麻山事件
昭和24年12月11日、毎日新聞が”婦女子421名刺殺、敗戦直前東安省の虐殺を参院に提訴”という見出しで、元満州国哈達河開拓団の「麻山事件」に関する下記のような記事を掲載したといいます。いくつかの誤りや混乱が含まれているということですが、
「──日ソ開戦直後の8月9日満州東安省鶏寧県庁から哈達河開拓団本部に避難命令が発せられた
がすでに空襲により混乱の極に達し鉄道は遮断されていたので開拓団員約一千名は荷馬車で牡丹江
(ボタンコウ)に向け徹夜で行軍、12日ごろ麻山に達したとき満州治安軍の反乱部隊が来襲、前方にソ連戦車隊があり進退きわまる状況になった団長貝沼洋二ー東京出身ーは最悪の事態に陥ったと推定し団員の壮年男子十数名と協議し、”婦女子を敵の手で辱められるより自決せよ”と同日午後四時半ごろから数時間にわたって男子十数名が銃剣をもって女子供を突き殺した。これら壮年男子はその過半
数は新京、ハルビンへ逃れあるいはシベリアで収容されて帰還している──」
という内容です。
大戦末期、満州においてソ連軍の侵攻で犠牲となったのは、大部分開拓移民の人たちを中心とする日本人居留民でした。ソ連侵攻当時、戦死や自決によって全滅した開拓団は十指にもおよび、一全滅や十名以上の犠牲者を出した開拓団を加えるとその数は数百を数え、犠牲者の数は一万人にもなるということです。自決者の大部分は女子供です。満州における悲劇の象徴として「麻山事件」は語り継がれなければならないと思います。
哈達河開拓団の避難行では、軍の残留部隊が、ソ連軍と戦闘を交えながら撤退しつつありましたが、後退してくる日本軍をつかまえては、「せめて一個小隊の兵でもよい、安全地帯まで護衛につけてもらえないだろうか」との開拓団団長の懇願をすべて拒絶し、さらに開拓団の伝令として、後方待機中の部隊を見つけて、「哈達河開拓団の者ですが、団長の命令でお願いに来ました。団員全員を安全地帯まで護送願いたい」と繰り返し頼む納富善蔵に対し、「我々の任務は開拓団の保護ではない」とはっきり断って、避難する開拓団員の保護や護衛について一顧だにしなかったことを見逃すことができません。
また、自決する日本人に別れを告げて、哈達河に向かった現地人傭人とは別に、自ら自決を志願し、日本人とともに逝った李壮年(「満人」)」という人物がいたことも、考えさせられることではないかと思います。
下記は、著者が13年の歳月をかけて生存者の証言を集め書き上げたという「麻山事件 満州の野に婦女子四百余名自決す」中村雪子(草思社)から、「第二部 事件」の「第五章 麻山 その一」の「5 麻山谷」から自決に至る一部分を抜粋したものです。
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第五章 麻山 その一
5 麻山谷
・・・
後尾集団が集結した高梁畑からさらに一キロほど前方の、三方を山に囲まれた地点を「麻山」の男たちは「麻山谷」と呼ぶ。
二反半くらいの広さ(600坪。高橋秀雄談)の緩い傾斜地で、その右手には沢があって水が流れている。
そこに、団長を囲んで中央集団の四百余人と、いまは数十台になった馬車が集結していた。
そこは山かげになっているので被弾こそないものの、先刻から機関銃や迫撃砲の炸裂する音も間近に聞こえ、前方での戦闘の激しさが想像された。
前方から一人の兵隊が走ってきた。
落着かぬ目で「責任者は誰か」と息をはずませている。
兵隊は「ソビエトの戦車がすでに前方にいる。わが軍も応戦しているが戦死者も多く、これ以上の前進は無理である」と貝沼団長に伝えた。この情報に、人々の顔から血の気が退いていった。
先夜、開拓団を追い抜いて撤退していった部隊の兵隊たちも後退して来た。
