きんちゃんの観劇記(ネタバレだよ)

思いつくまま、適当に。

「ジーザス・クライスト=スーパースター エルサレムバージョン 2015」(3回目)

2015年06月18日 | 劇団四季
*いろんなフィルターがかかっています。
 気持ち悪かったらごめんなさい。

キヨミチは喉にちょっと来ているかな。
私には良い具合の嗄れ具合。
今日のユダは、もう泣くことにも疲れて
絶望しきっているところを
最後の気力を振り絞って裏切るかんじかな。
いたるところでジーザスに手を指し伸ばしかけてやめる今季、
それでも期待を捨て切れていなかったのに、
今日はもういろいろ諦めていたような。
怒っているけど、それも持続しない。

もうジーザスが手の届かないところに行っちゃうのがわかっていて、
今までは「それなら俺が」「それなら俺から」だったのに、
今日はもうダメだとかなり悟っていたよ。
だからこそ、スパスタが軽やかなのか。
カテコで上腕部になにかを巻いたような跡があった。
スパスタ衣装のなにかかしら。

ジーザスは冒頭は爽やかな微笑みに近いかんじだった。
こちらも覚悟してふっきれたのかな。
でももう一回感情に流されて、
そこから最後の覚悟を決める、って流れかな。
晩餐冒頭では、ユダに向かってなにか言いかけてた。
身体も吸い寄せられそうになったのを耐えていたように見えた。
ユダからの視線は、目を閉じて遮断して、それから天に顔を向けて、
ユダが下を向いたら、目を開けて彼を見る。
複雑で微妙な気持ちなんだな。
二人はわかりあっているような、
思いあっているような、
すれ違っているような、
その全部がそうで、全部違う。面白いな。

渡久山さんのペテロは
最初はえらく猛々しくて、
ユダよりマリアより、
自分がジーザスにいちばん近くに行きたいと
その座を虎視眈々と狙っている。
飯田弟は組織のトップ狙いで、渡久山さんはスター個人の近く狙いね。
「なんでお前らはそんなに近くにいるんだよー!」って嫉妬混じり?

今宵ではユダの演説に反感を覚えていたのに、
晩餐でユダが去って行くとかっくり膝をついていた。
ユダ派だったのかと思うぐらい。
否定の後に言ってしまった後悔がガツンと伝わり、
マリアに責められるときもガックリ膝をつき、嘆きが感じられた。
やり直すは、けっこう野太い歌声だったけど、
さらちゃんの歌声とは合っていたんじゃないかな。
やり過ぎ感は無いけど個性は上手く出せていたと思う。
ただ、一貫した立場、気持ちではなく
群衆の動く通りに動いてい気がするので
もう少し、群衆との差別化があるといいのかな。

今日の群衆は一昨日ほどのガヤガヤなバラバラ感はなく、
ほどよくまとまっていたように思います。

さらマリアはわりと好き。
彼女の強さは生来のものではなく、
ジーザスに出会って作られたのがわかるし、
ジーザスとユダが死に向かう中、
彼女は地に足をつけて生き続ける。
生と死としての対比も良いし、
そういう人がいるから教義が残るのがわかると感じる。

カテコで捌けるとき、
一昨日はジーザスがマリアをエスコートしてたのに、
今日はジーザスが手を出して、
その手をマリアが引いて行くってかんじでした。
ジーザスもやられてきてるね。うふふ。

他になにを思ったっけか。
飯田ペテロの音量はやっぱりアレ。
せっかく金ラメのタイツを履いているんだから、
もっとあざとく見せなきゃイカンと思うよ。
どうせ宝石付きパンツがタイツと一体化してるんだろうから
「見えるかな」ぐらいまで見せないとな!
見せないなら素足で来い!

シモンナンバー前の群衆も、
一昨日ほど煩くないけど、
虐げられる辛さは伝わってきたよ。

野村さんが聖母マリアで、
高木さんが罪の女で、
さらちゃんが復活を発見するマリア、
ってかんじな。
野村さんの母性は貴重だったけど
歌になると手に汗を握って現実に戻されるのは勘弁だったわ。
今度の李香蘭も声が出なくなったら録音テープなのかな。
行かないけど。

カテコの輪の頂点でキヨミチと飯田弟が喋っていたなー。

終演後、浜松町へ向かう道で
「ユダやってるおっさんいつも見るからたまには若い人で見たい」
という男性の声が聞こえてきて、
「おっしゃることはよくわかります」と思いながら涙目の私でした。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする