「南京大虐殺の証明」(朝日新聞社)で、洞富雄氏は、下記資料1のような長勇参謀の驚くべき命令を紹介している。
そして、この時の長勇参謀命令の無差別的虐殺は、角良晴(上海派遣軍松井石根司令官の専属副官)氏が「支那事変当初六ヶ月間の戦闘」(南京戦史資料集:偕行社)で目撃を明らかにした草鞋峡(揚子江岸、下関下流)における12、3万の中国兵を含む中国人の死体とは関係ないものであろうという。
その上、角良晴が目撃した死体は、東京裁判に提出された『南京慈善団体及ビ人民魯甦ノ報告ニ依ル敵人大虐殺』におさめられている魯甦という中国人(事件当時警察官)の虐殺証言と符合するものであるという。数は異なるが、魯甦の証言は、幕府山付近の四、五カ村に収容されていた軍民5万7418人が下関・草鞋峡の間で虐殺されたというものである。
また、下記資料2のような非戦闘員を含む中国人の無差別的虐殺が記録された「従軍日記」が発見されたことも明らかにしている。第十軍・第六師団に関わるものであるが、とても戦闘行為として合法化できるものではないと思う。いずれも、「南京大虐殺の証明」洞富雄(朝日新聞社)からの抜粋である。
資料1ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
終章 大虐殺否定論を圧倒する日本軍将兵の証言
3 非戦闘員の組織的・無差別的虐殺の新証言
・・・
長勇は、独断で一般市民大虐殺の命令を発しただけでなく、実際に現場で、実行をひるむ兵士を非常手段でもってけしかけたことを、やはり自ら語っている。長はその事実を藤田勇に秘話し、藤田がまた、これを徳川義親に語っているのでる。徳川義親は1973年に著した自伝『最後の殿様』(1973年、講談社)で、その伝聞をこう述べている。
《ぼくが慰問を終えて帰国の途についた数日後のことだが、日本軍が南京で大殺戮をおこなった。殺戮の内容は、10人斬りをしたとか、百人斬りをしたとかいうようなものではない。今日では、南京虐殺は、まぼろしの事件ではなかろうか、といわれるが、当時僕が聞いたのは数万人の中国民衆を殺傷したということである。しかもその張本人が松井石根軍団長の幕僚であった長勇中佐であることを、藤田くんが語っていた。長くんとはぼくも親しい。
藤田君は、ぼくが中国を去ったあとも、まだ上海にとどまっていた。麻薬のあと始末や軍と青帮との交渉などをしていたときに、南京から長勇中佐が上海特務機関にきて、藤田くんに会った。長中佐は大尉のとき橋本欣五郎中佐の子分になって、10月事件では、橋本くんを親分とよび、事件に資金を出した藤田くんを大親分とよんで昵懇にしていた。そのうえ2人は同郷の福岡の関係でいっそう親しい。その親しさに口がほぐれたのか、長中佐は藤田くんにこう語ったという。
日本軍に包囲された南京城の一方から、揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒濤のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。中国兵がまぎれているとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して
「人をころすのはこうするんじゃ」
と、軍刀でその兵士を袈裟がけに切り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。長中佐が自慢気にこの話を藤田くんにしたので、藤田くんは驚いて、
「長、その話だけはだれにもするなよ」
と厳重に口どめしたという》(172~173ページ)
ここに語られているのは、前記の18日の夜におこなわれたと推測される草鞋峡辺における一般住民の大虐殺とは別個の事件であろう。おそらくこの事件は、12月13日・14日におこなわれた掃蕩戦の際に起こった事件と推測される。
[注記]角氏の証言は、「一般住民」の大量虐殺をあえてさせた長勇参謀の暴虐を実証するものであるが、長はまた、やはり独断で命令を下し、捕虜の大虐殺を実行させた、と豪語してもいる。この件については、前項で述べておいた。長勇のこの大言壮語は戦中すでに各方面で語られていたようであるが、田中隆吉は、当時これを長勇から直接聞いて、戦後、その著『裁かれる歴史』に詳しく書き伝えている(310~311ページ)
田中隆吉は、「長氏の残忍性は、通州の報復を名とする、この大量の虐殺を生んだ」とも言っているが、中国人を人と思わぬ残忍性の点では、田中隆吉も長勇と負けず劣らずだったようである。1936年5月、同盟通信の上海支社長だった松本重治氏が、新京において、関東軍で謀略を担当していた参謀の田中隆吉と会談したとき、田中は松本に「君は中国人を人間として扱っているようだが、僕は中国人を豚だと思っている。なんでもやっちまえばいいんだ」(『上海時代』中、209ページ)と言ったという。
第十六師団中島今朝吾中将も同類である。敗戦時、東部憲兵司令官だった大谷敬二郎氏は、その著『陸軍80年』で、「昭和13年1月はじめ、南京を訪問した陸軍省人事局阿南少将が中島中将に会ったとき、”支那人なんかいくらでも殺してしまうんだ”とたいへんな気焔をあげていたとも伝えられていたが、この司令官のもとでは、殺人、掠奪、強姦も占領軍の特権のように横行したであろう」(226ページ)と言っている。
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第十軍・第六師団・歩兵第二十三連隊(都城)による南京城西壁水西門付近(?)での投降兵約2000人を処刑 (12月15日)
1984年都城連隊の一上等兵の従軍日記が宮崎で発見されて、『朝日新聞』の8月15日号で紹介された。その12月15日の条に、
《今日、逃げ場を失ったチャンコロ約2千名ゾロゾロ白旗を揚げて降伏せる一隊に会ふ。老若取り混ぜ、服装万別、武器も何も捨てゝ仕舞つて、太道に蜿々ヒザマズイた有様は、まさに天下の奇観とも云へ様。処置なきまゝにそれぞれ色々の方法で殺して仕舞つたらしい》
とある。この書きようだと、はたして捕虜を処刑したのが都城連隊であったか否か疑わしくもある。また 「老若取り混ぜ」とあるところを見ると、中には非戦闘員もまじっていたようであるから、あるいは他部隊が 便衣兵狩りでどこかから連行して来て、筆者の大隊が駐屯していた水西門外500メートル近くで処刑したもののように考えられなくもない。
第六師団の捕虜虐殺といえば、神戸に在住する元上等兵の証言によって、同氏の所属する一部隊(都城連隊ではないが)が、南京から蕪湖へ移駐する途中で、捕虜の大群を機銃掃射で抹殺した事実が、最近明るみに出た。『毎日新聞』の1984年8月15日号は、この事件について、次のように報道している。
《集団虐殺は児玉さんらが南京郊外の駐屯地から南西約60キロの蕪湖へ向けて出発した同月(12月ー洞注記)16日ごろ行われた。児玉さんらに、揚子江近くの小高い山に機関銃を据え付けるよう命令が下った。不審に思いながらも山上に銃機関銃を据え付けると、ふもとのくぼ地に日本兵が連行してきた数え切れないほどの中国兵捕虜の姿。そこに、突然、「撃て」の命令。機関銃が一斉に乱射された。
「まるで地獄を見ているようでした。血柱が上がるのもはっきり分かりました」。機関銃は約50メートル間隔で「30丁はあった」いう。「なぜ捕虜を殺したのか。遺体をどう処理したのか、他のどの隊が虐殺に加わったのか。私たち兵隊は何も聞かされなかった」と、児玉さんはうめいた。》
ところが、先に紹介した、新発見の第六師団都城第二十三連隊の一上等兵の従軍日記には、日本軍兵士たちの中国人無差別虐殺の非行の有り様が、やや具体的に書き残されていた。これはいうまでもなく一級資料である。
その12月15日 の条に、次のように言う。
《近頃徒然なるまゝに罪もない支那人をつかまへて来ては、生きたまゝ土葬したり、火の中に突き込んだり、木切れでたゝき殺したり、全く支那兵も顔負けする様な惨殺を敢へてし喜んでゐるのが流行しだした様子》
また同月21日の条には、こう記されている。
《今日も又、罪もないニーヤを突き倒したり、打つたりして半殺しにしたのを、壕の中に入れて頭から火をつけなぶり殺しにする。退屈まぎれに皆面白がってやるので有るが、これが内地だったら大した事件を引き起こす事だらう。まるで犬や猫を殺す位のものだ。これでたゝられなかったら、因果関係とか何とか云ふものはトントンで無有というふ事になる》
都城連隊といえば、翌1938年おこなわれた漢口攻略戦の時、南京の轍をふむことをおそれた第十一軍司令官岡村寧次中将(のち大将)が、第六師団のなかでは、「最も軍、風紀の正しい」部隊として選抜し、漢口進入部隊にあてたほどであるから(『岡村寧次大将資料集』(上)「職場回想扁」1970年 原書房)これはよほど優秀な部隊のはずであるが、この都城連隊すら、実際はこうした一面が見られたのである。
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