日本の外務省は、尖閣諸島について「外務省・アジア 尖閣諸島の領有権についての基本見解」 として
「 尖閣諸島は、1885年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものです。
同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しており、1895年5月発効の下関条約第2条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていません。」
と表明しています。(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/)
また、共産党まで2010年9月20日(月)「しんぶん赤旗」で日本の領有は正当として
「尖閣諸島(中国語名は釣魚島)は、古くからその存在について日本にも中国にも知られていましたが、いずれの国の住民も定住したことのない無人島でした。1895年1月に日本領に編入され、今日にいたっています。
1884年に日本人の古賀辰四郎が、尖閣諸島をはじめて探検し、翌85年に日本政府に対して同島の貸与願いを申請していました。日本政府は、沖縄県などを通じてたびたび現地調査をおこなったうえで1895年1月14日の閣議決定によって日本領に編入しました。歴史的には、この措置が尖閣諸島にたいする最初の領有行為であり、それ以来、日本の実効支配がつづいています。
所有者のいない無主(むしゅ)の地にたいしては国際法上、最初に占有した「先占(せんせん)」にもとづく取得および実効支配が認められています。日本の領有にたいし、1970年代にいたる75年間、外国から異議がとなえられたことは一度もありません。日本の領有は、「主権の継続的で平和的な発現」という「先占」の要件に十分に合致しており、国際法上も正当なものです。」
と書いています。(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-02-23/02_02.html)
しかしながら、日本が領有を閣議決定した1895年は、不平等条約の典型ともいえる下関条約調印の年でもあります。
したがって、先ず1つ目は、尖閣諸島の領有が、日本の帝国主義的な領土拡張(侵略行為)の流れとは別の、正当な国家行為ととらえることができるのかという疑問です。
なぜなら、日本の琉球処分(1871年)に反撥していた中国(清)が、琉球処分を受け入れざるを得なくなったのは、日清戦争の敗北によってであり、日本は日清戦争後の講和会議(1895年4月17日)で調印された下関条約によって、遼東半島、台湾および澎湖諸島など付属諸島嶼の主権も得ているのです。尖閣諸島だけは帝国主義的な領土拡張(侵略行為)とは別で、平和的に「無主地先占」されたものであり、問題はないといえるのかという疑問です。
2つ目に、「無主地先占」が現地調査だけでなされてよいのかという疑問です。日本が領有を閣議決定した時、中国名「釣魚(チョウギョ)諸島」に「尖閣諸島」という日本名はなかったといいます。「尖閣諸島」と日本名で呼ばれるようになったのは、日本の領有が閣議決定されてから5年後の1900年だというのです。にもかかわらず、中国名「釣魚諸島」を中国や台湾、および琉球の人たちの領有意識、また、中国や台湾、および琉球の過去の文献にあたって調査することをせず、「無主地」と断定できるのかという疑問です。無人島といえども、領有意識があっても不思議はないのであり、領有意識があれば無主地と断ずることはできないのではないかという疑問です。
3つめは、明の皇帝の冊封使(サクホウシ)陳侃(チンカン)の『使琉球録』や陳侃の後の冊封使、郭汝霖(カクジョリン)の『重編使琉球録』、また、同時代の倭寇と対した名将、胡宗憲(コソウケン)が編纂した『籌海図編』(倭寇防衛の戦略戦術と城塞・哨所などの配置や兵器・船艦の制などを説明した本)の下記のような記述を、無視できるとする根拠は何かということです。以下は「尖閣列島-釣魚諸島の史的解明」井上清(第三書館)からの抜粋です。
---------------------------------
三 釣魚(チョウギョ)諸島は明の時代から中国領として知られている
・・・
16世紀の書と推定される著者不明の航海案内書『順風相送』の、福州から那覇に至る航路案内記に、釣魚諸島の名が出てくるが、この書の著作の年代は明らかでない。年代の明らかな文献では、1534年、中国の福州から琉球の那覇に航した、明の皇帝の冊封使(サクホウシ)陳侃(チンカン)の『使琉球録』がある。それによれば使節一行の乗船は、その年5月8日、福州の梅花所からに外洋に出て、東南に航し、鶏龍頭(台湾の基隆)の沖合で東に転じ、10日に釣魚嶼などを過ぎたという。
「10日、南風甚ダ迅ク、舟行飛ブガ如シ。然レドモ流ニ順ヒテ下レバ、(舟は)甚ダシクハ動カズ、平嘉山ヲ過ギ、釣魚嶼ヲ過ギ、黄毛嶼ヲ過ギ、赤嶼ヲ過グ。目按スルニ暇アラズ。(中略)11日夕、古米(クメ)山(琉球の表記は久米島)ヲ見ル。乃チ琉球ニ属スル者ナリ。夷人(冊封使の船で働いている琉球人)船ニ鼓舞シ、家ニ達スルヲ喜ブ。」
琉球冊封使は、これより先1372年に琉球に派遣されたのを第1回とし、陳侃は第11回めの冊封使である。彼以前の10回の使節の往路も、福州を出て、陳侃らと同じ航路を進んだはずであるから、── それ以外の航路はない ── その使録があれば、それにも当然に釣魚島などのことは何らかの形で記載されていたであろうが、それらはもともと書かれなかったのか、あるいは早くから亡失していた。陳侃の次に1562年の冊封使となった郭汝霖(カクジョリン)の『重編使琉球録』にも、使琉球録は陳侃からはじまるという。
その郭の使録には、1562年5月29日、福州から出洋し「閏5月初1日、釣嶼ヲ過グ。初3日赤嶼ニ至ル。赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山ナリ。再1日ノ風アラバ、即チ姑米(クメ)山(久米島)ヲ望ムベシ」とある。
上に引用した陳・郭の2使録は、釣魚諸島のことが記録されているもっとも早い時期の文献として、注目すべきであるばかりでなく、陳侃は、久米島をもって「乃属琉球者」といい、郭汝霖は、赤嶼について「界琉球地方山也」と書いていることは、とくに重要である。この両島の間には、水深2000メートル前後の海溝があり、いかなる島もない。それゆえ陳が、福州から那覇に航するさいに最初に到達する琉球領である久米島について、これがすなわち琉球領であると書き、郭が中国側の東のはしの島である赤尾嶼について、この島は、琉球地方を界する山だというのは、同じ事を、ちがった角度から述べていることは明らかである。
そして、前に一言したように琉球の向象賢(コウショウケン)の『琉球国中山世鑑』は、「嘉靖(カセイ)甲午使事紀ニ曰ク」として、陳侃の使録を長々と抜き書きしているが、その中に5月10日と11日の条をも、原文のままのせ、それに何らの注釈もつけていない。向象賢は、当時の琉球支配層の間における、親中国派と親日本派の激しい対立において、親日派の筆頭であり、『琉球国中山世鑑』は、客観的な歴史書というよりも、親日派の立場を歴史的に正当化するために書いた、きわめて政治的な書物であるが、その書においても、陳侃の既述がそのまま採用されていることは久米島が琉球領の境であり、赤嶼以西は琉球領でないということは、当時の中国人のみならずどんな琉球人にも、明白とされていたことをしめしている。琉球政府声明は、「琉球側及び中国側の文献のいずれも尖閣列島が自国の領土であることを表明したものはない」というが、「いずれの側」の文献も、つまり中国側はもとより琉球の執政官や最大の学者の本でも、釣魚諸島が琉球領でないことは、きわめてはっきり認めているが、それが中国領ではないとは、琉・中「いずれの側も」、すこしも書いていない。
なるほど陳侃使録では、久米島に至るまでの赤尾、黄尾、釣魚などの島が琉球領でないことだけは明らかだが、それがどこの国のものかは、この数行の文面のみからは何ともいえないとしても、郭が赤嶼は琉球地方を「界スル」山だというときその「界」するのは、琉球地方と、どことを界するのであろうか。郭は中国領の福州から出航し、花瓶嶼、彭佳山など中国領であることは自明の島々を通り、さらにその先に連なる、中国人が以前からよく知っており、中国名もつけてある島々を航して、その列島の最後の島=赤嶼に至った。郭はここで、順風でもう1日の航海をすれば、琉球領の久米島を見ることができることを思い、来し方をふりかえり、この赤嶼こそ「琉球地方ヲ界スル」島だと感慨にふけった。その「界」するのは、琉球と、彼がそこから出発し、かつその領土である島々を次々に通過してきた国、すなわち中国とを界するものでなくてはならない。これを、琉球と無主地とを界するものだなどとこじつけるのは、あまりにも中国文の読み方を無視しすぎる。
こうみてくると、陳侃が、、久米島に至ってはじめて、これが琉球領だとのべたのも、この数文字だけでなく、中国領福州を出航し、中国領の島々を航して久米島に至る、彼の全航程の既述の文脈でとらえるべきであって、そうすれば、これも、福州から赤嶼までは中国領であるとしていることは明らかである。これが中国領であることは、彼およびすべての中国人には、いまさら強調するまでもない自明のことであるから、それをとくに書きあらわすことなど、彼には思いもよらなかった。そうして久米島に至って、ここはもはや中国領ではなく琉球領であることに思いを致したればこそ、そのことを特記したのである。
・・・
おそくも、16世紀には、釣魚諸島が中国領であったことを示す、もう一種の文献がある。それは、陳侃や郭汝霖とほぼ同時代の胡宗憲(コソウケン)が編纂した『籌海図編』(1561年の序文あり)である。胡宗憲は、当時中国沿海を荒らしまわっていた倭寇と、数十百戦してこれを撃退した名将で、右の書は、その経験を総括し、倭寇防衛の戦略戦術と城塞・哨所などの配置や兵器・船艦の制などを説明した本である。
本書の第1巻、「沿海山沙図」の「福七」~「福八」にまたがって、福建省の羅源県、寧徳県の沿海の島々が示されている。そこに「鶏籠山」、「彭加山」、「釣魚嶼」、「化瓶山」「黄尾山」「橄欖山」「赤嶼」が、この順に西から東へ連なっている。これらの島々が現在のどれに当たるか、いちいちの考証はは私はまだしていない。しかし、これらの島々が、福州南方の海に、台湾の基隆沖から東に連なるもので、釣魚諸島をふくんでいることは疑いない。
この図は、釣魚諸島が福建沿海の中国領の島々の中に加えられていたことを示している。『籌海図編』の第1巻は、福建のみでなく倭寇のおそう中国沿海の全域にわたる地図を、西南地方から東北地方の順にかかげているが、そのどれにも、中国以外の地域は入っていないので、釣魚諸島だけが中国領でないとする根拠はどこにもない。
・・・(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。
「 尖閣諸島は、1885年以降政府が沖縄県当局を通ずる等の方法により再三にわたり現地調査を行ない、単にこれが無人島であるのみならず、清国の支配が及んでいる痕跡がないことを慎重確認の上、1895年1月14日に現地に標杭を建設する旨の閣議決定を行なって正式にわが国の領土に編入することとしたものです。
同諸島は爾来歴史的に一貫してわが国の領土たる南西諸島の一部を構成しており、1895年5月発効の下関条約第2条に基づきわが国が清国より割譲を受けた台湾及び澎湖諸島には含まれていません。」
と表明しています。(http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/senkaku/)
また、共産党まで2010年9月20日(月)「しんぶん赤旗」で日本の領有は正当として
「尖閣諸島(中国語名は釣魚島)は、古くからその存在について日本にも中国にも知られていましたが、いずれの国の住民も定住したことのない無人島でした。1895年1月に日本領に編入され、今日にいたっています。
1884年に日本人の古賀辰四郎が、尖閣諸島をはじめて探検し、翌85年に日本政府に対して同島の貸与願いを申請していました。日本政府は、沖縄県などを通じてたびたび現地調査をおこなったうえで1895年1月14日の閣議決定によって日本領に編入しました。歴史的には、この措置が尖閣諸島にたいする最初の領有行為であり、それ以来、日本の実効支配がつづいています。
所有者のいない無主(むしゅ)の地にたいしては国際法上、最初に占有した「先占(せんせん)」にもとづく取得および実効支配が認められています。日本の領有にたいし、1970年代にいたる75年間、外国から異議がとなえられたことは一度もありません。日本の領有は、「主権の継続的で平和的な発現」という「先占」の要件に十分に合致しており、国際法上も正当なものです。」
と書いています。(http://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-02-23/02_02.html)
しかしながら、日本が領有を閣議決定した1895年は、不平等条約の典型ともいえる下関条約調印の年でもあります。
したがって、先ず1つ目は、尖閣諸島の領有が、日本の帝国主義的な領土拡張(侵略行為)の流れとは別の、正当な国家行為ととらえることができるのかという疑問です。
なぜなら、日本の琉球処分(1871年)に反撥していた中国(清)が、琉球処分を受け入れざるを得なくなったのは、日清戦争の敗北によってであり、日本は日清戦争後の講和会議(1895年4月17日)で調印された下関条約によって、遼東半島、台湾および澎湖諸島など付属諸島嶼の主権も得ているのです。尖閣諸島だけは帝国主義的な領土拡張(侵略行為)とは別で、平和的に「無主地先占」されたものであり、問題はないといえるのかという疑問です。
