真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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松代大本営 天皇動座の特別装甲車「マルゴ車」準備

2008年09月10日 | 国際・政治
 大戦末期、軍部は昼夜兼行の松代地下壕建設工事を進める一方、いよいよ動座という時、天皇を東京から松代へ運ぶ準備も進ていた。「 手さぐり松代大本営 計画から差別の根源まで」原山茂夫(銀河書房)には下記のようにある。
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             天皇は特別装甲運搬車に乗って

 松代での工事と並行して、44年秋から天皇を松代へ護衛して移動する計画や準備もすすめられていました。天皇の護衛ですから当然担当は、宮城の護衛に当たっていた近衛第一師団です。そんなことから、松代大本営の話は近衛師団の中にはさっと広まり、45年春頃には海外にいた近衛兵の中にも知られていたというくらいでした。
 中村勝実氏の『松代大本営』によると、まず、44年秋に天皇・皇后の動座のための第一装甲車が2台造られました。しかし侍従武官たちが試乗したところ乗り心地があまりよくなかったので、第二号の製作にとりかかりました。
 第二号は中型戦車を改造した、大きさは第一号の2倍ほどの二重鋼板製で、速射砲弾ぐらいならはね返すだけの強度をもったものでした。戦車のようにキャタピラがつけられていて、時速40キロほど、外は黄色と緑のペンキで迷彩がほどこされていました。
 もちろん、空や陸からの敵の攻撃に備えて重機関銃も据え付けられていて、内部には足を切りとって背を低くしたソファやベッド用のマットも置かれていました。
 この第二号車は45年2月に天皇用・皇后用の2台が完成し、他に皇太子用などの4台の計6台が製作されて、近衛騎兵隊に配属されました。 
 騎兵部隊といっても、もう馬で天皇を守る情勢ではなかったので、特別に軽戦車16台をもった戦車部隊も加わって、敵がパラシュートで降りてきて囲まれたらどうするかなどと、東京から松代へ向かう作戦や訓練が毎晩のように行われました。
 この頃には、天皇だけでなく、敵が上陸してきた時に、避難する一般民衆の雑踏する中で、軍隊をどう移動させるかという問題は、軍部のなかではすでに研究されていました。
 そんな時には軍隊はどうするか?

 司馬遼太郎の『街道をゆく6』には次のように書かれています。
 「そういう私の質問に対し、大本営からきた人はちょっと戸惑ったようだったが、やがて、押し殺したような小さな声で──轢き殺してゆけ、といった。このときの私の驚きとおびえと絶望と、それに何もかもやめたくなるようなばからしさが、その後の自分自身の日常性まで変えてしまった。軍隊は住民を守るためにあるのではないか」
 沖縄に米軍が上陸した時、日本軍が沖縄の人たちに対しとった態度が、まさにそうでした。実はこれと似たことが松代でも起こったのです。

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 「松代大本営 歴史の証言」青木孝寿(新日本出版)によると、近衛騎兵連隊長伊東力が赤柴近衛第一師団長に呼ばれ、この特別装甲車の保管管理と松代動座の護衛計画を命ぜられたという。そしてその時、この特別装甲車「マルゴ車」(○の中にゴ)と呼ぶことを告げられたという。


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