司馬遼太郎は、自身で「暗殺はきらいだ」といっているのですが、暗殺者を主人公とした十二篇の短編からなる「幕末」司馬遼太郎(文春文庫)を世に出しました。書きたくないけれど、書かざるを得なかったのではないかと想像します。
教えられることや考えさせられることが多くありました。疑問に思うこともありました。だから、それらの主なものを抜き書き的に抜粋しました。
「桜田門外の変」では、幕末における薩摩藩と水戸藩の関係をより深く知ることができました。ただ
”…暗殺という政治的行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外といえる…”
というとらえ方には、疑問を感じました。
「奇妙なり八郎」は、幕末における数々の暗殺事件を象徴するような面があると思いました。幕末の志士のほとんどが、大きな夢を抱いた有能な若者であったことはよくわかるのですが、その時、その時の自らの思いを実現するために、簡単に人を斬ったということ、その極端な人命軽視の思想を、当時の若者を美化するために無視してはならないのではないかと思いました。
「花山町の襲撃」は、伊藤博文内閣の外務大臣として活躍した陸奥宗光の話です。陸奥は、言葉を交わしたことさえない十津川郷士中井庄五郎と伊予宇和島の脱藩浪士後家鞘彦六(ゴケザヤヒコロク=土居通夫)という二人の剣客に、先鋒斬り込みを依頼し、自らは拳銃をもって、坂本龍馬暗殺の容疑者とされる紀州藩士三浦休太郎を天満屋で襲っています。また、驚くことに、三浦を襲う前に、白井金太郎などと、水戸藩京都周旋方の酒泉(サカイズミ)彦太郎という佐幕論者をも襲っているのですが、司馬遼太郎は、これは、三浦休太郎暗殺の「予行練習といっていい」と書いています。そうした事実を、私は「幕末」を読むまで知りませんでした。幕末を読んでいない多くの人も、そういう事実を知らないのではないでしょうか。
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桜田門外の変
一
桜田門外の変であまねく知られている有村治左衛門兼清(アリムラジザエモンカネキヨ)が、国許(クニモト)の薩摩から江戸屋敷詰めになって出府(シュップ)したのは、事件の前年、安政六年の秋のことである。二十二歳。
「江戸にきて何がいちばんうれしゅうございましたか」
と、さる老女からからかい半分にきかれたとき、
「米のめし」
と治左衛門は大声で答えた。薩摩藩士にはめずらしく色白の美丈夫(ビジョウブ)で、頬があかい。
外貌どおり、素直すぎるほどの若者だったのであろう。
江戸藩邸では、中小姓勤役(チュウゴショウツトメヤク)という卑役をつとめた。
江戸ははじめてではあるが、次兄の雄助が一足さきに江戸詰めになって裁許(サイキョ)方の書記をしていたので、諸事、その引きまわしを受けた。
藩邸にわらじをぬいだその日、兄雄助は、
「治左衛門、江戸に来た以上、命はないものと覚悟せよ」
とひくい声でいった。
「心得ていますとも」
そのつもりで、江戸詰めの運動をしてやってきたのである。
「これは風懐でごわすが、辞世のつもりであります」
と、煙管(キセル)をとりだした。その柄に、
磐(イワ)、鉄(カネ)も、摧(クダ)かざらんや、武士(モノノフ)が
国安かれと、思い切る太刀 と、こまごまと刻まれていた。
(まずい歌ではない)
と、雄助は弟の意外な才能におどろいた。母ゆずりかもしれないと思った。母は歌学の達者である。
「つくったのは、おはんな?」
「左様でごわンど」
長兄は有村俊斎、次兄は雄助、この三人のなかで、治左衛門がもっとも詩才があったようである。
腕も立った。国もとで示現(ジゲン)流の名人といわれた薬丸半左衛門に学び、兄弟中の出色である。「天稟がある」と師匠からいわれた。
