ゆるっと読書

気ままな読書感想文

【車いすでジャンプ!】ズレてる支援に、どう立ち向かう?

2024-01-24 22:30:06 | Weblog

昼下がり、住宅街を散歩をしていると、

私の数メートル先を、3歳くらいの幼児と母親が歩いていた。

子どもは楽しそうにはしゃぎ、勢いよく駆け出したが、体勢が崩れて転んだ。

すぐ後ろを歩いている母親が、子どもに声をかけている。

母親は手を出さず、子どもが体を起こす様子を見守っていた。

 

子育て中の親は、子どもが自分の力で立ち上がることができるように、あえて「手を貸さない」こともあるのだろう。

子どもに怪我がある様子であれば、すぐに助けにいくに違いない。

親は子どもの成長や自立などを念頭に、様々な場面で、何を、どの程度、どのように手助けするのか、判断しているのかもしれない。

 

小説「車いすでジャンプ!」(モニカ・ロー著、中井はるの訳、小学館)は、車いすユーザーの少女エミーの視点から、支援を申し出る人との間で発生する認識のズレを描いている。

そして、そのズレをどのように埋めていけばよいのか?という問いを投げかけてくる。

エミーは、車いすで学校生活を送る12歳の女の子だが、車いすモトクロス選手になりたいと考えている。

スピードを出して、ジャンプを決めるには、日常生活用の車いすではなく、モトクロス用の車いすが必要だ。

そのため、エミーはネットショップを立ち上げ、自作の車いす専用バッグのオーダーを受けて販売している。

バッグの評判は上々で、貯金をコツコツと殖やしている。

そんな中、学校の校舎内で、エミーが転倒する。

けがはなかったが、問題が大きくなり、エミーの「支援」の在り方が検討されることになる。

さらに、モトクロス選手という夢を「支援」するための寄付活動も展開されることになる。

望んでいない、求めていない「支援」に対して、どう対応するか?

エミーに、ある先生がこう話す。

「先生は、自分の側から見た不公平はどんなものか分かる。

だけど、車いすから見た不公平がどんなものかは分からない。

(中略)ぼくらは自分が何を知っているかは分かるけれど、知らないことについては間違いをおかすものだ。

だから、対話しつづけるんだ。自分の意見をいう。人に伝えて教えて、そして人から教わるんだ。

それが目的を達成するための唯一の方法なんだよ」

自分自身で、答えを見つけて、行動するエミーの姿が清々しい。

「児童書」と位置付けられているが、子育てや教育に関わっている人、障害者の支援などに携わっている人に読んでほしい1冊。

 

「車いすでジャンプ!」

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【お探し物は図書室まで】本との出会いをきっかけに、踏み出す新たな1歩

2024-01-10 22:59:22 | Weblog

 

「お探し者は図書室まで」(青山美智子・著、ポプラ文庫)は、悩みを抱えている登場人物が、図書室の司書に勧められた本との出会いをきっかけに、
新たな一歩を踏み出す物語だ。

悩みを抱えている登場人物は、
朋香(21歳、婦人服販売員)
諒(35歳、家具メーカー経理部)
夏美(40歳、元雑誌編集者)
浩弥(30歳、ニート)
正雄(65歳、定年退職)
の5人で、各章の主人公になっている。
彼らはそれぞれ、同じ図書室のリファレンスコーナーで、司書の小町さんからお勧め図書のリストを手渡される。そのリストには、問い合わせた内容とは合わない本が1冊含まれている。その1冊が、それぞれの悩みを解消するために行動を起こすきっかけとなる。

1つの章を読み終えるたび、主人公が新たな一歩を踏み出すので、元気をもらえる。
また、各章の主人公や脇役の人物が他の章にも登場し、最終章で伏線回収されるため、通して読み終えた時の楽しみもあった。

私が一番興味を持った登場人物は、夏美だ。
女性向けの雑誌編集の仕事にやりがいを持っていたものの、出産して産休から復帰する際に、配置転換されてしまう。夏美自身は編集部に復帰するつもりだったため、気持ちは萎える。
一方で、子どもを産んでみて、実際に仕事と育児との両立を考えると難しいことも実感する。出産したこと自体に後悔はなく、娘もかわいいのだが、雑誌編集の仕事に戻れないことにもやもやした思いを抱えている。

