真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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バンカ島事件

2008年02月01日 | 国際・政治

              バンカ島事件(看護婦等虐殺)
 
バンカ島はシンガポールの南約400km、スマトラ島とカリマンタン島の間のカリマタ海峡南西部に位置する。西のスマトラ島とはバンカ海峡で;隔てられている島である。 
この島でも捕虜となるべき英国兵やオーストラリア従軍看護婦の虐殺事件があった。
 当時マレー半島から急速に南進し迫り来る日本軍の攻撃で、危険な状況にあったが、シンガポールの従軍看護婦は多数の傷病兵の看護のため退去できず、退去命令が出たのはシンガポール陥落4日前であった。先にエンパイアー・スター号でシンガポールを出航したグループは日本軍の飛行機による攻撃を受けながらも無事にオーストラリアにたどり着いている。
 しかし一日遅れで、多くの女性や子どもと65名の看護婦を乗せシンガポール港を出航したヴァイナー・ブルック号は、出航3日目に、日本軍機の爆弾投下で沈没した。沈没地点はバンカ海峡入り口付近であったが、波がかなり高く、海岸までは16~17キロ離れていたため溺れ死ぬ者が続出したという。65名のうち12名の看護婦がこのとき溺死している。
 2月14日夜、2隻の救命ボートに乗った30数名の民間人(そのほとんどが女性とこども)のグループと一緒に22名のオーストラリア従軍看護婦がバンカ島ラジー海岸にたどりついた。
 翌15日の晩、やはりバンカ海峡で日本軍の攻撃を受け沈没した船に乗っていた英国兵のうち20数名が、彼女たちが漂っている人たちがたどりつけるようにたいた大きな焚き火を目印に救命ボートで海岸にたどりつき、彼女たちに合流した。しかし、多くのけが人や子どもがおり、手当を必要としている英国兵の負傷者もいたため、翌朝、島を占拠している日本軍に投降することで合意する。
 そして、ヴァイナー・ブルック号の船員を代表としてムントクの町まで派遣するとともに、足の遅い民間人女性と子どもだけを民間人の中国人医師の引率でムントクの町に向けて先に出発させたのである。
 その後の状況は「知られざる戦争犯罪-日本軍はオーストラリア人に何
をしたか-田中利幸著(大月書店)
から抜粋する。
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 ラジー海岸には主に英国兵と豪州従軍看護婦だけが残され、日本軍の迎えを待った。このうちの10名ほどが負傷者で担架に横たわっていたというから、看護婦たちはこれらの負傷者の看護が目的で海岸に残ったものと考えられる。代表でムントクにでかけていった船員が、日本軍士官と15人の兵士とともに午前10時ごろ海岸に戻ってきた。英国兵や看護婦たちはこれでやっと医療手当を受けることができ、食糧や水も提供してもらえるとほっとしたにちがいない。ところが、まったく期待に反したことが起きたのである。・・・

 日本軍将兵は海岸に到着するや、男と女を別々にし、さらに担架に横たわっている者以外の男たちを二組に分けた。道案内をしてきたヴァイナー・ブルック号の船員が、自分たちは捕虜になるために投降したのであるから適正に取り扱うようにと要求したが、まったく無視された。まず一組の男たちが100メートルほど離れた、看護婦たちには見えない海岸の崖の向こう側に日本兵数人に連れていかれ、銃剣で刺し殺された。約10分後に日本兵たちは戻ってきて、もう一つのグループの男たちをやはり同じ場所に連れていった。今度は銃声が数発看護婦たちの耳に聞こえてきた。これはこのグループのうちの二人の男が逃亡をはかって海に飛び込んでいったため、日本兵が発砲したのであった。二組めの男たちもやはり銃剣で殺害した日本軍将兵は、今度は看護婦たちの前にやってきた。それからの状況を彼女(ヴィヴィアン・ブルヴィンケル)は以下のように述べている。
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 証言内容は、次である。

        http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/
      http://homepage3.nifty.com/pow-j/j/j.htm

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