20代の頃、3年間京都に住んだことがある。
「植物考」(藤原辰史・著、生きのびるブックス)は、タイトルの通り、さまざまな視点から「植物を考える」一冊だ。
著者は、「はたして、人間は植物より高等なのか?」という問いを掲げる。
「人間は植物より高等だ」と考えるのは傲慢な気がするが、逆に「植物は人間より高等だ」と言い切ることも、腑に落ちない。
私は、樹齢が長い大木を眺めて「すごいなぁ」と思ったり、花びらを見つめて「絵具で作れない色合いだわ」と思うことがある。
しかし、人間は、作物を育てて食用にしたり、住宅の建材にしたりする。庭に花を植えたり、観葉植物を育てたりする。植物のすべてが人間の思いどおりになるわけではないけれど、人間は植物に影響を及ぼすことができる。そう考えると、「高等だ」と断言はしないものの、植物を自分より下に見ているかもしれない。
本書では、植物の在り方や特性として、次のような点が挙げられている。
「植物には知性がある」
「植物は移動する」
「植物が人間の歴史を動かした」
「人間は植物がないと地球上で生きられないが、植物は人間がいなくても生きていける」
植物は基本的に「知性がない」「動かない」と思っていたが、そうではない面があると知り、
人間が植物に及ぼす影響より、植物が人間に及ぼす影響のほうが大きいかもしれないと思えてきた。
改めて、「人間は、植物より高等なのか?」という問いに戻ると、これは「人間は、植物より高等とは言えないのではないか?」という問いと表裏一体だったのかもしれない。
「人間は、植物より高等とは言い切れない」という答えを、様々な根拠を挙げて解説したと言えるだろう。
「植物を考える」ことは、植物と人間を対比して、「人間を考える」ことになる。
植物の在り方・生き方を、自分自身の在り方・生き方と比べたり、重ねたりして考えることになるはずだ。日常生活の中で起こる出来事に右往左往していたり、対人関係で疲れてしまった人に、お勧めしたい1冊。
障害は、「ある」よりも、「ない」ほうがよい。
新しい医療や技術によって、障害をなくす。
なくすことが難しいとしたら、障害がある身体をサポートして、それまでできなかったことをできるようにする。
つまり、障害が「ある」状態から「ない」状態に近づけていくことが望ましい。
そう考えることに、私はこれまで疑問を持つことはなかった。
「サイボーグになる」(キム・チョヨプ、キム・ウォニョン、牧野美加・訳、岩波書店)は、この障害が「ある」よりも「ない」ほうが望ましいとする考え方に、「ちょっと待って」と声をかけてくる1冊だ。
この本は、韓国のSF作家チョヨプさんと、作家・弁護士・パフォーマーのウォニョンさんが「身体」「障害」「テクノロジー」を主なテーマとして執筆したエッセイと、二人の対談が入っている。チョヨプさんは聴覚障害があり、補聴器を使用している。ウォニョンさんは車いすユーザーだ。
本書の中で、私が自分の障害に対する見方や考え方について「ちょっと待って」と立ち止まり、考え直すことになった箇所を紹介したい。
まず、ウォニョンさんが、障害のある身体と科学技術との関係について書いている箇所だ。
科学技術の発展は間違いなく、障害のある人の生活の質を高め、苦痛を軽減しつつある。わたしはそうした科学の発展や技術の応用を支持する。(中略)
科学が障害を「欠けた状態(欠如)」としてしか見ないのなら、車椅子はどれだけ進化しても、歩行能力の「欠如」という問題を解決する補助機器としてしかみなされないだろう。障害者は実際に、より進化した車椅子に乗り、より多くのことができるようになったにもかかわらず、依然として自身を欠如した存在だと考えるかもしれない。
最先端技術で武装したサイボーグになれば、わたしの「欠如」は本当になくなるのだろうか?映画の中のスーパーヒーローや、華やかなデザインの義足をつけて陸上トラックを走る一部スポーツ選手であればこそ、サイボーグは特別な存在としてみてもらえるけれど、実際に機械と結合して生きている人は依然として「変わった人」扱いされがちだ。そんな社会の雰囲気に反応して、障害のある人たちはよくこんなふうに言う。「わたしは車いすに乗っているだけで、あなたとまったく同じ人間なんですよ」。
「わたしは車いすに乗っているだけで、あなたとまったく同じ人間」だと主張するのではなく、「わたしは車いすに乗っていて、その点ではあなたと同じではないけれど、わたしたちは同等だ」と言うことは、どうすれば可能なのだろうか。