2つ目に、「無主地先占」が現地調査だけでなされてよいのかという疑問です。日本が領有を閣議決定した時、中国名「釣魚(チョウギョ)諸島」に「尖閣諸島」という日本名はなかったといいます。「尖閣諸島」と日本名で呼ばれるようになったのは、日本の領有が閣議決定されてから5年後の1900年だというのです。にもかかわらず、中国名「釣魚諸島」を中国や台湾、および琉球の人たちの領有意識、また、中国や台湾、および琉球の過去の文献にあたって調査することをせず、「無主地」と断定できるのかという疑問です。無人島といえども、領有意識があっても不思議はないのであり、領有意識があれば無主地と断ずることはできないのではないかという疑問です。
3つめは、明の皇帝の冊封使(サクホウシ)陳侃(チンカン)の『使琉球録』や陳侃の後の冊封使、郭汝霖(カクジョリン)の『重編使琉球録』、また、同時代の倭寇と対した名将、胡宗憲(コソウケン)が編纂した『籌海図編』(倭寇防衛の戦略戦術と城塞・哨所などの配置や兵器・船艦の制などを説明した本)の下記のような記述を、無視できるとする根拠は何かということです。以下は「尖閣列島-釣魚諸島の史的解明」井上清(第三書館)からの抜粋です。
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三 釣魚(チョウギョ)諸島は明の時代から中国領として知られている
・・・
16世紀の書と推定される著者不明の航海案内書『順風相送』の、福州から那覇に至る航路案内記に、釣魚諸島の名が出てくるが、この書の著作の年代は明らかでない。年代の明らかな文献では、1534年、中国の福州から琉球の那覇に航した、明の皇帝の冊封使(サクホウシ)陳侃(チンカン)の『使琉球録』がある。それによれば使節一行の乗船は、その年5月8日、福州の梅花所からに外洋に出て、東南に航し、鶏龍頭(台湾の基隆)の沖合で東に転じ、10日に釣魚嶼などを過ぎたという。
「10日、南風甚ダ迅ク、舟行飛ブガ如シ。然レドモ流ニ順ヒテ下レバ、(舟は)甚ダシクハ動カズ、平嘉山ヲ過ギ、釣魚嶼ヲ過ギ、黄毛嶼ヲ過ギ、赤嶼ヲ過グ。目按スルニ暇アラズ。(中略)11日夕、古米(クメ)山(琉球の表記は久米島)ヲ見ル。乃チ琉球ニ属スル者ナリ。夷人(冊封使の船で働いている琉球人)船ニ鼓舞シ、家ニ達スルヲ喜ブ。」
琉球冊封使は、これより先1372年に琉球に派遣されたのを第1回とし、陳侃は第11回めの冊封使である。彼以前の10回の使節の往路も、福州を出て、陳侃らと同じ航路を進んだはずであるから、── それ以外の航路はない ── その使録があれば、それにも当然に釣魚島などのことは何らかの形で記載されていたであろうが、それらはもともと書かれなかったのか、あるいは早くから亡失していた。陳侃の次に1562年の冊封使となった郭汝霖(カクジョリン)の『重編使琉球録』にも、使琉球録は陳侃からはじまるという。
その郭の使録には、1562年5月29日、福州から出洋し「閏5月初1日、釣嶼ヲ過グ。初3日赤嶼ニ至ル。赤嶼ハ琉球地方ヲ界スル山ナリ。再1日ノ風アラバ、即チ姑米(クメ)山(久米島)ヲ望ムベシ」とある。
上に引用した陳・郭の2使録は、釣魚諸島のことが記録されているもっとも早い時期の文献として、注目すべきであるばかりでなく、陳侃は、久米島をもって「乃属琉球者」といい、郭汝霖は、赤嶼について「界琉球地方山也」と書いていることは、とくに重要である。この両島の間には、水深2000メートル前後の海溝があり、いかなる島もない。それゆえ陳が、福州から那覇に航するさいに最初に到達する琉球領である久米島について、これがすなわち琉球領であると書き、郭が中国側の東のはしの島である赤尾嶼について、この島は、琉球地方を界する山だというのは、同じ事を、ちがった角度から述べていることは明らかである。
そして、前に一言したように琉球の向象賢(コウショウケン)の『琉球国中山世鑑』は、「嘉靖(カセイ)甲午使事紀ニ曰ク」として、陳侃の使録を長々と抜き書きしているが、その中に5月10日と11日の条をも、原文のままのせ、それに何らの注釈もつけていない。向象賢は、当時の琉球支配層の間における、親中国派と親日本派の激しい対立において、親日派の筆頭であり、『琉球国中山世鑑』は、客観的な歴史書というよりも、親日派の立場を歴史的に正当化するために書いた、きわめて政治的な書物であるが、その書においても、陳侃の既述がそのまま採用されていることは久米島が琉球領の境であり、赤嶼以西は琉球領でないということは、当時の中国人のみならずどんな琉球人にも、明白とされていたことをしめしている。琉球政府声明は、「琉球側及び中国側の文献のいずれも尖閣列島が自国の領土であることを表明したものはない」というが、「いずれの側」の文献も、つまり中国側はもとより琉球の執政官や最大の学者の本でも、釣魚諸島が琉球領でないことは、きわめてはっきり認めているが、それが中国領ではないとは、琉・中「いずれの側も」、すこしも書いていない。
なるほど陳侃使録では、久米島に至るまでの赤尾、黄尾、釣魚などの島が琉球領でないことだけは明らかだが、それがどこの国のものかは、この数行の文面のみからは何ともいえないとしても、郭が赤嶼は琉球地方を「界スル」山だというときその「界」するのは、琉球地方と、どことを界するのであろうか。郭は中国領の福州から出航し、花瓶嶼、彭佳山など中国領であることは自明の島々を通り、さらにその先に連なる、中国人が以前からよく知っており、中国名もつけてある島々を航して、その列島の最後の島=赤嶼に至った。郭はここで、順風でもう1日の航海をすれば、琉球領の久米島を見ることができることを思い、来し方をふりかえり、この赤嶼こそ「琉球地方ヲ界スル」島だと感慨にふけった。その「界」するのは、琉球と、彼がそこから出発し、かつその領土である島々を次々に通過してきた国、すなわち中国とを界するものでなくてはならない。これを、琉球と無主地とを界するものだなどとこじつけるのは、あまりにも中国文の読み方を無視しすぎる。
こうみてくると、陳侃が、、久米島に至ってはじめて、これが琉球領だとのべたのも、この数文字だけでなく、中国領福州を出航し、中国領の島々を航して久米島に至る、彼の全航程の既述の文脈でとらえるべきであって、そうすれば、これも、福州から赤嶼までは中国領であるとしていることは明らかである。これが中国領であることは、彼およびすべての中国人には、いまさら強調するまでもない自明のことであるから、それをとくに書きあらわすことなど、彼には思いもよらなかった。そうして久米島に至って、ここはもはや中国領ではなく琉球領であることに思いを致したればこそ、そのことを特記したのである。
・・・
おそくも、16世紀には、釣魚諸島が中国領であったことを示す、もう一種の文献がある。それは、陳侃や郭汝霖とほぼ同時代の胡宗憲(コソウケン)が編纂した『籌海図編』(1561年の序文あり)である。胡宗憲は、当時中国沿海を荒らしまわっていた倭寇と、数十百戦してこれを撃退した名将で、右の書は、その経験を総括し、倭寇防衛の戦略戦術と城塞・哨所などの配置や兵器・船艦の制などを説明した本である。
本書の第1巻、「沿海山沙図」の「福七」~「福八」にまたがって、福建省の羅源県、寧徳県の沿海の島々が示されている。そこに「鶏籠山」、「彭加山」、「釣魚嶼」、「化瓶山」「黄尾山」「橄欖山」「赤嶼」が、この順に西から東へ連なっている。これらの島々が現在のどれに当たるか、いちいちの考証はは私はまだしていない。しかし、これらの島々が、福州南方の海に、台湾の基隆沖から東に連なるもので、釣魚諸島をふくんでいることは疑いない。
この図は、釣魚諸島が福建沿海の中国領の島々の中に加えられていたことを示している。『籌海図編』の第1巻は、福建のみでなく倭寇のおそう中国沿海の全域にわたる地図を、西南地方から東北地方の順にかかげているが、そのどれにも、中国以外の地域は入っていないので、釣魚諸島だけが中国領でないとする根拠はどこにもない。
・・・(以下略)
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表および一覧表とリンクさせた記事全文があります。一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。また、ところどころに空行を挿入しています。旧字体は新字体に変えています。青字が書名や抜粋部分です。赤字は特に記憶したい部分です。「・・・」は段落全体の省略を「……」は、文の一部省略を示します。
もちろん位置は沖繩トラフですよ。都市といふのは風水思想のことです。村でも國でも良いのです。
そしてこれは一解釋に過ぎません。絶對ではありませんが合理的解釋だといふ主張です。
それに對し、「中國と外國の界」説は、はるか清國外の記述ですから一解釋としてすら成立しません。
國外にまた「界」が存在する理由。琉球の郊界ですから清國外に存在するのは當り前でせう。
まづは少し諸史料・諸研究を勉強されるのが、ご疑問解決への近道と思ひます。
]>郊とは近郊・郊外の比喩で、道教的な都市の内外の境界を指す。
上記の解釈には少々無理があるのではないでしょうか。汪楫は赤嶼と久米島の間の海上で行う海難よけの祭り、すなわち「過溝祭」について述べている中で「郊」ということばを使っているわけで、この「郊」やはり赤尾嶼のすぐ南側の深海溝を意味する「溝」と理解するべきではないでしょうか。
また、
>汪楫自身が國外と看做した海域に「中外之界」が存在しますから、中外之界そのものが國外です。
についても、なぜ国外にまた「界」が存在するのか、も疑問です。
それは汪楫が答へたのでなく、汪楫が質問して舟人が答へたのですよ。
汪楫自身が國外と看做した海域に「中外之界」が存在しますから、中外之界そのものが國外です。
「諸史料」は報道まとめをご覽下さい。http://ishiwi.iza.ne.jp/blog/entry/2938241/
一部分引用します。
石井氏の研究によれば、「汪楫は自身の漢詩集「觀海集」の中で、福建省沿岸の東沙山(今の馬祖島)を中國の東端だと記録してゐる。そこから遙かに尖閣附近の公海を越えた東側の「中外」の記述には、「國」の字が含まれず、中國と外國との境界ではないといふ。
石井氏は、「郊とは近郊・郊外の比喩で、道教的な都市の内外の境界を指す。琉球國は明國の道教の影響を受けており、ここで言ふ中外とは、風水思想における琉球の『内外』を指す」と指摘する。
さらに石井氏は、「汪楫の使節船は、臺灣の北端を經由しない琉球人特有の航路を採用してをり、船中で針路を主導してゐたのは琉球人であった。中外の界を言ったのも琉球人だ」と話す。」
>諸史料をみれば
とありますが、他にも同様の記述があるのでしょうか。
汪楫は赤嶼と久米島の間の海上で行う海難よけの祭り、すなわち「過溝祭」についてくわしく書いていますが「溝」とはどういう意味ですか、と質問した相手に、
「曰ク、中外ノ界ナリ。」(中国と外国の界という意味です)。
と答えています。そこはたんに海の難所というだけでなく、「中外ノ界ナリ」であると、「溝」で区切っているのです。
「過東沙山、是閩山盡處」
(東沙山を過ぐれば是れ閩山の盡くるところなり)
と。琉球への往路を詠む詩集内の一首である。この前の詩では福州からの出航を詠み、後の詩では航路上の大海を詠む。閩(びん)とは福建省を指す。山とは陸地である。東に進む航路上で福建省の陸地がつきる最後の島が東沙山(馬祖島)だと、ここに明示してある。そこから東のタイワン島北端はまだ清の統治を受けず、まして釣魚列島が清の領域外であることは瞭然として明白である。
要するに尖閣航路の正しい理解は、チャイナの東端が東沙山・鷄籠山の附近、琉球の西端が久米島、そして二者の間は無主地である。
>領有化の経緯を見ても、かなりの後ろめたさを感じますね。
そうなのです。それを、歴史や国際法の内容に触れることなく、「尖閣は歴史的にも、国際法上も日本固有の領土で、尖閣に領土問題は存在しません」という言葉だけを繰り返すのは、日本が中国との関係改善をはかって、EUのように「東アジア共同体」を形成していくのではないか、という懸念を抱くアメリカの後押しによるものだろうと想像してしまいます。
そういう意味で、領土問題は、大国の国益がらみのパワーゲームと切り離して考えることは難しいだろうと思っています。
投稿ありがとうございました。
国際慣習法に則っているとは言え、帝国主義時代のそれがどこまで有効かについては疑問もありますし、領有化の経緯を見ても、かなりの後ろめたさを感じますね。
現在の中国の拡張主義も、過去の日本のそれを見るようですが、それに感情的に反発するのは、同じ土俵の泥仕合になるのは目に見えています。自国に有利・不利にかかわらず資料を出し合って、国際の場で、落としどころを探るのが現代の理性だと思います。
>日本人になりすますんじゃないよ。
目先の利益にとらわれて、こういう議論にしたらいけません。巷の「反日」呼ばわりもそうですが、あくまでも真実に基づいた冷静な議論をしないと、永遠に問題は解決不能です。
そして、”しめしめ、これでしばらく日中の関係改善や経済協力は進まないだろう”と喜ぶ輩が存在するのではないかと思います。日中韓が関係を改善し、東アジア共同体のようなものを形成すると、追いつめられる国や組織があることを頭に入れて、ここは冷静に対応する必要があると思っています。
日本人になりすますんじゃないよ。
>侵略の意図があっただろうとか書いてますが、全ての領土とは侵略なり占領なりで成立したものではありませんか。
あれ?侵略でも日本領だと認めるわけですね。
しきりに「国際法」を持ち出されるのですが、閣議決定しただけで、公示をせず確認の必要がある相手国に通告もせず、官報掲載もしない領有が国際法上通用するのでしょうか。だから…。
侵略の意図があっただろうとか書いてますが、全ての領土とは侵略なり占領なりで成立したものではありませんか。それを否定するなら国際法そのものを否定するのですか。ならば現代世界は国際法以外の何によって動いたらよいのですか。
でも、下記のようなことを平然といわれるのであれば、古文献の議論などほとんど意味がありませんけどね。
>当たり前だと思うのですが、日本人が「特別ひどかった」のではなく、「日本人も外国がやってる行動を見習った」と考えるべきではないのでしょうかね?
