真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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アサド政権報道、メディアは権力の道具?

2024年12月24日 | 国際・政治

 私は、ウクライナ戦争に関し、日本の主要メディアが、読者や視聴者に、客観的事実をつた伝えていないと何度も書いてきました。ロシア側の主張やウクライナの親ロ派と言われる人たちの主張は、ほとんど取り上げられなかったからです。

 両方の主張をきちんと受け止め、客観的事実を確かめて戦争を止める努力が必要なのに、はじめからロシアを敵視するアメリカの戦略に従って、ロシアに制裁を科し、ウクライナ側の戦争支援の報道を続けてきたと思います。日本政府がそうした姿勢だからといって、メディアもそれに同調するのは間違いだと思います。メディアには、国際社会全体の利益のために、すべての人々に客観的事実を伝える責任があるのです。客観的事実を伝えることが、権力を監視することにもなるのだと思います。それをしないのは、平和主義の否定であり、民主主義の否定だと思います。そういう意味で、日本の主要メディアは、「権力の監視」ができていないだけではなく、すっかり「権力の道具」になってしまっていると思いました。

 

 そして今、中東のアサド政権に関し、ふたたび同じような偏った報道していると思います。

 朝日新聞は、このところ毎日のようにシリアに関する記事をデカデカと掲載しています。それらの記事で、読者はアサド政権がどれほど酷く、恐ろしい政権であったかということを深く思い知るのだろうと思います。でも、私は、それらの記事をそのまま信じてはいけないと思います。やはり、アサド政権側の主張もきちんと聞くべきだと思うのです。

 

 朝日新聞の記事の見出しを書き出します。

 16日「強権統治に幕 シリアの首都は今」「抑圧の象徴 破られたアサド氏の写真」「金曜礼拝に熱気『生まれ変わったよう』」

 20日「シリア 絶望の収容所」「むち打ち・逆さづり・看守に『私を撃って』」この見出しの記事には、下記のような文書がありました。

 

様子を見にきていたサレハ・ヤヒヤさんは20133月中旬に拘束されてから、4カ月半をここで過ごしたという。換気の悪い不潔な房内では、みんなの頭にシラミがわき、皮膚病にも悩まされた。当時、狭い房に百人以上が収容され、立ったまま眠る事を強いられた者もいた。収容者のうち20人が拷問で死亡したという。ヤヒヤさんもこの上の階に連行されるとむちで打たれたり、天井から逆さづりにされたりする拷問を受け、尋問された。ヤヒヤさんは「死ぬほどつらかった。鉄の扉に開いた小窓越しに、『私のことを銃で撃ってください』と毎日のように看守に頼んだ」と振り返った

 

 22日「アサド政権下の『強制失踪』 数万人不明のまま」「貧者のコカインがここで」「アサド政権資金源 麻薬密造の現場」

 22日別の紙面には「ここで自由語れる幸せが」「シリア解放 統治の行方はまだ見えず」とありました。

 

 私は こうした朝日新聞の記事が、客観的事実を伝えていないだけでなく、アメリカを中心とする西側諸国の権力に都合の良い内容に変えられてているのではないかと疑うのです。

 下記の「報道されない中東の真実」国枝昌樹(朝日新聞出版)からの抜粋文は、それを示していると思います。シリアは反米の国であったがゆえに、客観的事実の報道がなされなかった現実があるのです。

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                  第一章 シリア問題の過去・現在・未来

 

 きっかけはインターネット解禁

 20112月、米国の働きかけにも応えるため、シリア政府はインターネットに対する制裁を撤廃した。すると、国外に居住する反体制派シリア人たちはインターネットを通じて国内のシリア人に対し政権への蜂起を呼びかける動きを起こした。

 シリアでは政権党であるバアス党とムスリム同胞団との間で深刻な抗争が長年続いており、1963年にバアス党が政権を奪取すると政権対同胞団の抗争になった。世俗主義のバアス党に対し、スンニー派保守イスラム主義政党としてのムスリム同胞団は互いに水と油である。70年代後半以降、同胞団は組織的テロ活動を行って政権に挑戦した。

 

 さかのぼること1982年、シリア国内のハマー市でムスリム同胞団が政府に対して武装決起すると政府軍が徹底的に弾圧した。その際国外に逃れた知識人を父とするスウェーデン在住のあるシリア人は、直ちに「2011年、シリア革命」というサイトを立ち上げると、国内外のおおく多くのシリア人がアクセスし、蜂起を呼びかける数多くのメッセージで瞬く間に注目を引くサイトになった。