・・・
二
その後、治左衛門は、兄雄助が、
「日下部殿の御遺族」
と教えた家に、しばしば足を運んだ。薩摩藩邸の有志の審議は、多くこの借家でおこなわれたからである。
「日下部伊三次」
という名前ほど、薩摩藩尊攘有志の血をかきたてる名はなかった。幕末の薩摩藩が、最初に出した国事殉難者である。
井伊に殺された。
日下部伊三次は維新史にとって一種の運命的な存在だった。薩摩藩士だが、同時にかつては水戸藩に禄を食(ハ)んでいたという、いわば水薩両属の存在であった。
父の名は、連(ムラジ)。もと薩摩藩士であった。事故があって脱藩し、水戸領高萩で私塾をひらいているうちに水戸藩主斉昭(ナリアキ)(烈公)に知られ、その子伊三次が召しだされた。
伊三次はその後、藩主に請うて、亡父の藩であった薩摩藩に復帰することをのぞみ、両藩主に許された。
伊三次は水薩の接着剤の役目をつとめた。当時、水戸藩は尊王攘夷の総本山といった絢爛たるふんいきがあり、天下の志士から一種の宗教的な翹望(ギョウボウ)をうけていたが、薩摩藩がもっともこれに接近することができたのは、ひとつには前藩主斉彬が水戸の斉昭に私淑していたからであるが、日下部伊三次がその橋渡しの労をとったことが大きい。
とくに、西郷、大久保をはじめ治左衛門の長兄俊斎の三人は、日下部伊三次の手びきで早くから水戸の名士と相知ることができ、このことがかれらに重大な影響をあたえた。
その伊三次が、去る安政の大獄で逮捕され、江戸伝馬町(テンマチョウ)の牢で言語に絶するような拷問のすえ衰弱死した。同時に捕縛された長男祐之進も、その翌年、牢死。
日下部家には、女だけが遺された。
・・・
当初、井伊誅殺(チュウサツ)については、薩摩藩激徒のあいだに壮大な計画があった。
計画の主導者は、有村俊斎、大久保一蔵、西郷吉之助、高崎猪太郎ら薩摩藩でいう「精忠組」の連中で、水戸有志と何度も密会をかさね、井伊誅殺と同時に、薩摩藩は壮士三千人をもって大挙京にのぼり、朝廷を守護して幕府に臨み、朝命によって幕政を改革をせまるにあった。
・・・
三
・・・
治左衛門は、駕籠の戸をひきむしり、井伊の襟くびをとって引き出した。まだ息はあった。井伊、雪の上に両手をついたところを、治左衛門はあらためてふりかぶり、一刀で首を打ち落とした。
そこで、「薩音(サツオン)で叫んだ」というが、要するに味方一同にむかって討ちとめた旨を報告したのであろう。
同時に、申しあわせたように鬨(トキ)をあげ、思い思いにひきあげた。
争闘は十五分くらいの間だったらしい。降雪のなかを不意にあらわれた敵のために彦根藩士はほとんど木偶(デク)のように斬られ、十数人がツカ袋を脱して戦ったが、いずれも、闘死、または昏倒(コントウ)させられた。
その間、現場からほんの四、五丁むこうにある彦根藩邸の門は閉ざされたままであった。はげしい降雪のため気づかなかったのである。
・・・
この桜田門外から幕府の崩壊がはじまるのだが、その史的意義を説くのが本篇の目的ではない。ただ、暗殺という政治的行為は、史上前進的な結局を生んだことは絶無といっていいが、この変だけは、例外といえる。明治維新を肯定するとすれば、それはこの桜田門外からはじまる。斬られた井伊直弼は、その最も重大な歴史的役割を、斬られたことによって果たした。三百年幕軍の最精鋭といわれた彦根藩は、十数人の浪士に斬り込まれて惨敗したことによって、倒幕の推進者を躍動させ、そのエネルギーが維新の招来を早めたといえる。この事件のどの死者にも、歴史は犬死をさせていない。
・・・
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奇妙なり八郎
一
