊の柳条湖付近で、南満州鉄道の線路が爆破された「柳条湖事件」などがあったこと、そしてそれが、関東軍の謀略に基づくものであったことを踏まえておく必要があると思います。そうした事実を含め、当時の日中の関係全体、特に日本軍と中国側の軍の関係やトラブルの状況を踏まえて、通州事件を見ない限り、通州事件という歴史の事実を客観的にとらえることはできないように思います。
たしかに、通州事件では、親日的であったはずの冀東保安隊によって、武器を持たない日本人居留民が大勢虐殺されました。でも、だからといって、
”日本が支那に和平を訴えても、このような支那人による恐ろしい極悪非道のホロコースト(大量殺戮)が日本人に対して行われていたということだ”
とか
”この悪夢のような事件から既に70年以上経過しているが、根本的な支那人(漢民族)の気質は全く変わっていない”
などとくり返すのでは、国際社会の理解が得られないばかりでなく、日中関係の改善は不可能になるだろうと思います。
下記は、「陰謀・暗殺・軍刀 外交官の回想」森島守人(岩波新書)から、通州事件に関わる部分を一部抜粋しました(漢字の旧字体の一部を新字体に変更しています)。通州事件を、中国人の「気質」の問題として論じてよいのかどうか、分かるのではないかと思います。
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十二 運命の七月七日 蘆溝橋事件
事件の突発と居留民の籠城
少しく私事にわたり過ぎる嫌いはあるが、私が議会中の多忙なうちに、両協定案をまとめるため全力をつくした。また議会では林内閣に対する風当たりが強く、祭政一致を旗印とした超然内閣打倒のため、各政党とも最大弱点と見られた佐藤新外相に質問、攻撃の鉾先を集中した。新外相は欧州在勤が長く国内事情や中国事情に疎かったため、補佐の任務も非常に骨が折れた。私は両協定案取りまとめの経緯と対軍関係から、対華、対英の交渉にも関与するものと期待していたが、議会終了後、突如転任の内命に接したので、出先との打合せを終えた上、北京へ赴任することにしていた。赴任にさきだつ七月七日、突然北京の郊外蘆溝橋で中日兵の衝突事件が起こった。あまり焦っているような印象を、中国側に与えてはとの外務省の懸念から、2、3日状勢を眺めていたが、事態重大化が懸念されたので11日東京を出発して北京へ向かった。
汽車と飛行機とを乗りついで、天津に着いたのが14日の正午少しまえ、さいわい北京行列車を捕らえることができたので、20名余りの武装警官を帯同して出発した。豊台駅に着くと、中国側から、武装のまま戒厳地帯に入ることは認め得ないといって、北京入りを拒絶せられた。中国憲兵を通じて北京の戒厳司令部と折衝すること数時間余り、ようやく了解を得て警戒のものものしい北京に入ったのは同日の夕方近くであった。
交民巷附近の城壁にも大砲が据えられてあり、緊張の場面は一目でわかった。大使館に入ると、すでに在留邦人の公使館区域への引揚げ準備を進めており、宿舎の割当、食糧の買入れ、貴重品の持込みなど、すでにその手はずをととのえていた。居留民の安全をはかるため、なるべく早い機会に、引揚を命じたいとの雰囲気をも窺い得た。もちろん突発事件に際して、居留民の生命、財産の安全を確保することは、外務出先官憲の重要任務の一つであり、引揚げの時期を失すれば、生命、財産を不測の危険に曝すことになる。さりとて過早に引揚を命ずるとかえって、居留民の生業を奪い、政府に対しても不必要に財政的負担を与える結果となるので、不安な情勢に直面した居留民からの執拗な引揚要望も受けつつも、適当な時期の選定を誤らないことがもっとも肝心だ。しかし何にもまして私の脳裡を支配したのは、北京の市街戦を何としても回避したいということであった。