 3月に入り、中旬になるとこのサイトに呼応する形でダマスカスでも百人余りのデモ集会が当局の制止を振り切って敢行されては解散させられ、南部ヨルダンとの国境付近の町ダラアでもでもデモが発生した。ダラアではチュニジアやエジプトなどでの模様をテレビで見ていた中学生たち13人が軽い気持ちで学校の壁に政権打倒の落書きをすると、直ちに治安当局は彼らを捕まえてどこかに連れ去った。何日も子どもたちの行方は知れず安否を心配する親たちに同情した数千人の市民は同月18日、金曜日の祈りをモスクで終える街路に出てデモを始めた。彼らは「アッラ、シリア、自由、それだけで十分だ!」と叫んで子どもたちの釈放を訴え、傲慢な県知事と治安機関責任者でバシャール・アサド大統領の母方の従兄弟であり、威張るだけの嫌われ者アーティフ・ナジーム大佐の解任を要求した。治安当局がデモを阻止し始めると、混乱の中で市民の間に4人の死者が出た。このニュースは直ちに全国に伝わった。

 この事件は、シリアを血で血を洗う抗争に一気に向かわせた。シリア国内で最大の都市首都ダマスカスと第二のアレッポを除く全国の主要都市で多くの市民が街路に出て政府に要求を突きつけ、政権打倒の叫びを上げることになった。

 

 ダラア事件の陰謀

 ダラアでの死亡事件を懸念したアサド大統領は、翌日の葬儀に大統領名代の弔問使を急遽派遣した。イスラム世界では人が死ねば死んだその日にあるいは翌日には葬儀を行ない、直ちに土葬する。ターメル・アルハッジャ地方自治大臣とファイサル・ミグアード外務副大臣が弔問使として派遣され、葬儀の場で大統領の哀悼の意を伝えた。

 地方自治体人は所轄大臣である。ファイサル・ミグアード外務副大臣がもう一人の弔問使とされたのは、ミグダード家がダラアの名家であって、ファイサル・ミグダードは大統領の側近として地元ではよく知られた存在だったからだ。葬儀ではダラア市を代表するアリ・オマーリ・モスクのアハマド・サヤスナ首席導師が「今は非常に微妙な時期にあり、ダラア市民は一致団結してこの難局を乗り越えよう」と冷静に訴えた。

 その後、子供たちは釈放され、内務省内に事件の調査委員会が設置され、県知事は解任、大統領の従兄弟の治安当局責任者は更迭された。

 そのころ、事件を報道する国内外のメディアは、シリア国営通信を除きすべてが、数千人の市民が平和的にデモを挙行しているところに治安当局が一方的に介入し、発砲して死者を出したと繰り返して報道し、いよいよシリアでも「アラブの春」の動きが始まったとして国際社会の関心を引いた。23日になると政府系報道機関は武装グループが治安部隊と医療部隊を襲い、医師、運転手そして治安部隊が殺されたと伝えたが、このニュースは国際社会の中で関心を引くことなく埋没した。

 シリアでの民衆の蜂起と政府治安組織、軍事による弾圧について、欧米諸国を中心とする国際社会とメディア報道はこぞってこう説明する。

 

”シリア民衆は長年アサド氏による独裁政権の下で抑圧状態に置かれていたが、「アラブの春」に呼応してついに彼らは立ち上がった。それは自由と民主主義を求める市民による平和的な行動だった。この動きに対し独裁政権側は始めからかたくなな姿勢をとり軍事力をもって弾圧したために、時間が経つにつれて市民側では自己防衛を図るために武装化のやむなきに至り、事態はやがて政権側と平和的に蜂起した民衆側との間の武装抗争に発展した。一方、国内における統治権力の空白に乗じてアルカーイダ系の過激派武装組織がイラクから侵入し、自己増殖を続けてその勢力を拡大し、シリア国内行政は混乱の極みに陥っている。”

 

 ダラア市民が子どもたちの釈放を求めてデモ行進をしたところに治安部隊が介入して4人が殺されたという事件は何だったのか。318日に市民が殺され、その葬儀に大統領が弔使を派遣したことは、政府が死亡事件に責任を認めたことを意味しているではないか。20144月にそう問う筆者に対して、弔問使だったミグダード外務副大臣は次のように語った。

 

”それは違う。当時、政府部内では4人の死亡事件について事態の解明ができていなかった。だが、とにかく市民の生命が失われた痛ましい事実について大統領の弔意を伝えるために派遣されたものだ。事件に政府として責任を取ったものではない。”

 

 同副大臣は生粋の外交官である。ダマスカス大学英語科を卒業して留学後に入省し、国連代表部に一等書記官として赴任し、そのうちに参事官に昇任し、そのまま国連代表部大使になった。帰国して副大臣になり8年になる。同人ははっきりと物事を言い、言えないことは決して口にしない代わり、適当なことを言ってその場を取り繕い相手を誤導することを絶対にしない。治安機関長官たちと日常的事務のやり取りをして国内治安情勢にもよく通じている。大統領の信任が厚く、ダラア出身であるためにファルーク・シャラアエ前副大統領(元外相)と近い。

 一方、ウムラン。ズアビ情報大臣は、同じ問いに対してこう述べる。

 

