田母神論文には驚きとともに恐怖を感じました。「旧日本軍の思想が自衛隊の中で生き延び、戦後63年を経た今甦りつつあるのではないか」そんな気がしています。
新しい歴史教科書をつくる会の歴史認識や動きも気になりますが、沖縄戦「集団自決」の軍命を、高校教科書から削除するようにいう文科省の検定意見も、何か田母神論文と通じる歴史認識であるように思います。大浜長照石垣市長の、「県民にとって歴然とした実相だが、来年度から使用される高校の教科書から沖縄戦の事実が消されそうになっており、沖縄県民は強い危機感をもっている」との声明が報道された時、それをコピーした覚えがありますが、文科省も、そうした沖縄県民の声には耳をかたむけず、「不都合な事実はなかったことにしようとする」姿勢なのではないでしょうか。
田母神論文の「日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない」という部分は理解できます。しかし、村山談話にある「遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」という歴史的事実の謝罪を認めず、軍人が政治をほしいままにしたあの軍国日本の所業を含め、「すばらしい国だ」というのは、日本に謝罪を求めた多くの国々と戦争の続きをやろうとするに等しい姿勢だと思います。日本を真に誇りの持てる国にするためにこそ、「国策の誤り」は認めなければならないと思うのです。
私が今まで抜粋してきた証言や報告その他はすべて、「国策の誤り」または、国策の誤りに起因するといえるものですが、さらに、田母神論文に対する反論のひとつになるのではないかと思う事実を、「真珠湾・リスボン・東京 -続一外交官の回想-」森島守人(岩波新書)から、抜粋することにしました。歴史的に深い交流もあり、極めて親日的であった中立国ポルトガルとの関係の問題です。
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11 日本軍のチモール島占領
日本では右のように、情報基地としてのリスボンを重視していたが、このリスボンでの活動を中止しなければならなくなるかも知れぬと憂慮された要因が二つあった。一つは日本軍のポルトガル領、チモール島占領であり、他の一つは華南のポルトガル領マカオに対する日本軍の高圧的態度であった。陛下もこの上敵国をふやしたくないとのお考えから、日葡関係を深く憂慮しておられるとの確報もあり、私は両国国交の調整には全力をつくした。
日本軍のチモール島占領 チモール島はオーストラリアの前面に位する一島嶼で、東半がポルトガル領、西半がオランダ領となっている。この島はオーストラリア攻略の基地として、軍事的価値があったため、昭和16年の12月、濠、蘭軍が、まずポルトガル領を占拠した。ポルトガルはイギリスへ抗議し、ついに両国間の重大問題となり、当時対英断交説さえ擡頭した。交渉の結果、ポルトガル本国からの派兵をまって、濠、蘭軍が撤退することに話し合いがまとまった。ポルトガルが本国兵派遣のため日本とのあいだに、戦闘地域を通過する際の航路の選定などについて、具体的に話し合いを進めていたやさき、日本は翌17年の2月、無断でチモール島を占領してしまった。日本は「軍事上の必要にもとづく自衛行為で、ポルトガルの主権や領土権はあくまでも尊重する、軍事上の必要が消滅し次第撤兵する」と声明したが、ポルトガルは、領土主権および中立権の侵害だとして、厳重に抗議した。その上現地の日本軍が通敵または利敵行為を行ったとの理由で、土着民やポルトガルの官吏を、勝手に逮捕、監禁、処罰したため、問題を一層紛糾させてしまった。その真最中に、日本軍は無電臺を押収、管理して、通信主権侵害の問題までひき起こした。
しかしポルトガルの首相兼外相のオリヴァーサラザール博士は、戦争を否認する独自の政治哲学上の見解と、中立維持の実際政治上の方針から、領土主権侵害という原則上の立場と、この問題の実際的処理とは、別個の問題としてとりあつかう方針にでた。さしあたり日本の誓約に信頼して、主権と行政権とが有名無実にならない以上、現地の日葡両国官憲のあいだに不必要な摩擦を起さず、双方の融和的接触によって、チモール原住民の平和的生活を確保しようとの方針にでた。これがため、ごうごうたる輿論の攻撃を排して、対日反感の激発を抑えつつ、日本公使館とのあいだに、根気よく交渉をつづけてきたのであった。
交渉停頓と対日感情の悪化 ・・・
しかし、そのうちにオーストラリア船でチモール島から避難したポルトガル官民がオーストラリアへ着くと、オーストラリア発の新聞電報や、本国の親戚、知人にあてた私信によって、日本軍の残虐行為が頻々として伝わり、日本軍は土人を先頭に立てて、これを掩護物として敵軍を掃蕩しているとの記事まで大袈裟にでた。対日感情の悪化したことは当然であった。
