真実を知りたい-NO2                  林 俊嶺

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慰安婦狩り、監禁、強かん、殺人の証言

2019年07月29日 | 日記

 元「慰安婦」の証言集を読むと、朝鮮や台湾から連行され、慰安婦にさせられた女性の多くは、騙されて慰安婦にさせられたということがわかるのですが、フィリピンや中国でなどの戦地、占領地では、下記のように、日本軍の兵士が直接女性を暴力的に連行し拘束して慰安婦にしたことがわかります。軍と住民との関係が敵対的であったためではないかと思います。

 日本は、こうした元「慰安婦」の証言を、事実の証言として受け止め、元「慰安婦」の方々にきちんと向き合って、一日も早く謝罪と賠償をすべきだと思います。元「慰安婦」の証言は多様です。こうした感情が伴う証言を、支援者などが創作して覚えさせ、事実と異なることを証言させているなどと受け止めたり、売春婦だった人たちが、お金欲しさに嘘をついているのだなどと受け止めて、責任逃れをすることは、恥ずかしいことではないかと思います。
 国連人権委員会より任命され、女性に対する暴力に関する特別報告者となったラディカ・クマラスワミ氏(スリランカ出身、ニューヨーク大学法学部教授)は、日本軍の「軍事的性奴隷問題」についての報告書のなかで、

それでも徴収方法や、各レベルで軍と政府が明白に関与していたことについての、東南アジアのきわめて多様な地域出身の女性たちの説明が一貫していることに争いの余地はない。あれほど多くの女性たちが、それぞれ自分自身の目的のために公的関与の範囲についてそのように似通った話を創作できるとは全く考えられない。

 と書いています。私もその通りだと思います。日本が責任逃れを続ける限り、東アジア諸国の日本軍「慰安婦」問題に関する追及は続くと思います。根本的解決に至らないと、将来世代も恥ずかしい思いをすることになるのではないかと思います。根本的解決に至れば、過去の問題になり、将来世代が恥ずかしい思いをすることはないのだと思います。

 下記は、「フィリピンの日本軍慰安婦 性的暴力の被害者たち」フィリピン「従軍慰安婦」補償請求裁判弁護団(明石書房)から抜粋しましたが、

” 戦争被害者の生き残りの一人として私にできることは、私の経験をもって、すべての政府と国際社会に、戦争がもたらす女性への暴力についての教訓とさせることだけです。しかし日本政府がわたしたちに負う、その責任に向きあわない限り、この教訓も学ばれず、完全に目的を遂げることができません。