”自分がまさにダラアに在住していた時に起きた事件だが、死亡したのはダラア市民で、しかも地方政府職員だった。

 民衆が子供たちの釈放を求めてデモに出たと報道されたが、それはデモの表向きの口実にすぎない。当時、彼らの背後にはすでに外国からの働きかけがあったことを指摘しなければならない。具体的には、デモに先立ってカタールに在住するムスリム同胞団のカラダウィ導師がダラア市内の導師に電話をよこし、ダラア市内で民衆をデモに駆り立てるためには、どれほどの資金があればできるかと紹介してきた事実がある。この電話を受けたダラア市内の導師は自分の知人で、自分は彼から直接この事実を聞いた。カラダウィ導師のこのような動きは、氷山の一角であって、当時のデモは外国からの働きかけがあった上でのものに違いない。加えて、ダラアはヨルダンとの国境に近く、同じ部族が国境を跨いでヨルダン側との間で密輸に携わっているが、自分は当時ヨルダン側から武器がい密輸入されていたことを知っている。一連の事態にはアフガニスタン帰りのシリア人たちが絡んでおり、自分はダラアでの民衆蜂起は決して平和的なものではなかったと確信している。”

ーーー

ウムラン・ズアビ情報大臣は1988年から20003月まで首相を務め、首相解任後汚職を追求されて自殺したマハムード・ズビアの姻戚にあたる。アサド政権とは微妙な立場にあった人物だ。当時、彼はまだ政府内で要職にはついておらず、ダラア市内で刑事事件を取り扱って活動する弁護士だった。閣僚起用は翌年のことだ。

 前出のミクダード外相はこうもを語る。

 政権打倒の落書きをした子どもたちが逮捕取り調べを受けたのは事実だ。その取り調べは隣接県のスウェイダで行われた。だが、当時報道されたように治安当局が子ども達を何日間にもわたって拘束した事実はない。親たちが子どもたちの釈放を願ってデモに出たというのも事実ではない。自分は巷間にいわれる陰謀節には決して与しないが、シリアでの武力闘争の先駆けとなったダラアの出来事は、自分には事前に外国から介入があってのものとしか考えられない。最初の事件が起きてから間もなくダラアでは24人の警察官が殺され、この事件は当時政府では緊迫した社会情勢の中で事態を煽る結果とならないように報道することを控えたのだったが、当時の判断は妥当ではなく、悔やまれる。欧米諸国は民衆蜂起の初期から武装グループが活動していたという事実を知っていたと、自分は強くそう思っている。彼らが口をつぐんでいるだけだ。その後自分の妹の11歳の息子が誘拐されて42日間監禁され、さらに80歳余りの父が18日間誘拐される事件が発生した。

シリア政府の関係者ではあるが、ある人物はこう語る。

 

”反体制派は宣伝にたけており、何でも直ちにユーチューブやフェイスブックに掲載して宣伝するが、ダラアの民衆蜂起のきっかけにされた落書きをして捕まったという子どもちは騒動が長引いても誰一人としてその種の宣伝画面に出てこず、また釈放を訴えたという親たちも同様だ。これがどのような意味をもっているのか考えてほしい。”

 

 こう言って、彼は当時の報道に対して疑問を提示した。

 これらの証言は皆、政府関係者のものである。だからと言って、彼らの証言が政権を代弁する偏向した内容だとして一蹴することは適当ではない。201148日シリア国営通信は、同日ダラアのオマリ・モスク近辺で武器を携行せず警備をしていた治安警察車を武装集団が襲い、治安兵士と警察官19人が殺され75人が負傷し、多数の市民に犠牲者が出たことを報じた。アルアラビーヤビ衛星TV局もシリア国営通信のこのニュースを報道した。同日、内務省は今後このような武装集団に対して毅然と対処する旨の声明を出した。

 201110月になるとアルジャジーラ衛星TV放送がシリアのスンニー派最高位の導師であるバドルエッディーン・ハンスーン大法官の発言を報じた。大法官はいくつか語った中で、「民衆蜂起の最初の月には反対派の死者よりも政府側兵士の死者のほうが多かった」とも述べた。反体制派側に強く傾斜するアルジャジーラがこの発言をそのまま報道したことは興味深い。

 同放送局のベイルート支局長アリ・ハシュムは同僚とともに同地に着任直後の20114月に武装レバノン人グループがシリア国境を越えてシリアに入国し活動している事実を確認したが、アルジャジーラ本部ではこのニュースに関心をもたず、5月には映像とともに報道したが本部では別の映像とすり替え、同支局長はやがて抗議の辞職をしている。さらに、筆者の知人で国外に長らく居住するアラウィ派の人物は「治安軍兵士だった従兄弟がダラアでの民主蜂起が始まって間もない時期に同地で戦死した。ダラアの民衆蜂起が平和裏に行われていたというのはまったく事実ではない」と語っている。

 

 

 


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