・・・
諸国の志士のなかでも怪物的な才人といわれた出羽用浪人清河八郎の刀は、相州無銘の業物で、引きぬくと七カ所に光芒が立った、といわれた。
剣相のほうでは、こういう刀をもっとも瑞剣(ズイケン)であるとし、
「七星剣(シチセイケン)」
といった。薄暗い灯(ホ)あかりで刀身をすかすと、刃の地肌に匂いたつ「湯走(ユバシリ)」が点々と星のように青く冴えてくる。それが七つまで数えることができるのだ。
この瑞剣をもつ者は天下取りになるというのである。むろん百万本に一本もない。
この剣の持主の清河八郎は、モトは武士の出ではなかった。
出羽国(山形県)の田川郡清川村の大百姓斎藤治兵衛の子に生まれ、少年のころは神童といわれた。志をたてて故郷を
出たのは十八の年である。
生家の斎藤家は庄屋とはいえ戦国のころはこの地方に威勢を張っていた豪族で、刀箪笥(カカタナダンス)をさがせば銹刀(サビガタナ)のニ、三十本はごろごろと死蔵されていた。
家を出るとき、その中から手頃な大小を見つけて差料としたが、父の治兵衛が別に油鞘(アブラザヤ)に収まった銹刀一本をとりだし、
「無銘だが、江戸で研がせてみろ、案外な逸物かもしれん」
と手渡した。
「荷物になる
と八郎はいやがったが、無理やりに持たせた。
江戸では学問を最初、東条一堂、佐藤一斎にき、ついで安積艮斎(アサカゴンサイ)に入門し、最後には昌平黌(ショウヘイコウ)にまで入った。剣は千葉周作にまなび、文武とも抜群の出来であった。とくに剣は数年で大目録皆伝をとるほどの異常児であった。軽捷果敢(ケイショウカカン)、清河に胴を撃たれると息がとまる、という評判が、他道場にまできこえていた。安政元年二月、早くも独立して神田三河町に北辰一刀流の町道場をひらき、同時に学問をも教授した。当時、浪士のあいだで勢力をえようとする野心家は私塾をひらいて門人食客を集めるのが普通であった。
・・・
五
・・・
某日。
佐々木唯三郎は、清河が、松平上総介を通じて、幕府肝煎(キモイリ)による浪士組の結成を老中板倉周防守(スオウノカミ)(伊賀守)勝静(カツキヨ)に働きかけているというはなしを当の上総介からきき、わが耳をうたがうほどにおどろいた。
「清河は、いかに表面巧言でかざっているとはいえ、倒幕論者ではありませんか。それがいわば幕権擁護のために、在野の剣客をつのるとはどういう判じ物です」
「私もよくわからない」
と、上総介はおだやかな口調で、
「清川狐がどんな呪文でこんなことを考えだしたかは知らないが、いま公儀が打つべき手としては妙を得ている。京都は、清河が九州から嘯集(フキアツ)めた浪士どもに長州、土州の者もまじり、近国の浮浪浪士まで加わって毎日毎夜の刃傷(ニンジョウ)騒ぎだ。すこしでもおのれどもと意見のちがうのを見つけると、天誅と称して容赦会釈なく血祭りにあげてしまう。幕府(コウギ)に好意をもつ九条関白家の諸大夫島田左近が首を斬られて先斗町(ボントチョウ)の磧(カワラ)にさらされたというし、おなじく宇郷玄蕃は、首になって宮川町の川岸に古槍の穂で突き梟(サラ)しにされていた。多い日には数人も殺されている。あの連中は、清河にあざむかれて京にのぼってきたものの、脱藩の身では餓えは迫る、気はあせる、国には戻れぬ、というわけで、物狂いの状態だ。剣をもって鎮圧するしか手がない」
「それにしても妙なはなしだ」
京で跳梁している浪士は、清河が天竺魔法のような術策でよびよせたものではないか。それをこんどはおなじ清河が剣をもって鎮圧するとはどういうわけだろう。
・・・
六
・・・
約束の刻限からすこし遅れて清河がやってきた。
用件はわかっている。攘夷連名簿に血判署名することである。すでに清河はその懐中の帳簿に五百人の署名をあつめており、日を期して挙兵し、まず横浜の外交施設を襲撃することになっていた。むろんその挙兵と同時にこの軍団は王権復興の討幕軍に早変わりするのである。
