麻山事件 満州の野に婦女子四百余名自決
大戦末期、満州においてソ連軍の侵攻で犠牲となったのは、大部分満蒙開拓移民の人たちをはじめとする日本人居留民でした。
満洲国を防衛する日本の関東軍は、ソ連参戦直後に撤退を決定し、司令部をいち早く通化に移転たのです。これによって関東軍は、「開拓移民を見捨て逃げ出した」と非難されることとなりました。軍が撤退してしまった地域に残された開拓移民の人たちをはじめとする日本人居留民は、ソ連軍の攻撃に直面したのですから、その非難を逃れることはできないと思います。また、秘密裏に軍が撤退したこと、さらに、軍人や官吏の家族が、先に列車を仕立てていち早く避難していることなども、見逃すことのできない問題ではないかと思います。
満洲に攻め込んだソ連軍の攻撃に直面した満蒙開拓移民の人たちをはじめとする日本人居留民には、麻山事件をはじめ、様々な悲劇が発生しました。
麻山事件とは、敗戦間近の昭和20年8月12日、「満州の東部国境に近い麻山において、避難途上にあった哈達河(ハタホ)開拓団の一団がソ連軍の包囲攻撃を受け、婦女子四百数十名が自決」した事件のことです。介錯は四十数名の男子団員が行ったということもあり、日本人が忘れてはならない悲劇ではないかと思います。
下記は、著者が13年の歳月をかけて生存者の証言を集め書き上げたという「麻山事件 満州の野に婦女子四百余名自決す」中村雪子(草思社)から、「第二部 事件」の「第五章 8月11日、12日-泥濘の避難行-」の一部を抜粋したものです。開拓団の「避難行」が、どんな酷いものであったのかが伝わってくると思います。語り継がれなければならないと思うのです。
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第二部 事件
第五章 麻山 その一
4 8月11日、12日-泥濘の避難行-
西鶏寧を過ぎるころから降り出した雨は、11日午前中は何とか小康を得たものの、午後はふたたび驟雨となり、夜にいたって沛然たる豪雨となった。
道は満州名物の泥濘である。
8月といいながら、北満の雨の夜は骨身にしみるほどに冷え込んだ。
女たちはかじかんだ手に手綱を握りしめ、真黒な闇の奥に眼を据えながら、前車の轍の音をたよりに慣れぬ馬車をあやつった。
轍の跡がつくる深い溝に車輪を落として立往生する馬車があるかと思うと、前日の空襲によってできた2メートル余りもあるすり鉢状の穴に、馬もろともに落ち込むものもあった。哈達河開拓団と行動をともにした南郷開拓団の高橋庄吉も、この逃避行をつぎのように記録している。
「隊伍モ乱レ前馬ト後馬トノ差ハ約3里モ距リ、連絡意ノ如クナラズ且ツ暗夜ノタメ断崖ヨリ転落シ何処ノ者カ悲鳴ノミ残シテ哀レ谷間ニ落チテ負傷セルモノアリ。且ツ又破損セル橋梁アリ、為ニ前進ノ人馬共ニ之ガ修理シテ身心ノ疲労ソノ極ニ達ス」(註1 「哈達河(南郷村)開拓団避難概況報告書」ヨリ)
故障する馬車も続出した。切れた手綱の代わりに、女たちの帯や手拭が用いられた。
放置せざるを得ない馬車の人員を収容するために荷物が捨てられたが、しかし、収容限度をこえた馬車の足は重く、行路はさらに困難の度を増した。
暴民に襲撃されて重傷を負った安東達美の妻(麻山にて死亡)や、避難途中、城子河(ジョウシガ)開拓団で出産した小川美枝子(麻山にて死亡)を収容してきた本部のトラックも前進不可能となった。ついに見沼団長は、現在地において一時行動を中止するという指示を出した。
ほとんどが雨中に立ったまま、寒気に震えながら夜明けを、待った。
雨除けのために覆った布団もぐっしょり水を含み、そのかげで、子どもたちは飢えと寒さと疲労にふるえながら無言で眼を伏せていた。