>当時は「スポーツ感覚で戦争がやれた時代」だって解ってて言ってますか?
>当時は帝国主義・植民地主義真っ盛りの時代ですが?
だから、植民地化されたり、侵略されたりした国は今さら文句をいうなということになるわけですか。
わたしは「日本人だけが悪かった」というつもりはありませんが、二度と戦争を繰り返さないためには、日本の過ちがどこにあったのか、被害国の立場にたって直視してみる必要があるのではないかと思っています。そうしないと永遠に争いが続きます。きちんと歴史的事実に向き合わず、上記のようなことを言うから、諸外国から69もの訴訟を起こされたのではないでしょうか。
わたしは、「井上教」の信者ではありませんし、井上清の主張がすべて正しいとは思っておりません。わたしは、彼が尖閣諸島について書いている歴史的事実についてのみ問題としています。その中に見過ごしてはいけない事実がいくつか書かれていると思っています。
したがって、文革がどうの毛沢東がどうのという指摘は的外れなのです。
また、下記のように先に結論があるのでは、問題意識は深まりません。最初に多数派を選ぶのなら、学ぶ意味はほとんどありませんし、進歩もないのではないでしょうか(誤解されキチガイ扱いされた学者は数多いです)。圧倒的多数がきちんと把握していないから貴重なのです。
>あなたは、圧倒的多数の左翼勢力+保守・右翼勢力の方が間違えていて、文革や毛沢東をすら賛美した「キチガイ学者」の井上清の方が「正しい」と仰いますか?w
満州事変の立役者、石原莞爾の言葉である
敗戦後、石原は膀胱癌で病床にあったが、連合国は東條英機と対立していた石原から証言を聞こうとしている
石原は連合国の人間に対し、
「君らは一体どこまでさかのぼって日本を裁くつもりだ?」と尋ねた
それに対し連合国の人間は
「日本の行った戦争全部。出来れば日清・日露も裁きたい」と答えた
その答えを聞いた石原莞爾の言葉である
『ならばペリーを読んでこい。我々は鎖国して平和的に暮らしていたんだ。
それを無理やり開国させたのはアメリカだろうが。
で、開国してみたら欧米諸国はみんな例外なく侵略的で覇権的で植民地主義的だった。
これはイカンとばかりに我々日本人は欧米諸国を見習って近代化し、欧米諸国を見習って戦争をし、欧米諸国を見習って植民地を獲得した。
文句があるなら日本にそのようなやり方を教えたアメリカ水師提督のペリーを読んでこい!』
二度と連合国は「日清・日露まで」なんて馬鹿馬鹿しい話は言わなかったそうですね
当たり前だと思うのですが、日本人が「特別ひどかった」のではなく、「日本人も外国がやってる行動を見習った」と考えるべきではないのでしょうかね?
文句があるなら平和的に暮らしていた日本人を無理やり開国させたペリーに言うべきではないですか
もっと言うなら有色人種の国を次から次と植民地にして侵略して併合していた欧米列強が悪いのではないのですか?
日本は植民地化を避けようと必死に生きていたのですが
『尖閣列島は、琉球人には何の関係も無かった。
琉球人には尖閣列島に関する知識は、まず中国人を介してしか得られなかった。
また彼らが独自に列島に関して記述できる知識や環境がほとんどなかったし、またその必要も殆どなかった』
実際にはどうだったのだろうか?
井上清が称賛して持ち出した陳侃は、『使琉球録』の中で述べている
・中国の船乗りたちは琉球への渡海をした事がなかった事
(従って琉球への渡海の方法が解らなかった)
・だからこそ陳侃は水先案内人なしの航海に非常な不安を覚えていた事
・しかし渡海前年の11月に琉球の進貢船が入港したことを知り、航海の詳細を聞く事ができると非常に喜んでいた事
これらが『使琉球録』巻一に記載されている
さらに
・琉球の次期国王の尚清は、冊封船を操る術に明人船乗りたちが十分に慣れていないであろうことを心配して中国語のできる針路士である『看針通司』と舟を十分に扱いうる琉球人三〇人を乗せた
「お出迎え」を福州まで派遣して冊封船の先導と操船にあたらせた事
・陳侃自身これを非常に喜んだ事
などなどが書いてある
井上清は陳侃の話の何を読んだのか理解に苦しむ
陳侃は、厳従簡『殊域周資録』によれば、 久米島すら、それが琉球であることを、
琉 球 人 に 質 問 し て は じ め て 知 っ た
と書いてある
このような陳侃を根拠に「尖閣諸島は中国領土と明の使者すら書いている」とか言えるはずもないのは当たり前ではないかw
井上清は
「島の存在すら知らなかったのに尖閣諸島は中国領土と思っていた」
とでもほざくのだろうか?