(本書第2章「宇宙での車いすのステータス」 P40~P42 一部抜粋)
障害が「ある」状態を「ない」状態に比べて、欠如している状態だと捉えると、
障害のある人間は、障害のない人間と比べて、欠如した存在とみなすことに繋がる。
新しい技術の開発や普及は、欠如を埋める目的で進められることになる。
障害が「ある」⇒「ない」を目指す考え方に、どのような問題点があるのか。
障害者をサポートする新しい技術の開発は、「ある」⇒「ない」ではなく、どのようなベクトルを持つ考え方を基盤に進められるべきなのか。
ウォニョンさんの指摘は、身体障害と技術、社会との関係性をとらえる新しい視点を私に与えてくれた。
一方、聴覚障害者であるチョヨプさんは、自身の障害について、次のように書いている。
わたしは後天的に聴力が損傷されたケースなので、聴者と聴覚障害者の環世界をどちらも経験していることになるが、自分がどのように音を聞いているかを説明するのは容易ではない。あれこれ長々と説明しても相手を完全に納得させることはできない領域なのだろう。そんなふうにかんがえると、他人の環世界を想像するのが難しいのは言うまでもなく、自分自身のそれでさえきちんと理解するのは困難だという結論に至る。
わたしたちは、他人の生はそれぞれ極めて固有のものであるという事実を、知っているのにすぐ忘れてしまう。主観的な世界とは、その世界を実際に経験しながら生きている当人でさえ完全には理解できないものだということを、受け入れることができない。(中略)
聴覚障害者でSF作家であるわたしはときどき、「あなたの障害が作品世界にどのような影響を及ぼしているか説明してほしい」とか「あなたの障害も、SFを書こうと思った理由の一つなのか」といった、明らかな意図が感じられる質問を受ける。そういう質問にはなぜか、相手の望んでいる答えを返したくなくて、こんなふうに答えてしまう。「影響がなくはないでしょうけれど、それほど重要ではありません」。
あらためて考えてみると、最初は重要ではなかったけれど少しずつ重要になりつつあるような気がする。わたしにとってSFを書くことは、自分と異なる存在を探求していく過程のように感じられる。(本書第9章「障害の未来を想像する」P208より)
チョヨプさんの場合、作家としての才能発揮に聴覚障害が関係しているという見方や価値観を押し付けられることが多いのかもしれない。障害が「ある」ゆえに創作することが「できる」とみなされることは、作家にとって気持ちのよいものではないに違いない。
この点について、先にあげたウォニョンさんの指摘にあてはめるなら、
「わたしは補聴器を使っていて、その点では他の作家と同じではないけれど、作家としては同等だ」と言うことは、どうすれば可能になるだろうか。
ということだろう。
著者の2人はそれぞれ、ご自身の経験だけでなく、広告の事例、漫画や評論、小説の例などを多数挙げており、それらを通して「障害」「身体」「テクノロジー」について考えを深めていることが伺えた。
頭の中で何度も立ち止まり、考えを重ねたうえで出された言葉には重みがあるということを、改めて実感させられた1冊だった。
サイボーグになる: テクノロジーと障害,わたしたちの不完全さについて | キム・チョヨプ, キム・ウォニョン, 牧野 美加 |本 | 通販 | Amazon
小説「ワンダーボーイ」(キム・ヨンス著、きむ・ふな訳、クオン)は、15歳の少年キム・ジョンフンがさまざまな人と出会い、成長していく物語だ。
ジョンフンには、母親についてはっきりした記憶がない。唯一の家族だった父親が交通事故で死んでしまい、絶望している。しかし、父を亡くした交通事故をきっかけにジョンフン自身は他人の心が読める能力を持ったため、それを軍部の人間に利用されてテレビ出演させられ、「ワンダー・ボーイ」として注目される。
軍部の人間のもとから逃げだしたものの、当初のジョンフンは、「自分とは何者なのか」「自分は、何を支えに、どう生きていったらいいのか」かが分からず、もやもやしている。
天涯孤独になった少年ほどではないにしても、10代の思春期に、自分が何を求めているのかが分からず持て余したり、漠然とした将来に思い悩んだ経験がある人は少なくないだろう。ジョンフンの心のもやもやは、読者それぞれの思春期を思い出させるかもしれない。