哈達崗(ハタカン)の空襲で馬車を失った笛田道雄と応召家族の一群は、一人一人が豪雨の中を泳ぎ、泥濘の中を這ってようやくここまで追尾してきた。
先を急ぐ避難行の中では、小休止も後尾集団が追いつくための時間かせぎにはならなかった。小休止の地点に到着した時には、すでに先頭は出発しているという状態で、彼女たちには食事をとる時間さえなかった。
一時行動を中止する、という知らせに、彼女たちは崩おれるように膝を折り、眠りに入った。
子供も土砂降りの雨に中にうつぶして眠った。笛田道雄の妻米子は、乳呑み児の飢えに覆いかぶさるようにしてかがんだ。
馬車を失ったこの集団には、雨除けの布団はもとより、衣類さえなかったのである。
そしてこの時、体力のない乳呑み児がまっさきにまいった。
丸山キクエの一歳になる男の子が、母親の背中で死んだ。
時々細い泣き声が聞こえていたようであったが、母親とともに豪雨と闘って、力尽きたような死であった。
乳を飲ませてやることもできなかった─背中から、濡れたもんぺの膝に抱きとって、丸山キクエの顔は茫然と、しかしきびしく睨みつけているようにも見えた。
明けて8月12日、哈達河開拓団は雨足の弱まるのを見て、ふたたび行動を開始した。
丸山キクエも、黙々と、死児を背負って隊列に加わっていた。
そして、これもまた昨夜消えた幼い命なのだろう、列を抜け出して道端に小さな死体を置き、毛布をかけてそっと手を合せ、ふたたび隊列にもぐり込む母親もあった。
滴道附近で夜明けを迎えた。
雨は上がったものの、道は相変わらずの泥濘だった。出発以来餌を与えられていない馬は、弱って足をもつれさせている。
女たちも馬車を降りて歩こうと心がけ、道端に捨てられる荷物も数を増した。ここまで運んできた仏壇も、そして布団も捨てられた。
やがて、昨夜の雨がまるで嘘のように、美しい朝焼けの中を太陽が昇りはじめると、たちまち大陸の炎暑がやってきた。
30分ほどの小休止の時、笛田道雄は団長をつかまえて言った。
「林口に着いたら汽車に乗れるのですか」
顔を上げた団長の面に、苦渋の色が浮かんだ。
「われわれがこの調子で林口に着くころには、林口もすでに爆撃されているだろうが……。とにかく一刻も早く林口に到着、女と子供を逃がしてやらなければ……」
語尾はむしろ自分に向かって言い聞かせるように弱々しかった。身心ともに疲労したようすが、その語尾にも現れていた。延々長蛇の婦女子の列を引き具して行く見沼団長の心境は、ただ悲愴の二次につきる。
昨夜から今朝にかけて、隊列は、各の馬車が入り混じっていよいよ混乱した。
このころから、開拓団を追い越して国境から撤退する軍のトラック、日本兵の数がふたたびふえてきた。
疲労困憊する開拓団の行列に「元気を出して」と力づけて行く兵隊もあり、ただじっと無言で顔を曇らせていく兵隊もあった。
笛田道雄と女たちの集団は、またしても最後尾になってしまった。
妻の米子が元気を装って、それぞれの間を励まして歩くが、丸山キクエも、河横貞子も、精も根も尽きたようすである。
「家を出るとき履いて出たズックの短靴などは、とっくに履ききれてしまって足の保護には役に立たず、皮はさけ、足は傷つき、丸太棒のように腫れあがってしまった痛々しい足もあった。頸から幾条もの血を流している者もいた」
と笛田道雄は書き、さらにつけ加えて、
大変生意気なお願いなので申訳なく、幾度か考え抜いたのです。他の部分は抜かしてもかまいません。お願いします。お願いします。実際にこのとおりだったのです。
実際に丈夫な足は米子と平田君子さんの足だけだったのでしたから────」(私信)
体験者にしかわからぬ、せっぱ詰まった場面を再現してほしい。それが亡くなった者たちを生かす道であり、遺族にも知ってもらい赦していただきたい、と笛田見道雄は訴えるのである。