夏美のように、育児と仕事の両立について悩む女性は少なくないだろう。

尊敬する女性作家みづえ先生の前で、夏美が胸の内を吐露する場面がある。雑誌編集部で働いている女性社員に嫉妬してしまったり、子どもができて人生狂ったなと思う気持ちがある自分のことが嫌になるとこぼした夏美に、みづえ先生は、「メリーゴーラウンドに乗っているところ」と言う。

「メリーゴーラウンド?」
ふふふ、とみずえ先生が口もとをほころばせる。
「よくあることよ。独身の人が結婚している人をいいなあって思って、結婚してる人が子どものいる人をいいなあって思って。そして、子どものいる人が独身の人をいいなあって思うの。ぐるぐる回るメリーゴーラウンド。おもしろいわよね、それぞれが目の前にいる人のおしりだけ追いかけて、先頭もビリもないの。つまり、幸せには優劣の完成形もないってことよ」

「お探し物は図書室まで」P168

みづえ先生の言葉に、夏美は癒される。
そして、雑誌編集で頑張ってきて良かったと心から思う。

夏美は図書室から借りていた本にあった言葉から、現実は思い通りにならないことがあるということを改めて、受け入れる。
そして、編集という仕事の何が好きだったのか?と自問する。
雑誌以外の媒体が視野に入り、子育てと両立できる編集の仕事の可能性を探っていくことになる。

小説の中で紹介されている本は、実在する本で、巻末にリストが付いているので、気になった本があれば次の読書につながる。
近所にこんな図書室があり、新たな一歩を踏み出すための選書をしてくれる司書さんがいたらいいなと思わずにいられない。

 

Amazon「お探し物は図書室まで」

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【ともだちは、どこ?】年賀状だけの人は、ともだち?

2024-01-08 23:50:55 | Weblog

 

年始に届いた年賀はがきの差出人の中には、もうずいぶん長い間、直接会っていない人が何名かいる。

学生時代の友だちは、卒業以来だから何十年だ。
LINEやFACEBOOKのアカウントを互いに知らない友だちは、1年に1度、年賀状をやりとりするだけの関係だ。
同じ高校、同じ大学に通っていた頃は、仲良くしていたけれど、何十年もの時を経て会ったら、どうだろう? 
「懐かしい」とは思うだろう。
学生時代の思い出話に花が咲くに違いない。
お互いの家族のこと、仕事や家庭環境について話し、会っていなかった時間の人間関係の隙間みたいなものが埋まるのかもしれない。
今でも「友だち」であることには変わりはないけれど、学生時代と同じような気持ちで「友だち」だと思えるのか、どうかは分からない。

「ともだちは、どこ?」(J・W・アングランド/作、小川糸/訳、文渓社)は、作者が子どもたちに向けて書いた本だそうだが、人間関係に悩んだり、
孤独を感じている大人の心にも響く作品だと思う。

世の中には、たくさんのともだちとにぎやかに付きあう人もいれば、
たった数人のともだちと、じっくり静かに友情をはぐくむ人もいる。

「ともだちはどこ?」より

友だちとは誰のことなのか? 

自分と友だちの関係性はどのようなものと考えたらよいのか?

そんな問いを投げかけてくる1冊。

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【はじめての短歌】あいまいで、もやっとするのがイイ

2023-12-16 00:35:02 | Weblog




 取材記事や日々起きた出来事をブログに書いたりはしているが、短歌をつくったことはない。
国語の教科書に載っていた短歌はある程度、記憶にあるが、それ以外の短歌の作品について比べてみたことはなかった。 
 
 つまり、すでに高く評価された短歌を知っているだけで、 複数の短歌を比べて、良し悪しを考えたことがない。
 日頃、読んだり書いたりしている文章に比べると、短歌はとても短い文だが、どこに注目して読んだらいいのか。
良し悪しを判断する基準を持っていなかった。 
 
 穂村弘さんの「はじめての短歌」(河出文庫)を読んで初めて、短歌の読み方を知った。 
 
 文章を書くとき、たいていは、読む人に「分かりやすく」「具体的に」と求められる。 
しかし、短歌では、「分かりやすく」「具体的に」を目指すと、味わいや面白みがなくなってしまう。 
 
