真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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通化事件 NO2

2016年10月16日 | 国際・政治

 通化事件(つうかじけん)は、敗戦後の1946年2月3日、中国が祖国を取りもどし、初めて迎える正月に、一部日本人が武装決起し、中共軍の司令部やその他の拠点を襲撃たため発生した事件である、といって間違いはないと思います。

 中国共産党占領下にあったかつての満州国通化省通化市で、元通化第百二十五師団の参謀長、藤田大佐が決起指令書を発し、中国共産党軍の拠点を襲撃したため、中国共産党軍(八路軍)および朝鮮人民義勇軍南満支隊(新八路軍)が、襲撃に関わったと考えられる3000人ともいわれる日本人(一部中国人を含む)を虐殺した事件です。でも、日本では下記のように

「中国八路軍のことごとに理不尽な暴圧に堪えかねた旧日本軍の一部と、在留邦人の中の抗議派の人々が、国府軍と手を組んで、ついに立ち上がった」

と、中国人の残虐性を並べたてて、それが日本人の武装決起につながったのだというようなことを言う人たちがいます。でも、こうした受け止め方は、少々事実に反するように思います。

 藤田元大佐が、武装決起の指令書を発した時、何を考えていたのかは知りません。でも、日本が降伏し、関東軍が武装解除された後に、藤田元大佐の指令を受けて、一部の日本人が再び武装決起し、中共軍の司令部やその他の拠点を襲撃したことが、残虐な通化事件のきっかとなったことは否定できないと思います。
 中国人が日本人に大変な恨みを抱いていたことは、農民などを中心にした抗日組織があちこちにあったことや、通化の街で、15日を境に、中国人の略奪が始まったことなどでわかります。そうした中で、無条件降伏した敗戦国の日本人が再び武装決起し、拠点を襲撃したことが、火に油を注ぐ結果になったのではないかと思います。

 関東軍総司令部に正式に降伏と停戦の命令が伝えられたのは8月16日の夕方。関東軍はそれを受けて幕僚会議を開き「即時停戦」を決定しています。そして傘下の部隊にそれを伝達したのです。にもかかわらず、藤田大佐は、「関東軍命令をきかない」と、草地作戦参謀に電話をし、師団の公金や食糧を車に積み家族を連れて逃亡したといいます。なぜ、関東軍山田乙三総司令官の決定を受け入れなかったのでしょうか。国民党と手を結べば、日本の無条件降伏を取り消せるとでも考えたのでしょうか。藤田元大佐の武装決起の指令は、当時の国際情勢や日本の実態、日本人居留民の逃避行の状況などを考慮した判断とは思えません。

 私は、藤田元大佐の決起指令を、「中国八路軍のことごとに理不尽な暴圧に堪えかね…」と受け止めることには無理があると思います。8月16日の時点で、藤田大佐が日本の無条件降伏による関東軍の「即時停戦」命令を受け入れなかったことやその他の事実が、「暴圧に堪えかね…」ということが決起の直接的な理由ではなかったことを示しているように思うのです。
 そして、多の人が巻き添えでなくなったことを考えると、見通しのない勝手な判断だったと言わざるを得ないと思います。
 当時、通化の日本人の多くは、中国人の略奪などに対し、自警団を組織し、警備小屋を作り、鉄条網を張り巡らし、夜を徹して見張りをたてたりして、不安に怯えながら帰国の日を待ちつづけていたといいます。
 だから、「共産軍に攻撃をしかけなければ日本人は殺されることはなかったのに…」という言葉に表現されているように、藤田元大佐を中心とする一部日本人の「反乱」が、多くの日本人には、くやしいことだったのだと思います。 