「古い学友だ。いまさら喋々(チョウチョウ)せずとも私の気持ちはわかってくれるだろう」
「わかっている。加えていただく」
金子は快く署名血判し、あとは妻女に酒を出させ、徳利(トックリ)をさしのべた。その徳利の口が猪口(チョコ)にあたってカチカチ鳴ったことに清河は気づかない。
そのころ、藩邸の裏門のあたりをしきりと往き来している数人の武士がある。
裏門からの道は一筋に赤羽橋まで伸び、橋のたもとによしず張りの茶店があり、そこでも数人の武士が、茶を飲んで屯(タムロ)している。いずれも二、三百石取りの直参の風体であった。
そのなかで首領株の佐々木唯三郎だけが、陣笠をかぶっている。あとは講武所教授方速見又四郎、高久保二郎、窪田千太郎、中山周助。
四ツすぎ、清河は藩邸を辞した。
清河も佐々木同様、檜(ヒノキ)の黒羅紗をはった陣笠をかぶっている。
したたか酔っていたが、たしかな足どりでしかしやや歩みを落として麻布一ノ橋を渡り切ると、不意に横あいから、
「清河先生」
と佐々木唯三郎が声をかけた。
「ふむ?」
「佐々木です」
と、ここからが唯三郎が工夫しぬいた兵略だった。すぐ会釈をするふりをして陣笠をとった。
清河もやむをえない。右手に鉄扇をにぎったまま陣笠のひもに指をかけた。
とたん、背後にまわっていた速見又四郎が抜き打ちをあびせた。ほとんど横なぐりといってよく、清河は左肩の骨を割られて前のめり、一歩踏みだしてつかに手をかけようとしたが、右手首に通した鉄扇のひもが妨げて抜けない。
「清河、みたか」
致命傷は、ささきの正面からの一太刀だった。右首筋の半分まで裂き、その勢いで清河の体は左へ数歩とんで横倒しになり、半ば切れた首がだらりと土を噛んだ。
土に、酒のかおりがむせるように匂っていたという。
佐々木唯三郎は、このときの功でのちに見廻組組頭になり、千石に加増されている。
清河は、素朴すぎるほどのわなにかかったことになる。策士だっただけにかえって油断した。
おそらく彼自身が不審だったろう。ひとが自分をだますなどとは、夢にも思っていなかったにちがいない。
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花山町の襲撃
六
・・・ばらばらっと天満屋の表口をかこむと、先鋒斬り込みの二人の剣客が進み出た。
後家鞘彦六
中井庄五郎のふたりである。陸奥は、総帥だからその背後の雪の上に立っている。
・・・
すぐ階段がある。宴席は二階である。中井、後家鞘のふたりは足音を消してトントンとのぼりきるなり、奥の間のふすまを
カラリーー
とひらいた。敵方の一同二十数人、おどろいて不意の侵入者を見上げた。
中井は豪胆にも、新撰組の隊士の押しならぶ真只中に進んでゆきながら、床柱を背負った黒縮緬の羽織の武士をにらみ、「三浦氏はそこもとか」
といった。気を呑まれて三浦が
「おう」
立ちあがるところを、中井は、三浦の前にある卓袱台(チャブダイ)の上に右膝をつき、
「参る」
ぱっと抜き打ちに斬った。その間一瞬で、ほれぼれするような居合いだったという。
が、中井は間合いをはかりそこねた。
「わっ」
と立ちあがった三浦の面上を割るにいたらず、眼の下の肉をわずかに裂いた。
そのときが、中井の最期だった。三浦の横にいた新撰組三番隊長斎藤一が、ほとんど同時に中井に抜き打ちをあびせ、左頸筋から胸にかけてざくりと割った。
「不覚ーー」
中井の身体がのめった。のめる瞬間、中井の背後から重なるようにして、まるで中井の死体が起きあがったかと錯覚させるようなすばやさで、おなじぬきうちが斎藤を襲った。
後家鞘彦六である。