 「〇〇は、そういう状態」と「〇〇は、散らかっている」という表現があった場合、
短歌なら「そういう状態」のほうが良い。 
 
具体的な状態は一切分からないため、読者は「一体、どうゆう状態」と疑問が沸いて、もやっとし、それぞれの頭で想像する。
短歌は、読者の心を動かすことができるか否かが重要だからだ。「散らかっている」では、読者の多くは「あー、散らかっているんだね」で終わってしまう。もやっとしないし、「そういう状態」と比べると、想像もそれほど膨らまないだろう。 
 
短歌は、言葉一つひとつの選び方、それらの並べ方で、作品の世界観が大きく変わる。
奥深くて、面白いことを知った。
 

Amazon 「はじめての短歌」

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【三十の反撃】頑張ることに疲れて、何もできなくなったあなたへ

2023-12-07 00:28:35 | Weblog

 

 

「100枚ほど履歴書を送ったけど、面接の機会をくれたのは1社だったよ」

就職活動をしていた同級生が、ため息をつきながら言った。

企業の人事担当者が、自分の書類のどこを見て、「不採用」と判断するのか分からない。

面接する(会って話す)機会を与える価値もないと言われている気がしてしまう。

ただ、なんだか悔しい。

友人の言葉は、学生食堂のテーブルを囲んでいる同級生たちの間に落ちた。 一瞬の沈黙が流れた。

皆、似たり寄ったりの状況だった。

 

企業が新卒の採用人数を絞り、「超氷河期」と言われた時期のことだ。

就職する時期が悪かった。ただ、それだけだ。

しかし、私自身がそう思えるようになったのは、ずいぶん後になってからで、

大学生の当時は、社会や経済状況がどうであろうと、自分たちが努力して将来の道を切り開かなくてはならないと考えていた。

 

小説「三十の反撃」(ソン・ウォンピョン・著、矢島暁子・訳)の主人公は、大学卒業後、正社員への就職を目指して応募をし続けている女性、キム ジへ。 彼女は、大手企業DM社の文化事業ディアマンアカデミーで、非正規職員のインターンとして働いている。その収入で借りることができるのは、半地下の家だ。

正社員に応募しつづけているものの、ジへ自身、自分は何がしたいのか、はっきりしない。恋愛も上手く続かず、30代を迎えて、親から「結婚は?」と問われるプレッシャーを感じてもいる。 このままではいいとは思っていない。

しかし、正社員になることが厳しい現実を知っており、現状を変えようとする気持ちが萎えている。 自分が頑張ったところで、何が変わるのか?という疑問が沸き、 諦めの気持ちが強くなっている。

そんなキム・ジへは、新しくインターンとして入ってきた男性、イ・ギュオクとの出会いをきっかけに、少しずつ変わっていく。

文化事業で関わっている講師の高慢な態度。職場の上司の不衛生な習慣。 これまで目をつぶって見て見ぬふりをしてきたが、本当はずっと「嫌だ」「変だ」と思ってきたことに対して、小さな行動を起こしていく。

これらは、現状を変えるための「反撃」と言える行動だ。

やがて、ジへは自分自身の人生を大きく変える選択をする。

物語の終わりは、誰かの前向きな一歩が、社会を変える一歩に繋がる可能性があることを感じさせる。

清々しさがあり、勇気が沸いてくる。 頑張ることに疲れている人、 「何をしても、どうせ変わらない」と諦めかけている人たちに、ぜひ、手にとってほしい。

 

Amazon 「三十の反撃」

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【詩と散策】暑さと寒さの「間」に

2023-10-08 22:26:06 | Weblog

 

先週まで、クーラーを使用していたのに、 今週は、もうそろそろフリースを箪笥から出しておかなきゃという気温になった。

夏から秋のはずだが、秋はあっという間に終わり、一気に冬に突入しそうだ。 気候変動の影響を受けているのだろうか。

暑さも寒さもそれほど厳しくない、過ごしやすい時期、 夏と冬、冬と夏の「間」の時期が短くなっている気がする。

韓国の詩人のエッセイ「詩と散策」(ハン・ジョンウォン・著、橋本智保・訳、書肆侃侃房) に収められている一篇「猫は花の中に」は、「間」をテーマにしている。

著者は、春から夏にかけて、桜が散り、気温が上がり始めると、人が口癖のように「もうすぐ夏なんじゃない?中間ってものがないよね」ということを取り上げて、次のように書いている。