井上清は琉球史に全く知識がない
中国の冊封使は、琉球王朝の「お出迎え」が無ければ琉球にたどり着けなかったという歴史的事実すら知らないのか、はたまた都合が悪いので無視する
また現存する史料に記録として残されただけでも二八一回琉球船(進貢船、謝恩船、迎接船など)が福州へ赴き帰途尖閣列島の航路を通っていたこと、
さらに琉球の勘合符船が陳侃以前に既に九八回、安南・シャムなどとの交易に従事していた事実(帰りは当然尖閣諸島海域を通過する)も知らないのか、はたまた都合が悪いので無視する
これに対して明の側は、陳侃以前には一〇人の冊封使が琉球に赴いていたにすぎない
これ以外に明から琉球への公船が派遣されたことはなかった
琉球船に対する中国船の派遣率は、三二分の一にすぎない
おまけに頻度である
陳侃の場合は前使黄旻との間に五五年もの時が流れている
陳侃と郭汝霖との間は二八年である
つまり平均でも30~40年に一度のペースでしか明側は尖閣諸島海域を通っていないのだ
その後の冊封使も同様で、張学礼と林鴻年の間は三十年、
徐葆光と周煌の間は三七年、
李期元は四〇年
夏子陽と社三策の間は二七年、
汪楫一九年、
超新二八年
という長さである
琉球船は陳侃以前に毎年約二隻送っていたペースと比べても、どちらの方が尖閣諸島について「知っている」と言えるのだろうか?
琉球人は「尖閣諸島を知らなかった」どころか、明の人間よりはるかに多数の回数を通航している
明の側が20年とか30年とか40年に一回しか琉球に行かなかったが為に、琉球王朝が「お出迎え」をよこさねば琉球に行けなかったのだ
井上清は
・琉球人の「お出迎え」が無ければ琉球に行けなかった
・島の存在すら琉球人に尋ねなければ解らなかった
そんな陳侃が「乃属琉球者」と書いているからと言って
「尖閣諸島を中国領土としている」と考える底無しのアホウである
島の存在すら知らなかった人間がなぜ勝手に国境を決めつけられるのであろうか?
同じく井上清がもてはやす郭汝霖であるが、
この当時、台湾、彭佳、花瓶等の島嶼はまだ中国領にされていなかった
だから「赤嶼者・界琉球地方山也」と記していることを『琉球と中国とを界する』などというふざけた読み方は成立しない
ましてや、「琉球と中国とを界する」という表現を直接にとらなかった理由は
「とくにその必要がなければ書かないのが普通である」
などといった井上清の主張は我田引水的解釈以外のなにものでもない
なぜ井上清は、郭汝霖が尖閣諸島よりはるかに近く、はるかに大きな島である台湾を無視して「尖閣諸島は中国領土である」と考えていたなどと思えるのだろうか?
頭がおかしいとしか思えない
(続きはまた今度でお願いします)
多分管理人様が一番求めている事であろう
そして、井上清は口は悪いし過激だが「内容」は間違ってないのだと言わんばかりの口ぶりであるが、
残念ながら幻想であると指摘せざるを得ない
井上清は「日本近現代史」の専門家ではあるのだろうが、「琉球史」や「中国史」「台湾史」の類いに全く無知である
(それは井上清自身「論文」の中で認めている)
まず、井上清は尖閣諸島が「明」の時代の資料に書いてあった事を持ち出す
そしてその明の時代の資料を曲がり読みを繰り返して、「尖閣諸島は中国領土だった」とするのだが、井上清は台湾史に全く無知である
明は尖閣諸島よりはるかに中国大陸寄りの台湾すら自国領土にしていなかったのだ
台湾を中国王朝が支配したのは1683年、清王朝が台湾省を設置してからである
井上清の理屈では、
「自国により近い台湾は領土にしてなかったが、尖閣諸島は自国領土にしていた」
などという不可思議な現象になってしまう
こんな事はまず有り得ない
さて、明王朝を引き継いで台湾省を設置した清王朝は、「台湾省」の範囲・国境をどの程度と考えていたのだろうか?
当時の公式資料で調べてみよう
一七一七年の『諸羅県志』によれば、台湾北部の台湾県の「北界」を大鶏籠山と記している
一八七一年の『淡水庁志』でも、大鶏籠山を「沿海極北之道止」と誌している
その他『台湾府図纂要』(清刊)も『淡庁極北之区』、
同じく一八四〇年の『台湾道姚瑩稟奏台湾十七国設防状』(『基隆市志』参照)にも「淡水極北」とハッキリ書いてある
ちなみに「鶏籠」とは今の基隆である
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%BA%E9%9A%86%E5%B8%82#.E6.AD.B4.E5.8F.B2
こういった事実を考えてみれば、一六八三年の清王朝が台湾を支配した以前においては、
琉球久米島の手前の島々はすべて(台湾を含む)
今だ中国領でなかったことが理解できる
さらに一六八三から一九〇四年までは、大鶏籠嶼より以北の綿花、花瓶、彭佳諸嶼、そして尖閣列島は、すべて清王朝の支配下になかった事が解る
明より後の時代の清王朝ですらこうなのだ
明王朝の時代の資料を読むのであるなら、こういった基礎知識を踏まえてから読むのが筋ではないか?
井上清の資料の読み方の問題点については次の稿に分ける事にする
中国贔屓の井上清が都合が悪かったから見なかった資料の数々である
1969年に「尖閣諸島海域で石油が出る」という調査結果が出る前は、中共政府も国民党政府も「尖閣諸島は日本領土」と、当たり前のように認めていた
たとえば1953年1月8日付『人民日報』は「琉球群島人民の米国占領に反対する闘争」と題する重要な論説記事をかかげている。
が、その中で琉球群島の定義をおこない、尖閣列島を、この中に含めている
(ここでは「包括尖閣諸島」という言葉を用いている)。
中国の発行した地図はどうだろうか?
http://utukusinom.exblog.jp/13406509/
口頭で説明するより「論より証拠」
見てもらった方が早い
この手の地図はいくらでも探せば見つかる
1970年より以前、中国共産党政府だろうが国民党政府だろうが「尖閣諸島は日本領土」だとハッキリ認めていた
認めなくなったのは何度も言うが、「尖閣諸島海域で石油が出る」という1969年の調査報告を知ってからである
なんとふざけた連中であろう
井上清も1972年執筆当時なら古本屋にでも行けば無数にあっただろうこのような地図は一切無視している
なんと卑怯で卑劣な男であろう
ちなみに併合は朝鮮人が希望した事ですから
自分から併合をお願いしたのに、「帝国主義」として非難するのはおかしいですね
それに日本は併合の前に欧米諸国に許可を打診しています
一ヶ国たりとも反対した国などなかったのですが?