アゾーレス協定の成立 このような険悪な空気のうちに、何とか交渉再開の糸口を見つけたく、好機の到来を待っていたところへ、翌18年の夏、イギリスとポルトガルとのあいだに成立したアゾーレス協定が、この機会を提供してくれた。アゾーレス群島の軍事的価値は前に一言した通りだが、ポルトガルは、英米両国と長い交渉をとげたあげく、アゾーレス群島中の一つの島を空軍基地として使用することをイギリスに対して承認した。
私は訓令によって、右協定の中立違反について、厳重な抗議を申し入れた。これに対してサラザール外相は、「公然ポルトガルの主権と行政権とを侵害し、中立権を蹂躙している日本は、道義的にも、法律的にも抗議を提出し得べき立場にない。もし日本政府から、公文で抗議があれば、ポルトガル政府は、チモール島で行われている日本軍の行為について、いちいち公式に抗議せざるを得なくなるだろう」と述べて日本の申し入れを容認しなかった。……
・・・
ポルトガルの撤兵要求 視察報告がリスボンに着いた後、私はサラザールに対して、右視察の結果にもとづいて、善後措置を協議することを申し入れた。これに対しサラザールは、「全島は日本の誓約に反し、純然たる日本軍の軍政下にあり、ポルトガルの主権と行政権とは完全に無視されている。オーストラリアへ避難した者の通信中には、誇張にすぎたものもあったが、日本軍の残虐行為は相当なものだ。しかし視察報告の結果にもとづいて、いちいち問題をとりあげて、この際貴下と議論しても、問題の根本的解決に資するところはないであろう。また、太平洋方面の戦局の現状から見ると、日本はオーストラリアへの侵攻を放棄したように観察され、日本軍のオーストラリア攻略の前進基地として、チモール島のもつ軍事的価値はいまや消滅したように判断される。したがって、あくまで、日葡国交の正常化を計るためには、この際むしろ根本にさかのぼって、日本軍のチモール島撤退について、考究すべき段階に達したと認められる」との重要な発言をなした。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
また旧字体は新字体に変えています。青字および赤字が書名や抜粋部分です。
「・・・」や「……」は、文の省略を示します。
新しい歴史教科書をつくる会の歴史認識や動きも気になりますが、沖縄戦「集団自決」の軍命を、高校教科書から削除するようにいう文科省の検定意見も、何か田母神論文と通じる歴史認識であるように思います。大浜長照石垣市長の、「県民にとって歴然とした実相だが、来年度から使用される高校の教科書から沖縄戦の事実が消されそうになっており、沖縄県民は強い危機感をもっている」との声明が報道された時、それをコピーした覚えがありますが、文科省も、そうした沖縄県民の声には耳をかたむけず、「不都合な事実はなかったことにしようとする」姿勢なのではないでしょうか。
田母神論文の「日本というのは古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。私たちは日本人として我が国の歴史について誇りを持たなければならない」という部分は理解できます。しかし、村山談話にある「遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」という歴史的事実の謝罪を認めず、軍人が政治をほしいままにしたあの軍国日本の所業を含め、「すばらしい国だ」というのは、日本に謝罪を求めた多くの国々と戦争の続きをやろうとするに等しい姿勢だと思います。日本を真に誇りの持てる国にするためにこそ、「国策の誤り」は認めなければならないと思うのです。
私が今まで抜粋してきた証言や報告その他はすべて、「国策の誤り」または、国策の誤りに起因するといえるものですが、さらに、田母神論文に対する反論のひとつになるのではないかと思う事実を、「真珠湾・リスボン・東京 -続一外交官の回想-」森島守人(岩波新書)から、抜粋することにしました。歴史的に深い交流もあり、極めて親日的であった中立国ポルトガルとの関係の問題です。
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11 日本軍のチモール島占領
日本では右のように、情報基地としてのリスボンを重視していたが、このリスボンでの活動を中止しなければならなくなるかも知れぬと憂慮された要因が二つあった。一つは日本軍のポルトガル領、チモール島占領であり、他の一つは華南のポルトガル領マカオに対する日本軍の高圧的態度であった。陛下もこの上敵国をふやしたくないとのお考えから、日葡関係を深く憂慮しておられるとの確報もあり、私は両国国交の調整には全力をつくした。