なんともいえない、もやもや感の描き方が魅力的だ。
また、私は、のちに父親代わりの存在となるジェジェン氏がジョンフンに「読書の方法」について話すセリフに魅かれた。
ジェジェン氏は出版社を経営しており、朝鮮戦争の遺族の苦しみを記録した書籍を出したのだが、政府により出版社登録の取り消し処分を受けてしまう。軍部から逃れた後、その出版社の事務所を住まいにしていたジョンフンは、自分の寝床を別に探さなければならなくなる。そうした出来事が起きた後で、ジェジェン氏がジョンフンに「読書の方法」について話す場面がある。
「本を持っているなら、まずは、その本を触ってみるんだ。くんくん匂いをかいでみたり、ページの耳をちぎってかじってみたり。するとどんな本なのか、少しはピンとくるだろう?次に本を開いて、著者の言葉と目次の内容を読んでみる。ほとんどの本にはカバー表と裏に何か書いてあるが、それを読めばどんな内容なのか九十パーセント察しがつく。次は、本を閉じて想像することだ。その本のテーマについて、自分は何を知っていて、何を知らないのか。もし自分が同じ構成で本を書くとしたら、どんな内容でページを埋めていくのか。そんなことを考えてから本を読むと、自分が知らなかったことが何なのか、よりはっきりするだろう。そういう点で、本を読む一次的な目的は自分が何を知らないのかをはっきり自覚することだ」 (中略)
「天才的に読むためには、作家が書かなかった文章を読まなければならない。書いたものを消してしまったとか、最初から書かないと決めて外したとか、そういったことを。そこまで読めたら、ようやく本を読み終えたことになる」
(本書P265~266より )
ジェジェン氏の言葉は、著者のキム・ヨンス氏の「読書の仕方」だろう。こうした考えを基に「本を書く」ことに取り組んでいるのだと思い、興味深かった。
もう一つ、この作品において無視できないのは、時代と韓国の政治的・社会的背景だろう。
ジョンフンが父を亡くした年は1984年に設定されている。
その年に15歳だった少年が17歳になるまで、つまり1984年から1987年までの間に、韓国でどのような出来事が起こったのか。政治的・社会的な出来事をある程度知ったうえで、この作品を読むと味わいが異なるはずだ。ソウルの街の熱気や、政治的な出来事について語る登場人物たちの言葉の重みの受けとめ方が変わるに違いない。
「ワンダーボーイ」を読みはじめる前に、「韓国文学の中心にあるもの」(斎藤真理子・著、イーストプレス)を読んでいたことは、読書の大きな助けとなった。
「韓国文学の中心になるもの」は、翻訳家の斎藤氏が、日本でもベストセラーなった「82年生まれ、キム・ジヨン」から時代を過去へ遡るかたちで、韓国の政治、社会的な出来事と、作家、主な文学作品の関係性を整理して解説している。作家が何を意識して書いているのか、考える材料を与えてくれる本だと思う。こちらは、これから韓国文学を読んでみたいという人にぜひ、お勧めしたい。
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3年前の自分が、どうだったか?
これまでの人生を振り返って、3年前の自分を問われて、はっきり答えられることは少ないのかもしれない。
30歳の時の3年前は、27歳。
20歳の時の3年前は、17歳。高校2年生。
15歳の時の3年前は、中学1年生?…。
会社の業務で、何を担当していたか。
部活動を一生懸命していたか。
その年に流行していたドラマやファッションを調べれば、
よく見ていたものや購入したものなど、少し具体的に思い出せるかもしれない。
しかし、自分がどんなことを考えていたかということになると、ほとんど忘れてしまっていて、思い出せない。
今から3年前、2020年は、多くの人にとって、これまでにない出来事が起こった年だ。
新型コロナウイルス(COVID-19)の国内感染が一気に拡大し、「緊急事態宣言」が出され、働き方も生活の仕方も大幅に変更せざるを得なくなった。
ドラッグストアの店頭で、マスクやハンドソープ、アルコール消毒液が品薄になったことや、
飲食店やスーパーの閉店時間が早くなった。自宅で仕事ができるように部屋を整え、ZOOMなどインターネットのツールも使い始めたことは覚えている。
