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気ままな読書感想文

【ドキュメンタリーは嘘をつく】ドキュメンタリーを見る覚悟

2010-03-14 23:05:37 | Weblog
森達也さんのドキュメンタリー映画「A」、「A2」を、まだ見ていない。

公開された頃に、話題になっていたことは記憶にある。
ほかの多くのメディアとは異なる角度からオウム真理教の人たちを取り上げた映画だということも知っていた。

しかし、その当時の私は、自分の身の回りにあった事柄で心が塞がれていて、「ドキュメンタリー映画を見よう」という気力がなかった。だから「A2」を見る機会も逃した。

ドキュメンタリー映画を見るには、気持ちの余裕が必要だと思う。

社会的に問題となっているテーマを取り扱っている作品は、見終わったあとにすがすがしい気持ちになれないと予想がつく。
重いテーマを突きつけられ、訴えかけられ、考えさせられても大丈夫な心理的な余裕があり、そういう作業をすることに価値を感じなければ、「ドキュメンタリーを観に行こう」とは思えないものだ。

ところが、最近の私は、ドキュメンタリー映画に興味を持っている。

社会人としてある程度の年月が経ち、さまざまな事柄を受け止めることができるようになった。嫌なことや辛いことがあっても、流していける術のようなものも、ある程度見につけた。そして、ドキュメンタリーを見る余裕ができたのだろう。

森達也著の「ドキュメンタリーは嘘をつく」は、ドキュメンタリーとは何か?について、著者自身が考えながら書いている。

著者によると、ドキュメンタリーは、被写体のありのままの姿を映したものではない。

カメラに録画されるのは、作り手が被写体に干渉した結果である。
被写体にどのような干渉をして、どのような姿を引き出すかという過程には、作り手の作為も存在する。

公平中立な視点は存在しない。存在するのは作り手のエゴ。

ドキュメンタリー映像として被写体を衆人の目に晒すことで、被写体やその関係者を傷つけることもある。それでも公開する覚悟するのが、ドキュメンタリーだという。

こうした事を作り手が強く自覚してつくっている作品であれば、見る側が「見る覚悟」を求められるのが分かる。

作り手が被写体と生身のぶつかりあいをしているのだから、それを見る側にも気合が要るのは当然だ。
コメント (1)
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