『いや、中間はある。花が咲き、散るときだけを貼ると呼ばなければ。 毎日、散歩をしている人なら、季節はある日突然変わるものではないことを知っている。二月に入った頃からすでに春は存在していた。土が膨らみ、木の枝は色を変える。虫が這い出し、猫が騒ぎ始める。(中略)春の気配はこんなに散りばめられているのに、都市のビルの中で私たちが関知できないだけだ』

著者は、季節だけではなく、散歩の途中で見かけていた猫たちとの関わりから、生と死の「間」にも目を向け、金子みすゞの詩「蜂と神様」を引用して、紹介している。

蜂はお花のなかに、

お花はお庭のなかに、

お庭は土塀のなかに、

土塀は町のなかに、

町は日本のなかに、

世界は神さまのなかに。

さうして、さうして、神さまは、 小ちやな蜂のなかに。

出典:金子みすゞ「蜂と神様」『金子みすゞ、ふたたび』小学館

 

「あとがき」の中でも、著者は、冒頭で取り上げた詩人のオクタビオ・バスが、 『詩の留まるところは、「間(あわい)」だと言っていることに触れ、 『詩だけではなく、この世界を形作っている真心や真実も、この『間』にあるのではないかと思います』と書いている。

人の言葉や行動、出来事があると、そのことに注目し、気をとられてしまうが、 言葉と言葉の「間」、行動や出来事など何も起きていないように見える「間」に目を凝らすと発見があるのかもしれない。

本書は、秋の夜長に、一人で静かに読むのにピッタリの1冊だ。

季節や自然の移り変わり、人の心の中にあるささやかな感情の動きに、改めて目を向けさせる。

多忙な毎日の中で見過ごしている事柄に気が付かされ、自分の心の中を見つめることになる。

ページをめくるうちに、自分の心の中が穏やかになっていた。

Amazon.co.jp : 詩と散策

 

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「なにもできない」ことに価値はあるか?

2023-09-27 22:35:07 | Weblog

 

精神科の医師で、トラウマやジェンダーなどを研究している宮地尚子さんの著書「傷を愛せるか 増補新版」(ちくま文庫)の中に、「なにもできなくても」と題したエッセイが収められている。

 

親しい女友だちが最愛のパートナーを病気で喪った。

宮地さんは、その女友だちに対して、どんな慰めを言っても、手を握っても、そうしたことが薄っぺらに感じられ、どう接したらいいか分からなかった。「何もできない」まま、ただ、その女友だちを見ていた。しかし、ある時、ふと「何もできなくても、見ているだけでいい。そこにいるだけでいい」と腑に落ちたという。

 

宮地さんは、何もできなくても、ただ、傍らで見ている存在の自分自身に価値を見出したのかもしれない。

 

このエピソードを読んで、障害者の就労について書かれた文章を思い出した。著者や施設名などは忘れてしまったが、重度の身体障害があり、製品を作ったり、接客をすることが「できない」人について書かれたものだった。

ベッドに横になっているその人も、他の従業員と一緒に職場(作業場)に移動する。他の従業員が何かを作っている場に、その寝たきりの人も居て、仕事の時間を共に過ごす。その人にとって、そこに居る、存在することが仕事(役割)であり、その存在感の発揮が職場の空気をつくっており、貢献しているという話だったと記憶している。

 

「なにもできない」と口にする時、それは実際に何もできないのではなく、

「できる」ことを見つけられていないだけなのかもしれない。

今、ここに居ることを「居ることができる」と捉えれば、価値がある。

 

「どう生きるか?」という問いを考える時、「何ができるか?」と考えてしまうけれど、

一方で、とりあえず健康で生き続けられたら、それでいいと思ったりもする。

 

傷を愛せるか 増補新版 (ちくま文庫 み-37-1) | 宮地 尚子 |本 | 通販 | Amazon

 

 