というのは、過早に北京城内の居留民に引揚を命ずることは、いたずらに軍の手に乗るのみだ、居留民の生命に対する心配がなくなると、かえって軍を驅って市街戦に乗り出す可能性が増加する。市街戦の結果、世界における唯一、無二の歴史的都市を廃墟に帰することは、未来永劫、世界歴史に汚点を残す、ニューヨークの摩天楼は金と技術とをもってすれば、再建は不可能ではないが、経済的に利用価値のない北京の宮殿や西太后が軍艦の建造費を抛って築造した北京郊外の万寿山などは、巨万の財宝を積むも再建不可能なことを思い、北京市街戦の回避こそ、世界歴史のため、また東洋文化のため、私に課せられた使命であると痛感された。
私は進行中の現地協定の成立を期待し、軽々しく引揚命令を出すことに、同意を与えることを拒否して来たが、7月25日には北京と天津との間の廊坊で、翌日には北京の広安門で中日軍の衝突が起こった。そして26日には出先の日本軍は、24時間の期限をきって、北京からの中国軍の撤退を要求していたので、やむなく27日の午前5時に至り、北京居留民に対して公使館区域内への引揚命令を出し、午前中に全居留民を公使館区域に収容した。明治33年の義和団事件以来はじめての引揚命令で、北京居留民はここに二度目の籠城生活に入った。その最後の瞬間においても、何とかして日本軍の大規模な出動を阻止したく、北京駐在の軍側諸機関とも打合せ、偶々天津に滞在中だった川越大使を介して華北駐屯軍司令官の自重を促したく、連絡に百方手をつくしたが、電信、電話など北京、天津間の連絡方法は全然杜絶していたので如何ともすべき述はなかった。
せめて日本側の立場をよくするため最後通牒の期限が切れるまで軍の出動を差し止めれば、そのあいだに窮状打開の途もあるかも知れないとの一縷の淡い希望のもとに、東京を経由して川越大使へ至急電を出したが、時すでに遅く、日本軍は期限終了前に軍事行動に移っていた。
27日早暁、秦徳純市長を訪問、居留民引揚中の残留財産の保護方について申し入れをした。2週間の籠城生活中、在留民の家屋財産について、一件の掠奪事件さえなかったことは、ここに特記しておきたい。
籠城に際しては防諜の見地から、内鮮人を別居させたが、季節柄連日の豪雨に際し、英国大使館が軍用テントを貸与してくれた好意もここに述べておきたい。
通州事件
北京に関するかぎり、何等の不祥事件もなく、無事に過ごし得たが、一大痛恨事は北京を去る里余の地点、通州における居留民の惨殺事件であった。
通州は日本の勢力下にあった冀東防共自治政府の所在地で、親日派の殷汝耕のお膝下であり、何人もこの地に事端の起こることを予想したものはなかった。むしろ北京からわざわざ避難した者さえあったくらいだった。
冀東二十三県は塘沽協定によって、非武装地帯となっており、中国軍隊の駐屯を認めていなかったにもかかわらず、わが現地軍が宋哲元麾下の一小部隊の駐屯を黙認していたのが、そもそもの原因だった。中国部隊を掃討するため出動したわが飛行部隊が、誤って一弾を冀東自治政府麾下の、すなわちわが方に属していた保安隊の上に落とすと、保安隊では自分達を攻撃したものと早合点して、さきんじて邦人を惨殺したのが真相で、巷間の噂と異なり殷汝耕には全然責任なく、一にわが陸軍の責任に帰すべきものであった。
28日、北京の東方に黒煙が濛々と立ち上がり、時に爆声もを交えていた。通州方面に何らか事件の起きたことは容易に推測し得たが、公使館区域の守備隊は全部出動ずみで、義勇隊の手によって警戒に当たっていた位だから、如何ともし得ない、さりとて少数の警察官の派遣は全然問題とならない、何とかして実情を確かめる必要があったが、事件以来一般中国人は大使館によりつかないので、思案に暮れているところへ、ハルピン時代に面倒を見たことのある一青年が、勇敢にも変装して通州に入りを敢行するするむね申し出て来た。右青年は途中で敗残兵のため川に突き落とされ、水中に数時間も潜伏するするなど幾多の冒険を冒し、二日がかりで通州まで往復して来たが、その報告で通州の惨状を知り得た。その後通州保安隊のため数珠つなぎなっていた列の中から命からがら逃れて来た安藤同盟特派員の北京帰還によって、さらに詳細な事情を知り得た。