ただ、その激変した生活の中で、自分が、何を、どのように考えていたかはやはり、よく覚えていない。「これから先、一体、どうなってしまうのだろう?」という、先の見えない不安を抱えながら、日々を過ごしていた気がする。
「コロナ時代の哲学」(大澤真幸、國分功一郎)は、2020年7月、COVID-19の感染が急拡大した中で発刊された。
大澤氏は、前書きの中で、「私たちは、生と死の全体、世界や社会のあり方の根幹に関して、これまで見たことがないものを見ており、感じたことがないことを感じている。こういうとき、私たちはいかに困難でも、まさに感じ、経験していることを言葉にしようと努めなくてはならない」と言っている。
さらに、その理由について、「渦中や直後に言葉にしようと努めなかったときには、それはすっかり忘れさられ、結局、私たちのうちにいかなる有意味な変化をも惹き起こさない」からだとしている。
社会の大きな変動に直面している「今」を、それぞれが、それぞれの言葉で語ることで、「今」になんらかの意味が付与される。うまく言い表せていなくても、そのうまく言い表せない感じは残る。意味を付与されたことは、記録や記憶に残り、後から改めて考えてみることができるだろう。
本書に掲載されている大澤氏の論文、國分氏との対談を読むと、彼らが、「今、言えること」「今、語れること」を精一杯、言葉に表している雰囲気が伝わってきた。
私が、この本の中で最も関心を持ったのは「監視」だ。
大澤氏の論文の中で、「監視資本主義」が紹介されている。
これは、ショシャナ・ズボフが創った概念で、古典的な資本主義では、賃労働から剰余価値が発生するが、監視資本主義はインターネット上で個人が買い物や検索をすることによって、個人情報が資本に明け渡され、剰余価値が発生する。監視資本の代表企業はFacebookやGoogleなどで、個人情報から利益を得ている。
そして、重要なポイントは、FacebookやGoogleなどのサービスを利用している時、個人は客観的な自由のはく奪(個人情報が提供されている)があるにも関わらず、そのことを意識することはほとんどなく、主観的には自由に行動していると感じている点だという。
デイヴィッド・ライアンの「監視文化」についても紹介されている。
現代人は、「監視」を必ずしも拒否しておらず、むしろ望んでもいる。例えば、SNSなどで投稿し、私生活を他人に覗かれることを楽しんでいる。誰からも見られてないことを恐れ、不安に感じてもいるという指摘だ。
「監視」という言葉は、自分の言動を細かくチェックされているイメージがあり、気持ちがよいものではない。積極的に「監視してほしい」と思っている人は多くないだろう。一方で、SNSへの投稿は、自分以外の誰かに「見てほしい」という思ってするもので、これは文化の一つといえそうだ。
自由、気ままに生活をしたいなら、「おひとりさま」の生活スタイルを選択すればいい。
他人と深く関わりたいわけではないけれど、自分の存在を誰にも知られないのも不安なのかもしれない。
「おひとりさま」の暮らしをしながら、食べたものや身に着けたもの、出かけた場所などの写真を撮ってインスタにアップするのは、「ひとりで居たい」けど、「誰かに見てほしい」のだと思う。
「誰かに見てほしい」のだけれど、見てほしいのは本当の自分自身でもないだろう。SNSへの投稿は、誰かに見せる、よそいきの「私」だ。
俳優やモデルではない、一般の人が誰かに見せるための「私」をつくる文化が普及した結果なのかもしれない。この「監視文化」の今後は、興味深い。
悩みごとは、家族や親友など関係が密な人よりも、少し距離のある人のほうが話しやすい。
家族や親しい友人の場合、すでに出来上がった密な関係があるぶん、悩みを打ち明けた後のリアクションを想像してしまう。
近い関係の人には、自分の悩みを知られたくない場合もある。
関係がそれほど密ではない知人のほうが、余計な意見や提案をされる可能性が低く、ただ「聞いてもらって終わり」にできる。
悩みごとの種類にもよるが、すぐに解決できなくても聞いてもらえたらスッキリすることも多い。だから、あえて少し距離のある人を話しの相手に選ぶのかもしれない。
臨床心理士・東畑開人さんの著書「聞く技術、聞いてもらう技術」(ちくま新書)を読んで、
悩みごとを聞いてもらう相手に、少し距離がある人を選んでいた理由が分かった。