例えばアメリカのセオドア・ルーズベルト曰く
「朝鮮は滅んで当然である。彼らは自国を守る為に何らの努力もしなかったからだ。むしろ日本のような文明国に併合してもらえる事を神に感謝すべきだ」
当時はこういう時代で、文字通り「弱肉強食」の時代でした
努力に努力して近代化して力をつけないと自国が植民地になってしまう危機にありました
ちなみに、明治初期に日本の外務省が雇ったお雇い外国人リゼンドル(アメリカ人)はこう提言しています
「北は樺太南は台湾を制し、朝鮮と満州に橋頭堡を築いた上に、弦月型に大陸を抑えねば、日本の独立を保持し、東亜の政局を左右する事は出来ぬ」
日本の歴史はリゼンドルの主張通りだったのですから、恨むのなら帝国主義時代とそれを教えたペリー、リゼンドルを恨むべきですね
>満州国設立などと続いていきます
満州国だって日本にはいくらも言い分があるのですが?
当時の国際情勢とか日本の状況は解ってますか?
尖閣諸島と竹島が「帝国主義的領土拡張」!?
やはりあなたは思想的にかなり偏ってますね
日本共産党ですら、両者(尖閣諸島・竹島)ともに「日本の領土」と認めているのですが?
そんなに思想的に偏ってるから井上清なんて「キチガイ学者」を引き合いに出せるんですね
繰り返し指摘しておきますが、井上清が論文を発表した当時、1972年代、日本共産党・社会党・朝日新聞などなどほとんど全ての左翼勢力は、
尖閣諸島は日本の領土
と認めていました
認めなかったばかりかそこに「日本軍国主義の復活」などを見て震え上がっていたのは井上清ただ一人です
あなたは、圧倒的多数の左翼勢力+保守・右翼勢力の方が間違えていて、文革や毛沢東をすら賛美した「キチガイ学者」の井上清の方が「正しい」と仰いますか?w
>>「天皇制軍国主義の琉球処分」という表現になっても間違いではないでしょう。
> >「明治時代における帝国膨張の第一程となす」と記しているのです
何か問題でも?
当時は帝国主義・植民地主義真っ盛りの時代ですが?
他国との比較もなく、日本が特別悪かったかのような「天皇制軍国主義」などと形容するのは、やはり思想傾向に偏りがありすぎます
当時は「スポーツ感覚で戦争がやれた時代」だって解ってて言ってますか?
アフリカもアジアも力なき国は次から次と欧米諸国の植民地に成り果ててましたが?
試しにアヘン戦争から19世紀末までの戦争の歴史を調べてみましょうか?
1840 アヘン戦争
1846 米墨戦争
1848 イタリア統一戦争
1851 太平天国の乱
1853 クリミア戦争(ペリー来航)
1856 アロー戦争
1857 セポイの乱
1861 南北戦争
1866 普墺戦争
1867 戊辰戦争
1870 普仏戦争
1873 仏越戦争
1874 台湾出兵
1877 露土戦争(西南戦争)
1882 仏越戦争
1884 清仏戦争
1893 フランスがラオスを植民地化
1894 日清戦争(アメリカがハワイ王国を滅ぼす)
1898 米西戦争(義和団の乱、アフリカ分割が進行)
1899 米比戦争(ボーア戦争)
1900 北清事変
特別日本がやってる事って悪い事ですか?
日本は当時の「グローバルスタンダード」に乗っただけなのですが?
>目次だけ読んでも「気がふれている」としか言いようがない罵詈雑言のオンパレードである。
となるのでしょう。だから彼の指摘している歴史的事実を検証することなく批判されているわけで、それは科学的ではなく感情的だというのです。したがって、次のような指摘も、全くあたらないと思います。
>左翼の中でもヘソマガリと言うか異端というべき妄想狂の井上清を取りあげる意味が、果たして一体どこにあるというのか?
例えば、台湾出兵に同行した日本初の従軍記者、岸田吟香に下記のような戦地報道があります。
…「まず支那領の堺より南なる地に手を下し、これを略取して植民地となし、それよりまた北支那領の堺より南の地に兵を置きて、漸々にこれを開拓し、大木を伐り荊棘を焼き、土蕃を教え導きて、以てわが皇国の版図を広めんとなしたもうの思召しなるべし」(同5月15日)
>「皇国の版図を広めんとなしたもうの思召しなるべし」
というのです。
また、琉球の抵抗があったにもかかわらず処分断行を決定した時の内務卿伊藤博文は、松田道之大書記官を琉球に派遣しましたが、松田は警官隊160余人、熊本鎮台分遣隊約400人の兵士を率いて琉球におもむき、首里城で処分断行-廃藩置県を言い渡しています。1879年4月4日のことですが軍事的威嚇によって琉球処分をおこなったわけで、「天皇制軍国主義の琉球処分」という表現になっても間違いではないでしょう。その証拠に大隈重信は、この琉球処分を
>「明治時代における帝国膨張の第一程となす」と記しているのです。
帝国主義的領土拡張の流れが始まっていたのであり、その後尖閣諸島領有、台湾併合、竹島領有、韓国併合、満州国設立などと続いていきます。
これらの地域を日本が自国の領土としているからって、
「帝国主義政策である」
「植民地支配を行っている」
などと主張する者はよほどのキチガイを除いていないだろう
しかしこれらの地域も、それがなぜ日本の領土であるのかを国際法に従って説明すれば、井上清の大嫌いな「先占」の法理によって領有権を取得した地域である
井上清は北海道や小笠原諸島を見ては「帝国主義・植民地主義によって不当に盗んだ」とでも考えていたのだろうかw
同様に内蒙古、チベット、ウイグル、満州、台湾などが中国領としているのも、国際法で言うならば、先占の理屈からである
井上清はなぜ中共による「帝国主義」は全く非難しないのだろうか?w
ご都合主義にも程があろう
この論文が書かれた1972年当時存在したソ連もそうだ
シベリアやカムチャツカ半島などがソ連領とされるのも同じくこの「先占」による。
ソ連の「帝国主義」を井上清が非難しないのはなぜだろうか?
更にアメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドなどの国々において、自国領域としている陸地および島嶼の大部分は、これらの国々が独立する以前において旧本国が 先 占 に よ っ て 領域として取得していた地域である。
もし井上清の言うように先占権は無効というのであれば、これらの国々の存在が法的に問題とならなければならないw
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%B8%85_(%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%AE%B6)
そもそも井上清は日本近現代史の教授であったはずだ
自分の専門分野でもなんでもない法学(国際法)について偉そうに講釈を垂れる資格がそもそも無い
(休憩時間にて1つ投稿。まだまだあるがまた後で)
『尖閣諸島に関する彼の論のひとつでもいいから、「これは違う、間違っている」と反論してください。冷静に論証してください。』
管理人様の求めに応じて少しやってみようかね
まず、井上清は尖閣諸島領有の根拠である「先占」を批判している
井上清の罵詈雑言は省いて簡単にまとめるならば、
「無主地の先占という考え方は欧米植民地主義、帝国主義の利益にのみ奉仕するものであるから無効である」
これに尽きる
こんなふざけた勝手な言いぐさがあろうか?