あまりにも哀れな彼女たちの姿に、通りすがった及川頼治の妻よしみ(麻山にて死亡)が見かねて、作業衣ほか衣類数点を与えてくれた。
馬車で通りかかった東区の金杉よし江(夫は応召中。奉天収容所にて死亡)が、みずからも幼い子供二人を連れ、その上、本部勤務員で未亡人の星野とき(麻山にて死亡)を同乗させながらも、河横貞子の幼い子供二人を自分の馬車に抱きとってくれた。この時は、さすが気丈な彼女たちも、他の人々の好意に涙をポタポタこぼしながら歩いた。
長女を連れて徒歩で来た横関はる子を見つけて、手島金五郎の馬車に乗せてもらっている末っ子の美智子が、濡れた布団から顔をのぞかせて「母ちゃん、みっちゃん頭が痛い」と細い声で訴えた。
横関はる子は「我慢していれッ」と怒るようにきびしくそれを押さえた。だが後に、彼女は「優しい言葉もかけてやれなかった」と後悔し、その時の幼い心細げな顔が、戦後30年を経て、いまだはる子に涙を流させるのである。
哈達崗の空襲で馬車を暴走させてしまい、妻子を開拓団の馬車に乗せてもらった警察隊長・木村辰二も、つぎのように記録している。
「私は哈達河を離れて以来、乗馬にもろくに餌も与えず、馬車群の前後の警戒に走り廻る任務のため、気は焦り家族には附き添ってやることも出来なかった。たまたま横を通ると昌子(長女五歳。麻山にて死亡-筆者)が「母ちゃん、父ちゃんが馬に乗って来たよ」と知らせる。妻(フサエ。麻山にて死亡-筆者)は少しやつれた顔に微な笑顔をしながら、つとめて私が心配せぬよう心遣う気持ちが伝ってくる。長男公一郎(七歳。麻山にて死亡-筆者)は妻により添って私を見つめている」(『私の65年』)
満拓派遣の農事指導員である高橋秀雄は、家族を哈達河開拓団地域内に居住させていた。ソビエトが宣戦布告をした8月9日には鶏寧に出張中であったが、立寄った開拓団のトラックで急ぎ帰団し、哈達河開拓団と行動をともにする。
男手の足りないこの避難行ではつねに家族と別行動をとり、トラックに乗って開拓団本部の物資輸送の任務に就いていた
家族は妻の貞子(三十六歳)と子供たち、秀嗣(十四歳)、秀昭(十二歳)、幸子(十歳)、政子(七歳)、和子(五歳)、秀典(三歳)、久子(一歳)の7人であった。この中の母子6人は麻山で死亡し、幸子、政子の姉妹が奇跡的に救出されている。
つぎは高橋秀雄の記録である。
「妻はドロンコ道を子供を背負って黒川さんの馬車の馬の轡(クツワ)をとって無言で通り過ぎて行く。子供達は皆ずぶ濡れで笑いさえない。私も無言で送ってやった。
七時間後には永遠の別れになることを誰も知らなかった」(手記『麻山の記録』)
すでに民家も耕地も視界から消えて、行く手には、さほど高くはないが完達山脈の裾をひく山々が連なっていた。
灌木の生い繁る中を抜けると、五メートルほどの朽ちた木の橋があり、その橋を渡ると道はだらだらの上り坂にかかった。
右手の野地坊主(草の密生した大小無数の土地が水の中に散在している。浮動生で北海道の釧路湿原などにも見られる)のある湿地帯の向こうには、穆棱(ムーリン)河にそそぐ滴道河が流れているはずであり、右側の山腹から頂上にかけては、日本軍の対戦車壕が掘られている。
新しい木造の監視哨もあるが、すでに監視兵の姿はなかった。
やがて滴道河と湿地の向うの山裾に、青竜の信号所が見えてきた。
麻山はもう目と鼻の先であり、道は山腹を上ったり下ったりしながら、曲がり曲がってゆっくり麻山の駅におりてゆく。
11時近く、前方の馬車がつぎつぎと停止した。
本部のトラックが停まっていて、その横に見沼団長、福地医師、武田清太郎、馬場栄治、及川頼治が集まっており、団長の命を受けて高橋秀雄がトラックから荷物を降ろし、馬車に積みかえていた。