斎藤は右籠手を叩き斬られて刀を落としたが血はでない。鎖の着込みを着ていた。
が、打撃は骨にひびいた。
このため、当夜第一の使い手だった斎藤が思うように使えず、陸奥方はその分だけ 楽な戦闘になった。
その右膝ついたままの後家鞘へ、左から一人が斬りかかった。
すかさず後家鞘は刀を逆にはねあげてその男の下あごを割り、
わっーー
とのけぞるところを左膝をすばやく前へだして胸に突きを入れた。
男は、杯、器物を散らして横倒しにたおれた。それが、かつて東町奉行所で、
ーー同じ年格好のようですが、
と、入隊をすすめてくれた宮川信吉であるとは、現場では後家鞘も気づかなかった。
とたんにふすまが倒れ、海援隊士関雄之助(のちの沢村惣之丞)、小野淳輔(坂本龍馬の甥)、竹野虎太らが斬りこんできた。
そのころには、後家鞘は、三浦の家来平野藤左衛門に致命傷を負わせ、新選組隊士梅戸勝之進の左股を骨まで切っている。
が、新選組側は、さすがにこういうことに場馴れしていて、すばやく灯りを消し、
「三浦、討ちとった」
と、隊士の一人が叫んだ。
このため斬り込み方はあざむかれ、
「退(ヒ)け」
と、階段を駆けおりる。
そのあとを、新選組船津謙太郎が真先に迫ったが、階段から飛びおりたところで、長身の陸奥がのっそり立っていた。
とっさに陸奥は、引き金をひいた。
家が割れるほどの轟音がおこり、拳銃をもっていた陸奥はその発射の反動で土間に転げ落ちてしまった。
同時に、船津も肩を射ぬかれて、陸奥のそばであがいている。
「退け」
陸奥は跳ね起きて路上に走り出るなり叫び、一同、雪の路上へ四散し、それぞれ思う方角に落ちた。
この天満屋騒動での双方の損害は、いまなお諸説があって明確な数字はない。
ただ死者は、新選組側が宮川信吉、海陸両援隊側が中井庄五郎。
それぞれ一人で、これだけははっきりしている。三浦休太郎は重傷を負っただけで一命はとりとめた。
事件後、陸奥は夜の町を北へ走って相国寺門前の薩摩屋敷の門をたたき、
「御開門くだされ。海援隊陸奥陽之介という者でござる。ただいま、隊長坂本の仇を討って参った。」
というと、この屋敷の者には、陸奥はほとんど面識もなかったのに、これだけ喋ると意外にも開門してくれた。坂本の死は、薩藩にも同情者が多かったからだろう。
小門をくぐってほっと一息つくと、なんと後に、後家鞘が立っている。
「ついてきたのか」
「いかにも。それがし、各々のように頼って落ちてゆく先がない。お願い申す。」
後家鞘にすれば、以前に坂本に離れて浮浪しているだけに、こんどこそは食らいついても離れまいというつもりだった。
この男は運がいい。
事件から二日後の慶応三年十二月九日に維新の大号令が下り、一ト月後に鳥羽伏見の戦いが起こった。
鳥羽伏見の戦いのときには、いちはやく江州大津に飛び、官軍の兵糧確保のために米問屋に手を打ったという功績で、名が故藩まで聞こえ、脱藩の罪がゆるされるとともに藩主伊達宗城(ムネナリ)によびだされ、
「維新招来のための多年の辛苦、殊勝であった。わが藩からそちのような功臣を出したとは、時節柄、よろこばしい」
と賞せられた。
維新直前わずか一日の奮闘で、後家鞘こと土井通夫は新政府の外国事務局御用掛、さらに大阪府権知事、兵庫裁判長などを相次いで歴任し、のち致仕して財界に入り、明治二十六年大坂商工会議所会頭になった。
維新後、大坂府権知事になって、たまたま高利貸高池屋の付近を馬車で通ったとき、近所の者が
「似ている」
と騒ぎだし、やがて数年前の高池屋の手代が、いまの権知事であることを知ってその数奇な出世に驚いたという。
人間の運など、まるでわからない。
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