井上清が何をほざこうが、「無主地の先占」の国際法は「有効」である
少なくとも、日本が尖閣諸島を領有した1895年時点では、無主地の先占は立派な「国際法」である
坂本龍馬や幕末の志士たちがむさぼり読んだ「万国公法」にそう書いてあるし、当時の判例もまた先占を認めている
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%83%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3%E5%B3%B6%E4%BA%8B%E4%BB%B6
1895年当時の国際法や判例を全面的に無視した挙げ句、共産党や社会党にすら相手にされなかった妄想で勝手に無価値と決めつけるのが井上清である
当時の状況や法体系を全部無視して「現在的感覚で」歴史を解釈するなど歴史家が一番やってはならない禁じ手である
井上清には大学で厳しく教わるはずの基礎知識もない
こんな暴挙を許してしまうなら、戦国武将はみんな例外なく国連憲章に照らして「侵略者」と非難する事さえ出来てしまうw
井上清の「先占無効論」なんぞはそんな低レベルの与太話である
まだ続く予定ですが、今日はこれくらいで失礼
日本共産党しかり、日本社会党しかり、朝日新聞しかり
井上清自身がそのように書いている以上、それは事実なのだろう
「尖閣諸島は日本領土」と主張する事に「日本軍国主義の復活」を幻想した知識人は、日本広しといえども「キチガイ学者」の井上清ただ一人である
左翼の中でもヘソマガリと言うか異端というべき妄想狂の井上清を取りあげる意味が、果たして一体どこにあるというのか?
文革に心酔した時点で井上清にはまともな観察力も無いのが明らかだし、
日本共産党やその他の左翼仲間にすら「日本軍国主義」を見ていた井上清にはまともな思考能力もない
ついでに言えば、あとから自分の主張を反省する機会がいくらでもあったのに全く反省の弁を吐く事なく死んだという時点で、井上清には人間としての最低限の礼節すら持ち合わせていないのも解る
一方の中国にはひたすら甘かった
文化大革命を賛美し、毛沢東を賛美し、日本共産党が文革を批判的に見ていただけで鬼か悪魔のように日共を批判した人物である
2010年現在、どちらが正しかったのかは最早はっきりしており、文革は「大失敗だった」と考えるのが一般常識である
しかし井上清は2000年ぐらいまで存命してきたくせに、文革を賛美して毛沢東に狂ったように陶酔してきた自分の過去を決して総括しなかったし、自己批判すら行わなかった
人間として「最低のクズだった」と断言できる奴の論文(?)を学術論争で無思慮に引用するのは、引用者の正気さを疑わざるを得ない
だから「頭大丈夫」と書いたのだ
井上清の「論文」(笑)は、一事が万事日本国への誹謗中傷・罵詈雑言に終始している。
試しにいくつか引用してみようか?
『それ(尖閣諸島)をいままた日本領にしようというのはそれこそ日本帝国主義の再起そのもの』
『古来、反動的支配者は、領土問題をでっちあげることによって、人民をにせ愛国主義の熱狂にかりたててきた』
(むしろ中共やソ連、北朝鮮を見れば解るように社会主義陣営の方がよっぽどひどかったはずなのだがw)
『再起した日本帝国主義も、「尖閣列島」の領有」を強引におし通すことによって日本人民を軍国主義の大渦の中に巻きこもうとしている』
『この列島の経済的および軍事的価値が大きければ大きいほど、日本支配層のここを領有しようという野望も強烈になり、この領有権問題で、人民をにせ愛国主義と軍国主義にかりたてる危険性も重大になる』
(どう見ても中国が一方的に駆り立ててますが?)
『こうして中国人の「不法入域」などのさわぎをつくりあげて、国民を反中国とにせ愛国主義にかりたてる舞台は、すでにでき上っている』
『それだけに、この島に関する歴史的事実と国際の法理を、十分に明らかにすることは、アジアの平和をもとめ軍国主義に反対するたたかいにとっては寸刻を争う緊急の重大事である』
(この論文は1972年に書かれたはずですが、2010年現在、「軍国主義化」なんて全く起きてませんが?そもそも振り返って見ても、1972年代の日本に「軍国主義」の徴候などカケラも有りませんでしたけど?)
『日本帝国主義が、この問題で国民の間ににせ愛国主義をあおりたて、現実に外国の領土侵略の第一段階を完了する』
『日本帝国主義の外国領土侵略とにせ愛国主義のあおり立てが、現に始まったことであり、日本人民の運命にかかわることである』
全15章の内、たった初めの 第 一 章 だ け で(笑)この調子である
被害妄想もここまで至れば立派な「ビョーキ」であろうw
>できれば、そういう感情論ではなく、
へー、井上清の次のような罵詈雑言の数々は「感情論」に該当しないんだw
ず い ぶ ん と 歪 ん だ バ ラ ン ス 感 覚 を お 持 ち の よ う で
『日本政府などは故意に歴史を無視してい る』
『天皇制軍国主義の「琉球処分」と釣魚諸 島』
『天皇政府は釣魚諸島略奪の好機を九年間うかがいつづけた』
『日清戦争で窃かに釣魚諸島を盗み公然と台湾を奪った』
『釣魚諸島略奪反対は反軍国主義闘争の当面の焦点である』
目次だけ読んでも「気がふれている」としか言いようがない罵詈雑言のオンパレードである
いやしくも「大学教授」を名乗る者の書く研究論文ではない
これが「感情論ではない」というなら、私の『キチガイ学者』の評価も「感情論ではない」のだがw
できれば、そういう感情論ではなく、尖閣諸島に関する彼の論のひとつでもいいから、「これは違う、間違っている」と反論してください。冷静に論証してください。その方が、彼をキチガイ呼ばわりするより、はるかに効果的な筈です。
その内容はほとんどが「罵詈雑言」であり、まともな人間なら一読して嘔吐をもよおすくだらない駄文なのに
また、牡丹社事件にかかわって、清国が日本に賠償金を支払ったのはどのように考えるべきでしょうか。
チベット問題は大問題です。でも、私は今、「日本の正しい歴史認識は?」ということで、特に戦争に関わる歴史を中心に学んでいます。
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年が間違っていますよ。