「数十台のソ連戦車と遭遇して敗れた。その戦車が今ここに来る。国境からの戦車群も来る。もう袋の鼠だ。残された脱出口は、裏山を縫いつつ、麻山を大きく迂回して林口に向かう道しかない。部隊はその方向にいく」
と兵隊たちは言った。
それしかあるまい。だがこの疲れ切った婦女子に、この戦闘地帯となった山中から脱出が果たして可能だろうか。それに林口も砲撃されており、日本軍は牡丹江に向けて撤退しているとも兵隊は言う。 団長は、後退してくる日本軍をつかまえては、「せめて一個小隊の兵でもよい、安全地帯まで護衛につけてもらえないだろうか」と懇願するのだが、すべて拒絶された。
「戦闘力がある兵隊が後退し、戦う力のない開拓団は一体どうなるのだろう。兵隊は何のために存在していたのだろうか。当時の私には理解できなかった」
と納富善蔵は書いているが、すでに戦意を喪失した敗残退却中の部隊ではあっても「牡丹江に向けて転進を命ぜられている」という日本軍に、自分の願いが聞き入れられる筈もないことを団長は確認する。
絶望していたものの、それでもなお貝沼団長は、後方待機中の部隊を見つけて開拓団の護衛を頼むように、納富善蔵を伝令として出発させたのであった。
後尾集団の笛田道雄が退避途中で出会ったのは、この時の納富善蔵である。
「馬二頭を選び白だすきをかけて伝令に出た。ぬかるみの道を十粁ほど飛ばして、山中に日本軍が退避しているのを見つけた。”哈達河開拓団の者ですが、団長の命令でお願いに来ました。団員全員を安全地帯まで護送願いたい”再三お願いするも聞き入れてくれない。隊長らしき人が出て来て”我々の任務は開拓団の保護ではない。気の毒だが、そのように伝えてくれ”とすげない返事であった。それでも何とかできないでしょうか、と必死にお願いしたが駄目であった。あまりにしつこいので或る兵隊の如きは国賊呼ばわりをして銃殺寸前までいった」
「私の力が足りず、ついに兵隊の保護は受けられなかった。今にして思えばあの時寛大な気持ちの兵隊が開拓団の保護を引き受けてくれたら、あのような惨事は起こらなかったのではないどろうかと残念でならないと同時に私の力の足りなかったことに責任の一端を感じております」
「二頭の馬もついに一頭は斃れた。肩にかけた白襷も真黒になり、流れ弾をくぐり抜け開拓団員の避難所に帰って、この旨を団長に報告する」(『麻山と青年学校生徒』)
納富善蔵から報告を受けて団長は、「わかった」と沈痛な面もちで言葉すくなにうなずいた。
この時、すぐ上の山の斜面を、草をはね散らしながら、遠藤久義、吉岡寅市の二人が駈け降りてきた。彼らはこの避難集団の最先端を行っているはずである。
何ごとか!
二人とも顔面蒼白で、ただならぬ気配である。
みなが彼らのまわりに集まった。
二人は団長の前に立つが、大きく見開かれた目と口もとが痙攣するのみで、声にならなかった。
「どうしたのかッ」
鋭くうながされて、二人はようやく、前方にて突然攻撃を受け、団員多数が戦死または四散して行方不明となり、自分たちは家族一同を処置して報告に戻った旨を伝えた。
・・・
遠藤、吉岡両名の報告を、終始、無言で聞き終わった団長は、納富善蔵ほか青校生二、三名を連れて、みずから偵察のために山を登った。
この偵察地点から、直接、敵の姿は見えなかったが、銃声は前方からだけのものでなく、さらに右翼側面にも拡がりつつあり、戦場の広がりを感じさせていた。麻山にいたるこの軍用道路にも、時を経ずしてソ連戦車がやってくるに違いなかった。(事実、この時、先頭集団では貝沼団長夫人や上野菊枝らがかくれていた包米畑から何人かが軍用道路に追い立てられ、山形の植松慶太郎ほかが射殺されている)
「その時団長は何を考えていたのだろう。察するに余りあります」(納富善蔵・手記)深い絶望感をその背中に見せながら「厚い唇を噛みしめ、腰に吊した軍刀をひきずる様にして斜面をおりて来た」(衛藤通夫「参議委員証言速記録」)団長を、待ちかまえていた一同がさっととりまいた。