 という主張は、無視されてはならないと思うのです。

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                  父を殺され、将来を破壊された
                                                      トマサ・サリノダ
 私はトマサ・サリノダです。1928年12月8日、アンティケ州州都のサンホセに生まれました。母は私の生後一ヶ月で亡くなり、きょうだいはおりません。
 1942年に日本がフィリピンを占領したときには私は十三歳でした。私は父と山へ疎開しましたが、州知事が州都は安全になったと宣言したことを期に家へ戻りました。山から家へ戻る途中に初めて日本兵を見ました。サンホセは日本兵であふれていました。
 日本軍の駐屯地が家の近くにあったので通りを行く日本兵をよく見かけました。兵士たちは私のじゃまをすることも、私たちを傷つけることもしませんでした。少なくともしばらくのあいだは。
 しかし、二週間後、父と私が寝ているところへ、日本兵が押し入って来ました。外にはほかに二人が待機していました。二人の兵士が私を連行しようとしたため、父は抵抗しました。するとそのうちの一人、後でヒロオカ大尉と知るのですが、彼が剣で父の首を打ちました。父を助けようと駆け寄り、抱き起すと頭がなくなっていました。あまりの悲しさに泣き叫ぶ私を日本兵は容赦なく家から引きずり出しました。私は父の亡骸につきそいたいと、放してくれるように頼んだのですが、日本兵は気にもとめませんでした。首を切り落とされた父の亡骸はそのまま放置されました。
私はサンホセのゴビエルノ通りにある二階建ての家に連れていかれました。日本軍の駐屯所がすぐ近くにありました。日本兵は私をなかに入れ、鍵をかけて出ていきました。夜中に私は父のことを思い、泣き続けました。
 夜明け前にヒロオカ大尉と他の兵士が部屋に入ってきました。彼らは、弱っていて、打ちひしがれている私にセックスを強要しました。私は強く抵抗しましたが、ヒロオカは私を強かんしてしまいました。ヒロオカの後に次の兵士が強かんしようとしました。私は弱っていましたが、再び強く抵抗すると、その男は何かで私の頭を殴り、私は気絶しました。意識が戻ったときにはだれかが私の頭の傷をお湯で拭っていました。
 その後三日間は部屋のなかに一人おかれ、日本兵は来ませんでした。しかしその後は日本兵が来て私を強かんしました。私は何度も気を失ったので何人に強かんされたのか覚えていません。毎日二人から五人くらいの兵士に強かんされました。
 どのくらいその家にいたかは覚えていません。自分が正気を失ってしまったと思えることもありました。部屋のなかにただ座って何時間もぼんやりと宙をみつめていました。いつも父のこと、どうやって殺されたかを思い出していました。父がどこに埋葬されたのかもわかりません。
 ある日兵士が部屋のテーブルの上に鍵を忘れたのを機に逃げ出しました。ある夫婦の家へ逃げ込み、かくまってもらい、私は家事の手伝いをしていましたが、長くは続きませんでした。オクムラという日本兵が来て、引き渡さなければ殺すと夫婦を脅し、私を連れ出しました。
 私はオクムラの家へ連れていかれ、奴隷のように扱われました。洗たくや掃除を命じられたほかにオクムラが帰るたびに強かんされました。オクムラは来客があると、その者に私を強かんさせることもしました。けれども私はオクムラの家から逃げだそうとは考えませんでした。逃げたら殺されるか拷問される、という思いと、あの大きな家で多人数の日本兵にセックスを強要されるよりは、オクムラの家のほうがまだましだという思いからです。
 日本軍がサンホセから完全にいなくなって私はオクムラから解放されました。
 それ以来ずっと一人で暮らしています。日本兵によってとても深く傷つけられたため、結婚したいとは一度も思いませんでした。日本の占領中に辱められた経験を思い出すたびに苦痛と恥ずかしさでいっぱいになります。日本軍によって父が殺されたこと、性奴隷にされたことを思い出すたびに泣いたものでした。戦争中の辛い体験から何年たっても、ときおり父のことを考えては、何時間も座り続けることがあります。
 戦争によって父は殺され、私は唯一の身寄りを失くしました。学校へも行けず裁縫をして生計をたててきました。性奴隷とされたことによって私の人生、将来が破壊されてしまったのです。
 若いころは何人かの男の人に好意を寄せられましたが、すべて断りました。セックスのイメージには暴力と強かんの記憶がつきまとうからです。それは汚らしく、寒気のするものでした。交際を断った際にある男性には、「日本人を何百人も相手にするほうがいいのだろう」と侮蔑され、家に投石までされました。自分の子どもはほしかったのですが、この経験のせいで結婚しないほうを選んだのです。
 1992年の終わりに、ある女性団体が、第二次世界大戦に性奴隷制度の被害者になった私のような女性に呼びかけていると知りました。「とうとう正義が回復される」と希望の光を見た思いでした。イロイロにあるその女性団体「ガブリエラ」の事務所を通して、タスク・フォースと連絡を取ることにしました。お金がなかったので、毛布を売って交通費を捻出しました。タスク・フォースの人びとに自分の体験を話した後には、大きな安堵感に包まれました。長いあいだずっと、誰かわかってくれる人に戦争中の苦しい体験を全部打ち明けたかったのです。初めて受け入れられ、理解されたと感じることができました。それはまるで胸からいっぱいのとげを抜き去ったかのようでした。
 しかし、名乗り出ることによってさらに傷つきもしました。近所の人に「補償金が入るのだから強かんされて運がよかった、戦争で金儲けができた」などといわれています。
 それでも提訴する決心をしたのは、これが日本軍によってなされた悪に対して正義を取り戻す一つの方法だからです。日本政府は五十年間も私たちに対する責任を取らずにすませてきました。私たちになされた戦争犯罪と強かんの事実は、私やそのほかの元「慰安婦」の証言によって指摘されています。
 戦争被害者の生き残りの一人として私にできることは、私の経験をもって、すべての政府と国際社会に、戦争がもたらす女性への暴力についての教訓とさせることだけです。しかし日本政府がわたしたちに負う、その責任に向きあわない限り、この教訓も学ばれず、完全に目的を遂げることができません。
 私は日本政府がすべての性奴隷制度の被害者に対し、その法的責任を果たし、誠意ある謝罪を行い、補償するように求めます。これが私に理解できる唯一の正義の表現です。単なる言葉では、私の経験した屈辱と苦悩を和らげることはできません。日本軍によって私は父をなくしました。父さえ生きていたら私は今頃、ここにいる裁判官のかたがたのように立派な仕事をしていたことでしょう。戦争中の性奴隷、「慰安婦」制度は戦時にあって私たち女性がもっとも被害を受けるのだということを醜く例証しています。
 私はすでに年老い、貧困のうちにひとりで暮らしています。食べるものにも困り、健康を害しているのでもう長くは生きられないでしょう。正義がすぐに実現されることを望みます。十分すぎるほど苦しみました。体は弱り、健康状態も日々衰えていっています。ですから日本政府は、そしてここにいらっしゃる裁判官のかたがたに、正義の実現をこれ以上遅らせないでくださいと訴えます。お願いですから、どうか、自分の人権と正義が回復されるのか否か、わからないままに私を死なせないでください。(第一回裁判での意見陳述による、秋田一恵弁護士担当)

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