 下記の文章は、「通化事件 共産軍による日本人虐殺事件はあったのか? いま日中双方の証言であきらかにする」佐藤和明(新評論)からの抜粋ですが、著者は、「秘録大東亜戦史」(富士書苑)の満州編下巻の中の、「通化幾山河」と題された山田一郎の文章をもとに書いたといいます。それを一部抜粋しました。
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                    序 通化事件の全貌
 通化、敗戦前夜
 昭和20(1945)年5月。白い柳の綿毛が空を飛びかい駅頭に鈴蘭の花売りが現れる頃、通化の街に緊迫した空気が漂いはじめていた。どこからともなく関東軍の大部隊が通化に移動してくるという噂が広がり、今までに例を見ないほど多くの人たちが招集されていった。
 その頃、関東軍は最後の事態に備えるため、ひそかに「光建設」と名づけた徹底抗戦計画を進めていた。この計画は、本渓湖煤鉄公司(ホンケイコウバイテツコンス)、昭和製鋼所、それに通化市郊外の二道江にある東辺道開発を合併させ、二道江の山岳地帯に溶鉱炉四基をもつ製綱施設を建設し、武器弾薬を自給する一方、対ソ開戦に備え、関東軍の兵員を牡丹江からハルビン、新京を経て奉天に至る線上に配備し、主力を通化を中心とする東辺道に集結させるというものだった。

 6月に入ると、また通化に新しい部隊が到着した。招集によってあたらしく編成された伊万里(佐藤註:今利)中将率いる第百二十五師団である。この師団の参謀長が藤田実彦大佐だった。藤田はかつて華北戦線で鬼戦車部隊長として名声を馳せたといわれ、市民たちは親しみをこめて「髭の参謀」と呼んだという。
 やがて7月がくると、三度目の招集が通化の街を駆け抜けた。しかも軍命令で、、出発は全て極秘のうちに行われた。
 8月9日午前2時。通化の街はすさまじい爆撃音で夢を破られた。午前6時のラジオはソ連空軍の爆撃だったことを伝えた。8日、ソビエトはわが国に宣戦布告し、9日未明にかけてソ満国境全域にわたり侵攻を開始した。
 不安のうちに9日の夜があけ、関東軍の特別列車が通化に到着した。総司令山田乙三大将、総参謀長秦彦三郎中将が幕僚を従え、満州国軍兵舎跡に総司令部を置いた。同じ日、司令部より少し遅れて、政府諸機関が皇帝溥儀とともに通化に近い大栗子(ターリーズ)に居を定めた。司令部に続いて各部隊が通化に集まり、通化市を中心に5万の兵の集結が終わった。
 兵隊で膨れあがった街へ、さらに1万人の避難民がなだれこんできた。第一陣は10日の夜から11日にかけて、新京・寛城子地区の関東軍司令部将校と軍属の家族500人。
 14日、前線に近い通遼方面から約300人。15日、同方面の第二陣120人。つづいて白城子(ハクジョウシ)方面から老人と女子供3000人。9日未明、西部国境の白城子は爆撃と同時にソ連軍戦車の猛攻撃を受けた。男たちはソ連軍に立ち向かうため全員残留した。老人や女子供たちは途中、何回となく中国人の略奪にあい、着のみ着のままで逃れてきたのだった。その後も、貨車やトラック、あるいは徒歩で避難民が通化に押し寄せた。桓仁方面から800、柳川(方面400)、臨江方面から3000とつづき、その数1万3720名、通化在住の日本人を上回っていた。

 関東軍、終焉の日 
 混乱と焦燥のうちに運命の8月15日がやってきた。よく晴れた暑い日だった。
 関東軍司令部では夜を徹して作戦会議が開かれていた。終戦派と抗戦派の妥協なき論争も、山田総司令官の「天皇のご聖断に従う」との一言でようやく終止符が打たれた。
 翌16日、東京へ向かう予定の皇帝溥儀は、奉天飛行場でソ連軍に逮捕された。
 15日を境に無政府状態に陥った通化の街のあちこちで、中国人の略奪が始まった。その最も大きな暴動は20日、満鉄社宅街を中心に起こった。
 翌21日、「日本人居留民会」が結成され、自ら生命の安全を守るため自警団を組織した。
 ところで、8日のソビエトの対日宣戦布告から関東軍が通化に司令部を移動させ敗戦を迎える15日前後は、同一の事件が本によって「発生日」が異なっており、その未曾有の混乱ぶりがよく分かる。「通化幾山河」も、特にこの時期に混乱が見られるが、巻末に添付した「通化事件関連表」の試案では、事実関係を次の通りとした。
・10日前後から、関東軍総司令部、満州国政府、通化に移転を始め、兵5万の集結をはかる。
・12日、山田乙三総司令官、松村知勝総参謀副長ら、飛行機で通化へ
・13日、皇帝溥儀、特別列車で新京を逃れ翌日、大栗子に到着。
・14日、山田総司令官、秦総参謀長ら、飛行機で新京へ向かう。
・16日、関東軍、全幕僚会議を開き「即時停戦」を決議、各部隊に通達。
・17日、第百二十五師団、最後の部隊長会議。藤田参謀長、停戦命令に激昂、同日、藤田逃亡。
・18日、皇帝溥儀、退位式。
・19日、溥儀、通化を飛び立ち、奉天飛行場でソ連に拘留される。
そして、山田総司令官は9月5日、部下30名とソ連軍機で新京を出発、ハバロフスクに到着したのは同日7日とした。