団長は今までに見せたことがない厳しい表情で、重い口を開いた。
「自分たちは、今来た道を残すのみで、完全に包囲されている」
中央集団にいた及川頼治が、記憶の中からこの時の貝沼団長の言葉を記録している。
前方にはソ連機械化部隊が砲門を開き、後方にはまたソ連戦車が迫っている。日本軍さえ敗走するこの状態の中で、脱出する道はほとんど断たれたといってよい。
もし脱出するにしても全員が行動を共にすることは先ず不可能であると思う。
この際自分には二つの方法しか考えられぬ。その一つは、入植以来一家のように親しんできた人達がつらいことだとは思うがばらばらになって脱出することである。
もう一つの道は生きるも死ぬも最後まで行動を共にすることである。何れを取ったらよいか意見があったら聞かせてほしい」(『麻山の夕日に心あらば』)
身近に迫る銃砲弾の響きも人々の耳から消え去り、<ついに来るべきものが来た!>という感慨の中で、重苦しい沈黙が人々の間を流れた。
やがて嗚咽(オエツ)と慟哭(ドウコク)が津波のように広がって、その中から「私を殺してください」と、まず女たちが声をあげた。
同時に男子団員からも「自決だ!」の声があがった。
「自決しよう」
「日本人らしく死のう」
「沖縄の例にならえ」
「死んで護国の鬼となるんだ」
そんな言葉がつぎつぎと発せられた。
団員がそれまで肌身につけていた故郷の父母の写真、応召中の夫の写真、貴重品、さらに奉公袋などの軍関係の品も山と積まれて、火がつけられた。
及川頼治の妻が、荷物の中から晴れ着を出して子供たちに着せ、自分もまといつつ、夫に向かっては新しい下着を取り出して渡した。
何も語らずとも、すべて通じ合う夫婦の姿であった。
あちこちで同じの者同士が円陣をつくり、荷物を解いて白鉢巻き、白襷をしめ、沢の水で、親子、の人々と水盃を交わしていた。死を前にした最後のひとときである。
木村辰二警察隊長の記録。
「其の時まで冷静であった応召者の婦人たちは、夫の写真に頬ずりせんばかりに別れを惜しみながら火の中に投じ、燻る写真を見守り、流れる涙を拭きもせず泣き崩れる姿が私の心に強く残されている。私も管内の人々と運命を共にして此の場に於いて自決することに決めた。妻も言わず語らず既に覚悟を決めていた。
自分も所持していた現金、時計、警察手帳など全部焼き捨てた。
(哈達崗空襲時に馬が狂奔し)家族全員が着のみ着のままになっていて、妻の乱れた髪をさばく櫛さえなく、三日二晩の強行軍と一夜の土砂降りの豪雨で、泥に汚れた惨めな姿で最後を遂げることがあまりに可哀想であっ。た。
この哀れな妻の姿を見兼ねて開拓団の一婦人より晴れ着を与えられ、服装を整えられた。他の婦人からは死出の化粧品まで恵みを受けた」
「お先にまいります」
「お世話になりました」
東海警察隊長着任以来三ヶ月を経たばかりで、いまだに顔さえ知らない人々が、つぎからつぎから挨拶に来た。
木村辰二はその一人一人に、自分もまたすぐ後から追死することを約束するが、この時、貝沼団長のまわりに集まっていた団員の中から斬込隊結成の声が上がった。声の主哈達河小学校長の衛藤通夫であった。
自分ももちろん自決することに賛成である。しかし男としてなすこともなく、このまま自決することは何としても口惜しい。一人でもよいから敵を倒し、それが叶わないまでも、敵の足一本、腕一本でもよい、敵に一矢報いてから死にたいというのがその趣旨であった。
団員の間に多くの賛成者が出た。
瞑目してそれらの声を聞いていた団長が、最後の断を下した。
「自分としても今となっては死ぬのが最善の方法かと思う。沖縄の人達も最期を飾って自決した。捕虜となって辱めを受けるよりは自決の道を選ぶのが祖国に復帰する最善の道であると思う。しかし、男子は一人でも多くの敵を倒してから死ぬべきであるかもしれない。