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「あいつは絶対許さない」と思う相手を許す意味

2023-08-21 07:37:21 | Weblog

「あいつは、絶対に許せない」と思う相手がいたら、どうするか?
私なら、そんな相手には「関わらない」「距離を置く」だろう。
何らかの理由で関わらなくてはならないとしたら、どうか?
恨みを晴らすために何かするかもしれない。相手に対して何かをすることはなくても、心の中で軽蔑し続けるかもしれない。
だが、ネガティブな感情を持ち続けることは、気持ちの良いことではないし、疲れてしまいそうだ。
 
「絶望図書館」(頭木弘樹・編、ちくま文庫)に入っている「虫の話」(李清俊:イ・チョンジュン・著、斎藤真理子・訳)は、「許す」ということの意味について考えさせる短編だ。
 
薬局を営む夫婦の1人息子が誘拐され、惨殺され、死体で発見される。犯人はすぐに捕まり、夫婦の知り合いだった。
この物語は、この夫婦の夫の視点で語られる。
不幸な出来事を前にした妻の様子が語られていく。
息子の死後、生きる気力を失っていた妻は、知人の勧誘により、キリスト教を信仰しはじめる。
亡くなってしまった息子のために祈り始めるのだが、熱心に信仰するにつれて、獄中にいる犯人を「許す(赦す)」ことについて考え始めることになる。
「神」は、すべての人をお許し(赦し)になっている。
妻は、信仰に基づいて、犯人を許そうと考える。そして、ついに犯人との面会が実現する。
 
クライマックスは、犯人との面会が実現した後のことだ。
彼女が犯人と会い、話をした後、どうなったのか。
結末まで、ぜひ、読んでほしい。
読者の多くは、妻の選択を知った後、自分自身にとって「許す」ことはどのような意味を持つか考えることになる。
結局、「許す」ということは、相手のためではなく、自分自身のためのものだということになるだろう。「許す」ということは、恨みや憎しみから自分自身を解放するものだと思う。「許す」ことで救われるのは、自分自身だ。
どんな人でも、大なり小なり「許す」「許される」経験をしたことがあるだろう。この物語は、読者自身が自らの経験を振り返り、「許す」ことの意味を考える機会を与えてくれる。
 
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勝つために、坊主頭は必要か?

2023-08-13 13:12:28 | Weblog

 

夏の甲子園、全国高等学校野球選手権大会で、「坊主頭でないチーム」が注目を集めている。 強豪校がひしめく神奈川県の代表となった慶應義塾高校で、チームを率いる監督は「髪型自由」「長時間練習なし」という方針だという。

甲子園に出場する選手たちの多くの髪型は、坊主頭。 強豪校では、部員に坊主頭を強制しているところもあるそうだ。 強制はしていなくても、髪型に関する同調圧力があり、部員それぞれが髪型を自由に選べない環境があるのだろう。

野球の試合で勝つために、必要なものは何か?

選手それぞれの力を高め、一つのチームとしてまとめるために、必要なものは何か?

坊主頭が必要なのか?

「坊主でないチーム」の甲子園出場が注目されていることは、野球部内の「慣習」「規則」について、「何のためにあるのか?」を考え直すきっかけとなるに違いない。

「嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか」(鈴木忠平・著、文芸春秋)は、プロ野球の中日の監督を2004年から2011年まで務め、リーグ優勝4回や日本一1回の成績を残した落合監督について書かれたノンフィクションだ。

川崎憲次郎、森野将彦、福留孝介など、当時、中日に所属していた選手を取り上げ、落合が選手それぞれとどのような距離感で、どのような関わりがあったかを書いている。著者自身が落合に接したり、交わした言葉から感じていたことなども交えて書いている。 メディアを通して伝えられる落合の言動は、見聞きした人を惹きつけるよりは、見聞きした人から嫌われることが多いように思う。

しかし、この本を読むと、チームを優勝に導くという監督の役割、仕事を追求した結果が「嫌われる」ことだったのかもしれないと思えてくる。 野球部の上下関係に嫌気がさして練習にいかなかったことなど、プロ野球選手になるまでのエピソードを知ると、落合は納得いかないことには徹底的に反発する強い意思の持ち主だといえる。