不安におののく日々
 さて、混乱が極点に達した8月23日正午過ぎ、ソ連軍500名が特別列車で到着、関東軍の武装解除を開始し、翌9月1日までに全てを完了した。
 一方、満州各地では国府軍と中共軍の武力衝突が頻発し、やがてそれは規模を拡大しながら通化にも波及してきた。
 敗戦と同時に通化市は国民政府の統治下に入り、旧満州国軍と旧満州国警察官を主体とした国民党軍が通化市の治安に当たっていた。指導者の孫耕暁(ソンコウギョウ)書記長は、元満州国通化省地方職員訓練所長などを務めていたという。

 ところが、ソ連軍に影のように従って通化に入ってきた中共軍は、協力して「日本兵狩り」を行い、ソ連軍が撤収する9月1日、2日以降、通化省憲兵隊跡に八路軍編成司令部を置き、公然と活動を始めた。
 中共軍の最初の仕事は、旧満州国通化省の高級官僚を粛正することだった。通化省長楊万次(佐藤註:楊乃時)、同次長菅原達郎を筆頭に、河瀬警務庁長(佐藤註:川瀬)超通化市長、林副市長、河内通化県副県長らが逮捕され厳しい訊問を受けた。粛正の火の手は官界から民間に移り、日本人の事業主や商店主に対する金品の要求が行われた。この頃から、日本人が日本人を密告するという悲しい事態が起きたり、中共軍の命を受けて日本人をスパイする日系工作員などが生まれた。
 10月中旬、共産軍(中共軍)は国府軍(国民党軍)の本部を急襲し、武装解除を行うとともにその一部を共産軍に編入した。それから間もない23日、華北戦線で日本軍と戦った毛沢東直系の正規軍一個師団が入城した。竜泉ホテルに司令部を置き、劉東元が司令に就任。また元省公署跡に専員公署を置き、陳専員が行政を担当した。通化は完全に中共軍の手中がに握られた。

 しかし、一方では米軍の援助を受けた国府軍が東北奪回を狙って軍を進めているという噂も伝わり、失地回復をはかる国府特務団の工作が活発化してきた。国府軍側の狙いは、中共軍を内部から崩壊させることと、旧関東軍を中心に日本人の武装決起を促し、共産軍を攻撃させることだった。
 11月、中共軍の指導で「遼東日本人民解放連盟通化支部」(略称日解連)が組織され、竜泉ホテルのコックだったという笹野基が支部長に就任する。日解連は中共軍の命令で、日本人の財貨を集めて再配分する「平均運動」を進めようとした。とうぜん財閥といわれる層は猛然と反対した。中共軍はその報復として、日本人に南大営への移動命令を出した。ここは、以前、満州国の兵舎があったところで、敗戦直後は関東軍司令部として使われていた。携行品は毛布一枚と500円しか許さないという。厳しい寒さを控え、日本人に「死ね」というに等しい命令だった。結局、必死の嘆願が実を結び、命令は延期されたが、この頃から日本人の地下運動が活発になり、反乱の動きが次第に現実みを帯びてきた。
 市街では国共両軍の小競り合いが頻発した。10月末の戦闘は3日間も続くなど、日本人の不安は頂点に達し、様々なデマが飛びかった。日本人の不満分子と抗戦派の利害は、国府軍と完全に一致したようだった。とうぜん、これらの不穏な動きは、日系工作員を通じて中共軍に報告されていた。日本人不満分子、国府軍、中共軍ーーーこれら三者は、思惑こそ違え、皆一様に元第百二十五師団参謀長・藤田大佐の行方を探していた。旧関東軍の抗戦派や反乱を企てていた民間人にとって、指導者は彼をおいていなかった。すでに国民党遼寧政府から通化支部に対し、藤田を「軍事委員会顧問」に就任させるとの指令が出ていた。
 一方、中共軍側にとっても、日本人不満分子の精神的支えとなっている藤田の存在は不気味だった。間もなく、八路軍(中共軍)は通化にほど近い石人の炭鉱に家族とともに潜入していた藤田を逮捕した。

「天皇陛下万歳」事件
 11月4日。通化劇場で開かれた「日本人大会」には、朝からの雨をついて2000名以上の日本人がつめかけた。それは、藤田大佐が現れて演説するということが併せて伝えられていたからだった。藤田の人気を利用して日本人大会を開き、その場で藤田に共産軍への強力を呼びかけさせる。これが、劉東元司令が描いた筋書だった。
「いまや人民軍によって治安は回復され、着々と解放の実は上がりつつあります。われわれ日本人としても、その治安下に保護されている限り、軍に協力する義務があると考えます」(前掲「通化幾山河」)
 藤田の演説は抗戦派の期待を裏切った。
 しかし、その時、信じられない事態が起こった。来賓として出席していた共産軍・劉司令の面前で、「宮城遙拝」と「天皇陛下万歳」の動議が採択され、興奮した一部の日本人が壇上に駆け上がり「天皇制打倒」のビラをむしり取った。
 中共側から見ると、この失態を招いた責任者は日解連の指導者であり、とうぜん日本人に対し徹底した思想改造を断行するようにとの厳命が下った。藤田はその日から竜泉ホテルの一室に監禁された。
 そんな矢先の11月14日、通化市郊外の二道江に駐留する八路軍第二団を、国府系の混成軍が襲撃する事件が起きた。八路軍は接収した満州製鉄の製鉄工場に軍工部を設置し、兵器を製造していた。ここには、藤田大佐の息がかかった旧今利師団の将兵100人ほどが潜入していた。襲撃したのは旧満州国軍、警察官、日本兵の混成軍約600名。奇襲は一時的には成功したが、救援軍の逆襲を受けて敗走した。
 通化劇場の「天皇陛下万歳」事件に続く二道江の「八路軍襲撃」事件は、日本人の立場をいよいよ不利なものにした。

国民党と日中連合政府を
 その頃地下組織を作っていた元居留民会代表・寺田山助、赤十字病院としての存続を許されていた元関東軍野戦病院の軍医・柴田大尉らは、藤田大佐救出を画策していた。
 そんなある日、八路軍の司令部から、看護婦を派遣するようにとの要請があった。柴田は、それが藤田つきの看護婦であることを、通化のマタ・ハリといわれた佐々木邦子から聞き、柴田婦長を派遣した。柴田婦長と佐々木邦子にリレーされて、牢獄の藤田と抗戦派の連絡が順調に進み、藤田は国民党の「軍事委員会顧問」に就任し、獄中で反乱軍の指揮をとることになった。11月下旬、中共軍に投降した旧関東軍の航空隊400名が通化飛行場に飛来し(佐藤註:12月下旬隊員は300名)、つづいて戦車隊が到着した。間もなく航空隊の林少佐や戦車隊長は、抗戦派の寺田らに説得され、彼等の計画に加担することを約束した。

 12月6日、国民党の孫耕暁書記長、書記で軍事委員の劉清字、寺田山助、佐藤弥太郎の4名は、国民党の密使・近藤特務工作隊長を迎えた。近藤は工作費10万元と密書を持参した。それは国民党と日本人による臨時日中連合政府を通化に組織するため、かねてからの計画通り武装決起せよという内容だった。近藤はさらに蒋総統は将来、東北四省の独立を考えており、通化の臨時政府は東北政府に発展していくとつけ加えた。
 暮れもおし迫った12月30日午後7時、藤田大佐は中共軍司令部のある竜泉ホテルからの脱出に成功した。満州製鉄東辺道支社に勤めていた栗林という男の家が作戦本部に充てられ、藤田の手であらゆる情報が整理・分析された。
 当初の決起計画と決まった1月1日は15日に延期され、さらに2月3日未明に断行と変わった。これは、予定していた15日に先立つ10日、中共軍による日本人の大量検挙が行われたためだった。高級官吏や居留民会、それに中共軍の手足となって働いていた日解連の幹部らをも含む140名もの人たちが逮捕された。そして、1月21日、河内通化県副県長ら4名が銃殺された。