日本軍のチモール島占領 チモール島はオーストラリアの前面に位する一島嶼で、東半がポルトガル領、西半がオランダ領となっている。この島はオーストラリア攻略の基地として、軍事的価値があったため、昭和16年の12月、濠、蘭軍が、まずポルトガル領を占拠した。ポルトガルはイギリスへ抗議し、ついに両国間の重大問題となり、当時対英断交説さえ擡頭した。交渉の結果、ポルトガル本国からの派兵をまって、濠、蘭軍が撤退することに話し合いがまとまった。ポルトガルが本国兵派遣のため日本とのあいだに、戦闘地域を通過する際の航路の選定などについて、具体的に話し合いを進めていたやさき、日本は翌17年の2月、無断でチモール島を占領してしまった。日本は「軍事上の必要にもとづく自衛行為で、ポルトガルの主権や領土権はあくまでも尊重する、軍事上の必要が消滅し次第撤兵する」と声明したが、ポルトガルは、領土主権および中立権の侵害だとして、厳重に抗議した。その上現地の日本軍が通敵または利敵行為を行ったとの理由で、土着民やポルトガルの官吏を、勝手に逮捕、監禁、処罰したため、問題を一層紛糾させてしまった。その真最中に、日本軍は無電臺を押収、管理して、通信主権侵害の問題までひき起こした。
しかしポルトガルの首相兼外相のオリヴァーサラザール博士は、戦争を否認する独自の政治哲学上の見解と、中立維持の実際政治上の方針から、領土主権侵害という原則上の立場と、この問題の実際的処理とは、別個の問題としてとりあつかう方針にでた。さしあたり日本の誓約に信頼して、主権と行政権とが有名無実にならない以上、現地の日葡両国官憲のあいだに不必要な摩擦を起さず、双方の融和的接触によって、チモール原住民の平和的生活を確保しようとの方針にでた。これがため、ごうごうたる輿論の攻撃を排して、対日反感の激発を抑えつつ、日本公使館とのあいだに、根気よく交渉をつづけてきたのであった。
交渉停頓と対日感情の悪化 ・・・
しかし、そのうちにオーストラリア船でチモール島から避難したポルトガル官民がオーストラリアへ着くと、オーストラリア発の新聞電報や、本国の親戚、知人にあてた私信によって、日本軍の残虐行為が頻々として伝わり、日本軍は土人を先頭に立てて、これを掩護物として敵軍を掃蕩しているとの記事まで大袈裟にでた。対日感情の悪化したことは当然であった。
アゾーレス協定の成立 このような険悪な空気のうちに、何とか交渉再開の糸口を見つけたく、好機の到来を待っていたところへ、翌18年の夏、イギリスとポルトガルとのあいだに成立したアゾーレス協定が、この機会を提供してくれた。アゾーレス群島の軍事的価値は前に一言した通りだが、ポルトガルは、英米両国と長い交渉をとげたあげく、アゾーレス群島中の一つの島を空軍基地として使用することをイギリスに対して承認した。
私は訓令によって、右協定の中立違反について、厳重な抗議を申し入れた。これに対してサラザール外相は、「公然ポルトガルの主権と行政権とを侵害し、中立権を蹂躙している日本は、道義的にも、法律的にも抗議を提出し得べき立場にない。もし日本政府から、公文で抗議があれば、ポルトガル政府は、チモール島で行われている日本軍の行為について、いちいち公式に抗議せざるを得なくなるだろう」と述べて日本の申し入れを容認しなかった。……
・・・
ポルトガルの撤兵要求 視察報告がリスボンに着いた後、私はサラザールに対して、右視察の結果にもとづいて、善後措置を協議することを申し入れた。これに対しサラザールは、「全島は日本の誓約に反し、純然たる日本軍の軍政下にあり、ポルトガルの主権と行政権とは完全に無視されている。オーストラリアへ避難した者の通信中には、誇張にすぎたものもあったが、日本軍の残虐行為は相当なものだ。しかし視察報告の結果にもとづいて、いちいち問題をとりあげて、この際貴下と議論しても、問題の根本的解決に資するところはないであろう。また、太平洋方面の戦局の現状から見ると、日本はオーストラリアへの侵攻を放棄したように観察され、日本軍のオーストラリア攻略の前進基地として、チモール島のもつ軍事的価値はいまや消滅したように判断される。したがって、あくまで、日葡国交の正常化を計るためには、この際むしろ根本にさかのぼって、日本軍のチモール島撤退について、考究すべき段階に達したと認められる」との重要な発言をなした。
http://www15.ocn.ne.jp/~hide20/ に投稿記事一覧表があります。
一部漢数字をアラビア数字に換えたり、読点を省略または追加したりしています。
また旧字体は新字体に変えています。青字および赤字が書名や抜粋部分です。
「・・・」や「……」は、文の省略を示します。
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