私としては現地の責任者でもあり、また遺族に対する立場からも、この事件の急速な解決を必要と考えた。また通州事件の真因が明らかとなれば、かつてシベリア出兵中、尼港事件に関し田中陸相の責任が大きな政治問題となったと同様に、政治問題化することが必然なので、議会開会前に現地で解決するを有利と考えた。現地の軍側諸機関の意向を打診したうえ、中央へ請訓するなどの手つづきを一切やめて、私かぎりの責任で、 殷汝耕不在中の責任者、池宗墨政務庁長と話し合いを進めた結果、正式謝罪、慰藉金の支払い、 冀東防共自治政府が邦人遭難の原地域を無償で提供して、同政府の手で慰霊塔を建設することの三条件で、年内に解決した。
事件が日本軍の怠慢に起因した関係上、損害賠償のかわりに、慰藉金を取ったが、その金額も損害賠償金要求の場合の外務省従来の算定方式にしたがうと、一醜業婦でさえ、何十万円の巨額を受け取ることになるのに対し、前線の戦病兵士はわずかに二、三千円の一時金を支給されるのに過ぎない事情も考慮して、社会通念の許す範囲に限定した。その分配についても従来の形式的な方法を廃して、内縁の妻も正妻同様に取りあつかい、また資産ある者や扶養家族の少ない者に薄くして、実際に救済を必要とする者に多くをふりむけるなどの措置を講じた。そして将来の紛糾を避けるため、慰藉金の分配は、北京大使館に一任するとの一札を自治政府側から徴しておいた。
ただ私にとって心残りになったのは、どうして殷汝耕の無実の罪をそそぎ、公人として再起せしめるかということであったが、関東軍の一部には銃殺論さえあったので、この問題の取扱には機微な配慮を要した。折しも西本願寺の法王が官民慰問のため華北を巡錫中だったので、その北京来訪の機会に、殉難者の慰霊祭を催し、主催者中に北京大使館、北京日本人会とならんで、殷汝耕を加え、無言のうちに殷を世間に出すのを妙案と考えた。この案については華北駐屯軍の全幅的賛同を得たが、後に至り関東軍内の強硬論につき、華北駐屯軍側からの注意もあって放棄するの外なかった。
関東軍内における反殷の空気は想像外で、私の右計画と殷の無罪をそれとなく報道した東京朝日の河野特派員の如きは、憲兵隊の厳重な取調を受けたような始末で、私の北京在勤中には、殷のために身のあかしを立つべき好機を捕らえ得なかった。翌年四月私が北京を去った際 殷は私の好意に対し衷心から感謝の意を表して来、再会を約して別れたのだが、昭和22年の12月1日対敵通牒の廉で、南京で銃殺に処せられた。大正14年郭松齢挙兵の際、外交部長として活躍し、事志と違うや、遼河の畔、わが新民屯総領事分館内に逃避すること数ヶ月、暗夜を利して吉田奉天総領事の人情味ある取あつかいにより東北兵の重囲のうちを脱出、わが国に亡命した数奇な運命を憶う時、無限の感慨を禁じ得ない。通州政府の金庫内から出た出納簿によると、殷は日本側の志士や吳佩孚やむしろ華北において対立の関係にあった 冀察政務委員会の連中にまで、毎月機密金を支給していたが、その深慮遠謀の程を察知するに足る。ついでだが、花谷少佐の話によると、柳條溝事件の折、張学良の金庫の中から赤塚正助名義の受取りが出た。当時陸軍では赤塚との同郷関係および昭和3年暮れの満州旅行に赤塚が床次に随行した事情などから、その折床次に献金されたものと解釈していたが、真偽の程はもちろん私として保證の限りでない。
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