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母よ!殺すな |
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生活書院 |
横塚晃一氏の著書「母よ!殺すな」。
この本は、障がい者について書かれた固めの本を読むと、必ず「参考文献」の欄に登場していました。
とてもインパクトのあるタイトルなので記憶に残り、
「障がい者運動の歴史において、とても重要な位置づけにある本なのだろう」。
「きちんと読んでおいたほうがよいにちがいない」。
と思って購入していたのですが、しばらくの間、机の上に「積ん読」状態になっていました。
タイトルからとても重い内容を想像してしまい、手にとるには気合いが必要だったのです。
自分の元気がないと読み通せないような気がして、気楽に読めそうな他の本に浮気をしてしまい、読むのを後回しにしていました。
でも、やっぱり、手に取ろう!
ようやく決意して読み始めたのですが、「もっと早く読んでおけばよかった!」と思いました。
想像していた暗さを感じることはなく、生きることに対するとても強烈なパワーを感じさせられたからです。明るさ、清々しさ、もあるかもしれません。
この本に収録されている横塚氏の発言は、1970年代前半にされたものもあります。
しかし、
障がい者として生きること、
障がいのある人とない人(健全者)との関係、といったテーマは、
時代や社会が変わっても、決して古くないのです。
「今、ここ」で考えなければいけないものだと思いました。
横塚氏は、「我が子の五体満足を願うのはエゴイスティックな愛といわれようとも、親として偽らざる思い」という手紙を書いた婦人に宛てた返信の中で、次のように綴っています。
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自分よりも重い障がいの人を見れば「私はあの人より軽くてよかった」と思い、また知能を侵されている人を見れば「自分は、体は悪いが幸いあたまは…」と思うのです。
なんとあさましいことでしょう。そのように人間とはエゴイスティックなもの、罪深いものだと思います。この自分自身のエゴを罪と認めることによって、次に「では自分自身として何をなすべきか」ということが出てくる筈です。お互いの連帯感というものはそこから出てくるのではないでしょうか。まして、我々障害者とそうでない人との交わりとは? 障害者福祉とは? ひいては人間関係のあり方とは? 先ず自分が罪人であると認めるところから出発しなければならないと思います。その根底に自分の罪悪性を省みることがない限り、そこから出発した障害者福祉とは、強者の弱者に対するおめぐみであり、所謂やってやるという慈善的官僚的福祉とならざるをえないでしょう。
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読んで、少し考えてみました。
人は誰でも、自分のことが大事だと思います。
より良い状態でいたい、満足したい、楽しみたい、という欲求があると思います。
その欲求を満たすために、他人と比べて「自分のほうが良い」とか「自分のほうがマシ」と感じていることもあるはずです。
障がい者だけでなく、最近では、東日本大震災の被災者に対する支援にも通じることだと思いますが、何かをして「あげる」というとき、その背景には、とてもエゴイスティックな感情、罪悪性があるのです。
それを自覚しておかないと、「何かしてあげる」の「何か」は、される側にとって抑圧的なものになりそうです。
もう少し、考えてみると、
障がいのある人、ない人の関係だけでなく、
親子、恋人、友達関係など、すべての人間関係の背景には、自分の欲求を満たそうとする人同士の力関係の「争い」があるといえるのかもしれません。
「○○してほしい」「▽▽であってほしい」「□□すべきだ」。
親が子に、思いを寄せる男・女に、親しくしている友達に、お互いに、何かを求めていると思います。
欲求と欲求のぶつかり合いのなかで、互いに折り合いをつけられれば関係を続けることができますし、切っても切れない関係では、どこかで折り合いをつけなくてはなりません。
でも、ときに、自分が求めるものが得られず、空しくなったり、欲求のぶつけあいの争いに疲れたりすると、相手と関わることさえ苦痛になり、相手から逃げたり、距離を作ったりするのでしょう。
私自身、本当にエゴだな。って思います。
それを自覚して、他人との関係をどうするか? ですね。
一人で生きていくことはできないし、独りでは寂しいから。