開拓団の購買部から運んで来た食糧、日用品なども分配され、小銃弾も追加配分された。軍用トラックに挟まれ、馬車にもつぎつぎと追い抜かれる状態の中で、ついにトラックの放棄が決定されたのであった。
前方に偵察に出ていた木村隊長から、伝令が駈けてくる。青校生である。
待ちかねていた見沼団長が、つと立ち上がってそれを迎えた。
青校生が持ち帰ったのは、「前方に優勢なる敵が進出。日本軍も待機中である。開拓団の男子はすみやかに前進し、軍に協力すること。トラックは現在地にて焼却、婦女子はただちに退避せよ」という軍からの要請、指示であった。
前方ではすでに戦闘が始まったらしく、しきりに銃声が聞こえる。
団長命令で、上野勝は人々を山腹に避難させた後、ようすを見るために山頂に上った。」
「銃声は熾烈で、軽機関銃のような連発音もする。後方より日本軍の一個小隊くらいが散開体形で前進して来た。おそらく対戦車壕あたりからこの山上に展開したのだろう。」
「向こうの高い山が匪賊か反乱軍の陣地らしく、時々迫撃砲の爆発音も低い山々に響く。今前進して行った日本軍も目標にされているのではないか」(「記『麻山』)
状況偵察に前進する見沼団長を目送しながら、上野勝は、前方の敵は匪賊かまたは満州国軍の反乱ではないかと判断したが、この時点ではみながそう思っていた。
及川頼治、馬場栄吉、武田清太郎らは、物資の分配を終えた後、見沼団長を追って前進した。
まさか、後方から追い迫るとばかり思っていたソビエト軍が、自分たちを追い越して麻山に進出しているなどとは考えられないことであった。
後に遠藤久義は筆者に「梨樹鎮(リジュウチン)から良い軍用道路ができていたから、そういうこともあり得るのだなあ」と語ったが、第一極東方面軍作戦概要図(戦史叢書『関東軍』)によると、東部国境線を突破したソビエト極東方面軍第五軍の戦車を含む狙撃軍団が、11日には梨樹鎮(リジュウチン)を抜き、12日にはすでに麻山にいたり、13日には林口に達している。
いま 哈達河開拓団は、前方、後方をソビエト機械化部隊によって押さえられたのであった。
前項「まぼろしの関東軍」で、筆者は滴道の野砲126連隊が、哈達河開拓団と同じく12日にこの麻山街道を牡丹江に向けて移動中で、4キロ以上にも延びた隊列の先頭はすでに麻山のに入り、後方の連隊行李や落伍者の一群は、まだ青竜附近の道路上を行進中であった、と書いた。
時を同じくしてこの街道を行く哈達河開拓団も、これまでの難行軍の中で多数の落伍者を出しつつ、自然に三つの群を形づくっていた。
まず笛田道雄の率いる応召家族たちはどうなっていたか。今までにもたびたび触れてきたように、女たちは疲れ切って、今は落伍寸前の状態にあり、最後尾を気力だけで歩を進めていた。また、先刻見沼団長から婦女子の退避、誘導を命じられた上野勝、高橋秀雄、負傷者・妊婦に附き添って来た開拓団の医師・福地靖も、この後尾集団の中にいた。
後尾集団の約1キロ前方にいたのが見沼洋二団長、衛藤通夫小学校校長、木村辰二警察隊長を中心とする中央集団の一群で、南郷開拓団員も加えて、およそ4百余名がここにいたと思われる。
そして「自分たちは 哈達崗の空襲でも馬をやられなかったので、どんどん先へ行くことができた」と語った遠藤久義らの率いる北大営区や東海区の応召家族たち、納富善蔵の父・吉岡寅市とその家族および畝傍区の馬車群、深渡瀬正直、見沼団長夫人、上野勝の妻菊枝の一行は、中央集団よりさらに1キロ前方に進出して先頭集団となっていた。
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