「聞く」「聞いてもらう」は、相手の関係性が重要で、その関係によってうまくいったり、いかなかったりするからだ。
「夫が話を聞いてくれない」
「息子の言っていることが分からない」
「部下が自分の話を聞いていない」
これらの「聞く」「聞いてもらう」に関する問題は、相手との関係がうまくいっていないことに起因する。
本書によると、
関係が良好な時には、相手の話を聞けていて、自分の話も聞いてもらっていると感じている。だから、「聞く」「聞いてもらう」について問題視することがない。特に意識することがなく、忘れている。
「聞いていない」「聞いてもらえてない」と感じる時は、相手との関係がうまくいっていない時だ。イライラしていたり、不安や不信があるために、「聞く」「聞いてもらう」がこじれる。
本書では、「聞く」「聞いてもらう」にまつわる問題が発生する背景や理由を、解説している。
「聞く」「聞いてもらう」が上手くいっている時には忘れられ、「聞く」「聞いてもらう」過程で失敗した時に、改めてその大切さが問われるという指摘があり、興味深かった。
本書はタイトルに「技術」と付いており、聞く技術としては、「返事は遅く」「気持ちと事実をセットに」などが挙げられている。相手の話を聞くときに心掛けると良さそうだ。一方、聞いてもらう技術としては、「隣の席に座る」「一緒に帰る」などがあり、これらをすれば相手に話を聞いてもらえそうな気がする。これらの技術を意識して使えば、「聞く」「聞いてもらう」がより円滑にできるかもしれない。
しかし、著者は、これらの「技術」を広く普及することを目指しているわけではない。
これらの技術の紹介する章には、「小手先編」と添えられており、例示された技術はあくまで「小手先」だよと言っている。
これらの技術よりも重要なのは、「聞く」「聞いてもらう」を相互にしあえるような人間関係をつくっておくことだろう。
まず、関係づくりの前提として、上手くいっている時は忘れてしまう「聞く」「聞いてもらう」ことの価値に、改めて気が付いてもらう必要がある。
書籍のタイトルに、あえて「技術」という言葉をつけたのは、上手くいくように「技術」ばかり求めてしまいがちな人々の心理を突いたものかもしれない。本書を読み進めるうちに、「聞く」「聞いてもらう」技術ではなく、「聞く」「聞いてもらう」をやりとりする人との関係性に目を向けさせられた。
「聞く技術、聞いてもらう技術」
「それでは、よいお年を!」
年末に届いたメールに添えられていた一言に目がとまり、考えた。
「よい年」って、一体、どんな年だろう?
新型コロナウイルス感染症の問題が終息すること?
ロシア・ウクライナの戦争や、そのほか世界のどこかで起きている人権侵害や弾圧などの問題が解決すること?
「そうあってほしい」と願うけれど、問題が大きすぎて、私個人にできることはささやかなことにすぎないという気がする。
「よい年」という言葉から沸いてくるイメージからは遠い。
日常生活のほうへ目を向けて、「よい年」を考えてみると、
仕事やそのほかの取り組みが上手くいったり
両親や親せき、友人たちが健康に過ごしていて、
趣味や旅行を楽しむ機会があれば、
一年を振り返って、「今年もよい年だったな」と思える気がする。
「よい年」は、少し意味を広げて考えると「幸せ」ってことかな?
と考え始めた頃、月刊誌「すばる」(2023年1月号)の特集テーマが「2023年の幸福論」と知り、手にとった。この特集では、複数の著者が「幸福」について、様々な角度から論考やエッセイなどを執筆している。
そのなかの一つ、論考「幸せはどこからどこへ向かうのか」(山本貴光・著)では、「幸福論」といえば引き合いにだされる3人の哲学者、
スイスの法学者・哲学者カール・ヒルティ、
フランスの哲学者アラン、
イギリスの哲学者・論理学者バートランド・ラッセル
を取り上げて、紹介している。
さて、いずれの幸福論も、人間とはどのような存在かという観察と考察を示している。
そうした事の次第からして、その全体を要約することはほとんど意味がないくらいだ。
無理を承知で言えば、ヒルティは思い込みや偏見を捨てること、日々の感情や出来事に重きを置かないこと、仕事を典型とする活動に幸福を求めること、などを幸福の条件としている。
同様にアランは、多様なプロポを通じて、概ね二つのことを述べている。