電灯が三回点滅した──
 決行を明日に控えた2月2日─通行禁止を知らせるサイレンの音が、定刻の8時を過ぎても鳴らなかった。街に大きなぼたん雪が舞い落ち、15、6センチもの深さに積もった。その雪のなかで、藤田から航空隊・林少佐への作戦指令書が途中、中共軍の便衣工作隊に奪われた。
 反乱計画の全貌を知った劉司令は直ちに全市に緊急警戒をしき、栗林家にいた藤田や国民党の指導者たちを次々に逮捕した。しかし、反乱軍は総帥藤田の逮捕を知らなかったのである。サイは投げられた─。
 2月3日午前4時。玉皇山に狼火が上がり、変電所に柴田大尉他3名が突入し、電燈をパチパチパチと3回点滅させた。
 第一中隊長佐藤少尉以下150名をはじめ、第二、第三中隊、遊撃隊は、中共軍の司令部や専員公署、県大隊などに向けて一斉に攻撃を開始した。凄まじい喚声が轟き、激しい銃声が全市を包んだ。
 特に被害がひどかったのは専員公署を襲撃した佐藤中隊だった。中隊150名のほとんどは抜刀隊だったという。ここには、先の1月10日に逮捕された140名が収容されていた。
 「佐藤少尉を先頭に喚声を上げて150名が雪崩を打って斬り込むと、待ち構えたように正面玄関に据えた軽機が火を吹いた。ばたばたと倒れる屍を乗り越えて殺到するなかへ、つぎからつぎに手榴弾が投げ込まれて炸裂する」(前掲「通化幾山河」)
 こうして、第一中隊はほとんどが戦死という壊滅的な打撃をうけて敗走した。さらに悲劇的なのは、自らの意志に反し専員公署の獄舎につながれている人たちだった。中共軍の軽機や手榴弾は、武器のないこれらの非戦闘員にも向けられ、全員が非業の死を遂げた。この日の戦闘で、反乱軍の戦死者の総数は200名を越え、重軽傷者の数はさらにそれを上回っていた。
 恐怖の一夜が明けて、中共軍の日本人に対する取り調べは苛酷を極めた。16歳から60歳までの男子全員が逮捕され、その数は3000名以上に達した。監禁は防空壕や穴蔵、倉庫などあらゆる場所にわたり、「大小便はもちろん垂れ流し」という身動きもできない状況であった。声を出すと銃弾が打ち込まれるなど、それは「生きながらの地獄絵図」であったという。留置中に虐殺されたり凍死や病死した者200名、反乱の事実を自供して死刑にされた者200名など、戦死者を除いて死者は躍600名にものぼった。

 ……通化の街に暖かい風が吹きはじめた3月半ば頃、市内の目抜き通りにある玉豊厚百貨店で、通化事件戦利品展覧会が開かれた。襲撃に使われた日本刀や竹槍などの展示品のなかに、藤田大佐と孫耕暁が並んで立たされていた。藤田は3日間、人々に向かって頭を下げ、「済みませんでした」、「申し訳ありませんでした」とつぶやいたという。
 間もなく藤田は獄中で死んだ。病名は急性肺炎だった。
 4月、長白山の雪解けの水が奔流となって渾江を流れる頃、川面に固く凍りついていた何百もの犠牲者の遺体が、下流へ押し流されていった。
 そして、またあの8月15日が巡ってきた。そんなある日、中共軍の命で日本人大会が通化劇場で開かれ、引揚げ開始が報じられた。食糧10日分、現金一人当たり千円、衣類二組、寝具一組が許された。
 9月2日。新通化駅から第一大隊1200名が第一陣として出発した。それから8日までの7日間、14本の列車が通化を後にした。
 ぼくたち一家8人も通化第一陣のなかにいた。所属は、通化第一大隊第二中隊第一小隊四班だった。
・・・(以下「宇佐見晶『贖罪』のこと」略)

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