その強い意思があったからこそ、もともと持っていた自分の才能を開花させることができたのかもしれないし、 落合の才能に気が付き、その性格を知って、彼の才能を発揮できる場をつくってくれた人がいたのだと思う。そういう人と出会えた運もあっただろう。

監督としての落合はただ、それまで自分のやり方を貫いただけで、 「勝つために必要なこと」を追求した結果、チームは強くなり、落合個人は「嫌われた」といえるのかもしれない。

「好かれる」ために何かすることは、「勝つために必要ではない」という考えだったのかもしれない。

Amazon 「嫌われた監督 落合博満は中日をどう変えたのか」

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【娘について】受け入れることも、拒絶もできない。母親の複雑な心情をきめ細やかに描いた1冊

2023-03-16 22:41:27 | Weblog

「毒親」の「毒」とは、一体、何なのか?
気になって、インターネットで検索してみた。
「毒親」とは、学術的な定義がある言葉ではなく、スーザン・フォワード著の「毒になる親 一生苦しむ子ども」(講談社刊、玉置悟訳)が話題になったことから、広く使われるようになったそうだ。

「毒親」の特徴として挙げられているのは、「子どもを管理する」「子どもを支配する」「過保護・過干渉」「虐待」「モンスターペアレント」など。子どもの衣服、食べ物、友だち関係など、ありとあらゆる物事を決めて管理する親、子どもに暴力をふるったり罵声を浴びせたりする親、子どもに大人の役割を求める親など、さまざまなケースがあるようだ。

子どもに過度なストレスを与える親は以前から存在していただろうが、「毒親」という言葉が普及したことによって、その存在や行為が可視化されやすくなったに違いない。

では、「毒親」の反対語は、何だろうか。
「毒」の反対語として「薬」が浮かんだが、「薬親」は聞いたことがない。
子どもにとって「薬」になる親の特徴を挙げるなら、「子どもの気持ちに寄り添うことができる」「子どもを理解しようと努めることができる」「安らぎのある家庭環境を整える」などだろうか。
しかし、これらの行為が実践できたとしても、その行為と子どもに対する好影響を立証するのは難しそうだ。「薬」といえるほどハッキリした効果がもたらす、子育ての方法は存在しないのかもしれない。

 

「娘について」(キム・へジン著、古川綾子・訳、亜紀書房)は、母親の視点から、娘に対する様々な思いを綴っている小説だ。

娘は、不当解雇を訴えて雇用者に立ち向かう活動を続けている。同性愛者であり、「恋人」と一緒に生活している。そのような娘の生き方や価値観を、母親は受け入れられない。
一方で、自分が娘を産んで育ててきた過程を振り返ると、母親は誰よりも娘を理解してあげなければと思ってもいる。理解しようと思いながら、受け入れることができなくて、もがいている。
現在の娘は、自分の子育ての結果だとすると、育て方が悪かったのかと考えたり、そうではないと思ったり。母親の思いは、娘に寄り添うように近くなったり、娘から遠く離れたり、大きく揺れ動く。母親の心の機微の描き方が、きめ細やかな作品だ。

物語の終盤、母親が、ケアの仕事で関わった認知症の高齢女性をほおっておくことができず、ある行動を起こす。その時の母親の姿は、不当解雇を訴えて闘っている娘の姿に重なり、「この母あっての、この娘」だったのだと気がついた。母と娘の対立ばかりではなく、2人の共通点、接点も描かれている。

「毒親」という言葉について改めて考えると、虐待や暴力などの酷い行為は「毒」と言えるが、「管理」「干渉」は程度に依るかもしれない。
同じ行為でも、子どもの性格によって受けとめ方は異なるとすれば、「こうしたら、うまくいく」という、絶対正解の方法はないだろう。

小説「娘について」に登場した母と娘の今後を想像すると、互いの生き方や価値観を受け入れられないまま、日々を重ねていくように思う。
しかし、2人の間に「毒」があるわけではない。今後も、母親は娘に対してさまざまな感情を抱えるが、「ほどよい」関係を探り続けていくに違いない。母娘の今後の関係に、希望を感じる作品だった。

 

 

娘について (となりの国のものがたり2) | キム・ヘジン, 古川 綾子 |本 | 通販 | Amazon

 

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