幸福とは自分でなにかを欲したり、つくったりするものだということ。一時的な体の出来事や偶発的なことにこだわりすぎるのが不幸の原因だということ。
(中略)
ラッセルは、彼の主張をこれまた無理やりまとめるなら、自分に没入しすぎるのは不幸のもとであり、自分以外の外界に広く興味を向けて、さまざまな人や物と友好的な関係を結ぶことが幸福の秘訣であるとなろうか。
著者は、これら3人の幸福論を踏まえて、いずれも「自分の状態や感情に注意を向けすぎるのは不幸の源」としている点に注目し、「注意をどこに向けるかという共通点がある」と指摘していた。
メールに添えられていた「よいお年を!」の一言から、「よい年とは?」と自問し始めた私は、まさに自分自身の状態に注意が向いていた。
「仕事が上手くいく」「自分や家族、周囲の人々が健康でいる」「趣味や旅行を楽しむ」など、
「こうなったらよい」と思うイメージを膨らませていた。
「こうなったらよい」というイメージを持つことは、今後の目標を明確にし、その実現に向けて努力することもできるから、必ずしも悪いことではないだろう。
しかし、山本さんの論考を読みながら、
「こうなったらよい」だという状態を強く思いすぎているのは、
危険な側面もあることに気が付いた。
例えば、「こうなったらよい」と強く思い描いていたことが実現しなかった時には、
喪失感を味わうことになるかもしれない。
「なぜ、そうならなかったのか」と原因を考え、その原因を他者のせいにして非難したり、個人の力ではどうしようもない環境に不満を募らせたりすることもありそうだ。
マイナスの感情に囚われて、毎日、もんもんと過ごしていくかもしれない。そういう状態は心地よいものではなく、「幸せ」と思えない気がする。
一方で、「不幸せ」について考えてみると、こちらは「幸せ」以上によく分からない。
これまの人生の中で、「辛い」「苦しい」「悲しい」「悔しい」と思った経験はあるが、だからといって「不幸せ」と考えたことはなかった。
月刊誌「すばる」の特集の執筆者の多くが、指摘していることだが、
「幸せ」とは、何か。
は、簡単にまとめるができない。
「幸せ」とは、
それが何かが分からないまま日々を過ごしていて、
「よいお年を!」なんて言われた時に、
ふと、立ち止まって考えてみるものなのだろう。
子育てをしている友達から、「子どもの一言に、はっとさせられることがある」と聞くことは、よくある。
子どもの発言が、物事の核心をついているように感じたり、
大人が言葉にすることができずにいたことを
子どもにバッと言葉にされて、「それだ!」と気が付かされたりするようだ。
子どもは、自分が知っている言葉、多くの人にとって分かりやすい言葉で発言するから、
それが、大人の心にストレートに響くのかもしれない。
私自身は子育てをしていないので、そうした体験することは少ないが、
母親となっている友達や知人の話を聞いて、幼い子どもとの会話は、大人にとって「哲学」することになるのかもしれないと思う。
哲学の研究者・永井玲衣さんは、学校や企業などで「哲学対話」を行っている。
「哲学」というと、なんだかとても難しそうな印象がするが、
集まった人たち(生徒や社員、一般の人々)が、共通の問いについて、自分の考えを話し、他人の考えを聞くものだ。
考えを闘わせる「ディベート」とは異なり、他人の考えを聞いて、自分の考えを深めていく、時には、恐れずに自分の考えを
変えていくものだという。
著書「水の中の哲学者たち」には、著者が実践した「哲学対話」のエピソードが収められている。
本書の中で、哲学対話の参加者が考える「問い」について、次のようなことが書かれてあった。
ある小学校で哲学の授業をしたとき、子どもたちに、考えてみたい問いを紙に書いてもらった。
全国どこでも相変わらず小学生に人気なのは「なぜ、ひとは生きているのか?」「死んだらどうなるのか?」
「人間とは何か?」で、年齢が上がっていくと「本当の友だちとは何か」「なぜ目上の人は敬わないとならないのか」など、
人間関係の問いに入っていくのが面白い。
高校生や大学生になると「責任とは何か」「平等であることは可能か」など社会正義の問題に集中し、
社会人になれば「なぜ人間関係はつらいのか」など、人生に対する疲労が見え隠れする。
私自身の人生を振り返って、子どもの時、学生の時、社会に出たばかりの頃、その時々でどんなことを考えていたか?