最後迄行動を共にできないのは残念だがそうすることが日本男子の義務であろう」(『麻山の夕日に心あらば』より・及川頼治)
と言いつつ、自分は開拓団の責任者として、女、子供たちと行動をともにして、死出の途への先導をする旨披瀝(ヒレキ)した。
貝沼団長は斬込隊長に木村隊長を要請し、南郷開拓団の桜井広人ほかと、納富善蔵ら青校生四名を自決完了までこの地の警備に当たらせるにして出発させた後、一同とともに東方を遙拝、万歳を三唱し、右手に持った拳銃でみずからのこめかみを撃ち、どうと倒れた。
あたかも、自決の作法を示すような、また死への先導に価する従容とした姿であったという。
「最後の決心がきまると一同団長の周りに集まりお互いに別れの挨拶を交し、十年間のお礼を言い合った。
私に”お先に──と涙を浮かべて挨拶にくる者、中でも教え子達は真白な鉢巻きをしめて、先生、
お先に、と涙も見せず挨拶する。私は一人一人に”立派に死んでくれ、私もすぐ行くからね”と立派に言ったつもりが、かすれて声にならなかった。
私はそれまで携行していた学校関係の重要書類と貴重品を焼き捨てた。
馬車から取り出した毛布をしいて一家三人その上に坐った。いまが最期と思えば腹も据わり気も落ち着く。
妻と顔を見合わせる。妻は淋しく笑って、小さな声で”幸福な十五年でした”、悔いなき一生だった”と私はつぶやいた。それだけが二人の最後の会話になった。
妻が最後まで手離さず持っていた振り袖を着せてもらって大喜びの数え年七歳の真知子を膝の上に抱き上げると真知子は私の耳に口を寄せて”あのね、お母ちゃんが良いところへ連れて行くって……そこには飛行機ないね”と言う。
この三昼夜の爆撃に防空頭巾の中で怯えていた娘がいじらしくて仕方がない。
私が本部詰めで傍らにいてやれなかったので、敵機の来る度に母親と二人でどんなに心細いおもいをしていたことか。
十一日に私が妻子の馬車の側に来たら、私のこの娘は私を離そうとしなかった。
そして今日はお別れだ。
”父ちゃんも少し遅れるけどすぐに追いつくからね”と私の銃で倒れた真知子。そして妻も胸に一発受けながら”もう一発”と叫んで倒れていった」(衛藤通夫「参議院証言速記録)
つぎは南郷開拓団で使っていた現地人傭人の李壮年に関する記録である。これによると、これまでの危険な難行軍の途中でほとんどの傭人たちは逃亡したが、何人かの者たちが麻山まで従って来ていたことがわかる。
この中の李壮年の場合は特殊な例であり、笛田道雄が資料探しの中で死亡者名簿によってその事実を確認している。
前出、高橋庄吉の「哈達河(南郷村)開拓団避難概況報告書」にはつぎのようにある。
「茲ニ至リテ之迄団員輸送ニ従事シタル満人達ヲ即刻解散サセル可ク其ノ意ヲ打明ケ、何レ捨テルベキ金品ヲ全部与エタリ。満人達ハ何レモ喜ビ謝シツツ之ヲ受ク。李壮年モ金品ヲ受ケタリシモ各団員ノ自決ヲ決セシ態度ト其荘厳サノ感ニ打タレ、一時ハ帰宅セントセシガ心ニ決スル所アリテカ自ラ自決ヲ志願ス。
貝沼団長ハ再三、再四帰宅ヲ促シタルモ聞キ入レズ止ムナク自決ノ員ニ加エタリ。実ニ満人トハ言イナガラ団ノタメニ忠実ニ働キ然モコノ変ニ際シテモ之マデヨク団員ノ為ニ尽力シタル上、出発当時ノ約束ヲ実行セルガ如キ、実ニ日本人同様ノ精神ト全員深ク頭ヲ垂レテ尊敬ノ念愈々厚シ。
他ノ満人達ハ全員ニ別レヲ告ゲ一路哈達河ニ向ケテ出発ス。
貝沼団長ハ此ノ李壮年ノ自決志願ニ、僅カ二ヶ月ノ短期間、南郷開拓団ノ苦力トシテ働キシニ過ギヌニ、皆川団長ノ彼ニ対スル使イ方、且ツ他ノ満人達ニ対シテモ、如何ニ温愛情味ニカラレル使イ方デアッタカ、其ノ様ガ思イ出サレルト感嘆ノ度ヲ洩ラス」
・・・以下略
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