を考えてみると、まさに上記のような問いを考えていたように思う。
歳を重ねるにつれて、問いは、より現実的な内容になっている。
幼いときのほうが、広い視野で物事を見ていて、自分を取り巻く世界をずっと大きく捉えられていた気がする。
冒頭にあげた、大人(親)が子どもの言葉にハッとさせられる経験は、
「哲学対話」の一端に近いものかもしれない。
「哲学対話」は「正解」のない「問い」を考えることだ。
そういう時間を持つ、そういう時間をつくることが、
点数やお金には代えられない価値があるように思う。
どうして、そんなに騒ぐのだろう? 自分に直接関わりがない人たちのことを、ああだ、こうだ、言わなくてもいいのでは?。
週刊誌やテレビのワイドショーで、皇族やその関係者の動向が取り上げられる度、そんなふうに思っていた。
最近は、秋篠宮の長女・真子さんと結婚した小室氏の話題が週刊誌やネットで取り上げられることが多く、 小室さんの母親の金銭問題、小室さん自身の髪型や振る舞い、ニューヨーク州の司法資格試験の合否などの話題があった。皇室に対してそれほど関心が高いわけではない私でさえ、これらのニュースを目にして記憶している。
直接関わりのない一般の人が、自分や家族の動向について、ネット上でああだ、こうだと好き勝手に発言する状況を、ご本人たちはどんなふうに受けとめているのか?
不快だったり、嫌になることもあるのではないか? 皇族やその関係者として注目されることを「辞めたい」と考えた場合には、本人の選択で辞められる仕組みをつくることはできないのだろうか? そんなことを考えたこともあった。
高山文彦著の「ふたり 皇后美智子と石牟礼道子」(講談社文庫)は、前の天皇・皇后(現在の上皇・上皇后)が、熊本・水俣を訪れる機会に、当初予定になかった胎児性水俣病患者との対面を実現したことに注目し、その舞台裏を取材してまとめたノンフィクションだ。
母親のお腹の中にいる時に、水俣病の原因となる毒(メチル水銀)にさらされた胎児性水俣病患者は、生まれても長く生きられなかったり、重度の障害を抱えていたりする。彼らの親や家族も水俣病の症状に苦しんでいたり、差別を受けた経験のある人も少なくない。
当時の天皇・皇后が、どのような思いや考えを持って、胎児性水俣病患者に対面したのか。それは、その機会を調整した関係者や、実際にお二人に会った人々の話から、推し量るしかない。
本書に登場する水俣病患者や彼らを支える人々は、当時の天皇・皇后の言葉や行動に「救い」を感じている。
水俣病の症状に苦しみ、差別に苦しむ人生を生きてきた自分たちの存在を、「ずっと心の中に置いている」「忘れてなどいない」というメッセージをお二人の言葉や行動から読み取り、受けとめている。
私は、本書で紹介されているエピソードを通して、当時の天皇・皇后の言葉や行動が、法律や制度、補償などでは行き届かないところで苦しんでいる人々にとって「救い」や「支え」「力」になったことを知った。
皇族」といっても、天皇・皇后とその他の立場では役割が異なる点があるだろう。また、当時の天皇・皇后の人柄や考え方に依るものもある気はする。 私にとって「皇族」はワイドショーや週刊誌によるバッシングの対象という印象が強かったが、「皇族」という存在の意義や、彼らの役割について考えさせられる1冊になった。
ふたり 皇后美智子と石牟礼道子 (講談社文庫) | 髙山 文彦 |本 | 通販 | Amazon
「今の自分は、本当の自分じゃない」
「親の前、先生の前、友達の前で、良い子を演じているだけで、本当の自分は違う」など、考えたことはないだろうか。
では、自分とは、一体どういう人間なのか?
その問いに対する答えを探して、あれこれ考える「自分探し」をしている人にお勧めの1冊が、「ペツェッティーノ」(レオ・レオニ・著、谷川俊太郎・訳、好学社)だ。
主人公のペツェッティーノは、自分について取るに足りない「ぶぶんひん」だと考えていた。一体、誰の「ぶぶんひん」なのか?
それを確かめようとする。
様々な相手に尋ねるが、皆、自分の「ぶぶんひん」ではないと答える。
疲れ果てたペツェッティーノは、こいしの山から転がり落ちて、こなごなになってしまう。それによって、「自分とは、何か?」が分かるという物語だ。
自分のことを誰かの「ぶぶんひん」と思っていた主人公が、何に気が付いたのか?
答えを得て喜びいっぱいの主人公と、その様子を見ている友達について書かれた、ラストの1頁が素晴らしい。
ペツェッティーノ―じぶんをみつけたぶぶんひんのはなし | レオ・レオニ, 谷川 俊太郎 |本 | 通販 | Amazon